【 慈 雨 −やさしいあめ− 】
―――― 音も無く降る、細い絹糸のような雨。
柔らかく触れては、落ちて行く。
触れた体を凍えさせるようなものではなく、全てを流すような激しさでもない。
ただただ、優しく――――
『現代』に帰ったかごめの様子を気付かれずに見守り始めて、十日近く。
ずぶ濡れになって犬夜叉は、楓の小屋に戻って来た。
―――― 向こうの世界でも雨が降っていた。
相手を『知る』為に、ただ側に在(い)て見続ける切なさを犬夜叉は噛み締めていた。
誰に言われるでもない。
『自分』が、認めてしまうのだ。
『違うのだ!』と言う事を。
* * * * * * * * * * * * * * * * * * *
「戻ったのか、犬夜叉?」
小屋の中で一人、囲炉裏の火を見つめていた楓が顔を上げる。
小屋の中には、仲間達の姿はない。
「弥勒達は?」
「ああ、山向こうでちょっと頼まれてな」
火かき棒で囲炉裏の火を熾し、柴を足す。
パチパチと言う、火の爆ぜる音がして勢いが増した。
囲炉裏の側で犬夜叉が胡座を組む。
「妖怪退治か?」
「なに、数は多いが取るに足らん雑魚ばかりよ。あの二人なら、綺麗に片付けてくるじゃろ」
何か話したい訳ではない。
静かで、夜の帳の中に塗り込められそうな沈黙が下りてくる。
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それを破ったのは、楓だった。
「ふふ、妙なものよな。こうしてお前と膝を突き合わせる事になろうとはな」
隻眼に柔らかい光を湛えて、目の前に座す者を見つめる。
「ふん、そりゃ俺の台詞だ。まさか、お前が……」
言葉を続けようとして、言いあぐねる。
「ん? どうした? お前が口篭もるとは」
「……いや、なんでもねぇ」
楓。
初めて会った時は、まだ十にも満たない子供だった。
桔梗の『妹』
もし…、桔梗が『人』として生きていたら。
封印を解かれた時に、楓に叩き付けた言葉を思い出す。
( へっ、お前ぇが桔梗の妹の楓だって!? あいつも老いぼれの婆ぁになっちまったって事か!! )
あの時の言葉が、今 犬夜叉の心に突き刺さる。
『封印』されていたとは言え……、『人』とは異なる『時』の流れを生きている事実を目の前に突き付けられる。
このままだと、『今』の仲間達ともいずれこんな『時』を迎える日が来るだろう。
それでも ――――
もうあの時程、『人』になりたいとは思わない。
『今』の俺だからこそこの『仲間達』に、いや『かごめ』に出逢えたのだと知っているから。
音も無く降る雨が、辺りを柔らかく優しく包んで行く。
「……のう、『時』の流れとは不思議なものよな。そうは思わぬか?」
「ああ……」
「どれほどの憎しみも悲しみも怒りも、いつしか穏やかなものに変えてしまう。それもまた、『救い』じゃな」
犬夜叉を見つめるたった一つの楓の瞳。
微かに、『あの頃』の面影を忍ばせていた。
「楓……」
「……言いかけて止めたのは、それであろう? なぜ、封印の解けた自分を討とうはしないのか? 罵り、憎まぬのかと」
「…………」
パチリ、パチ パチ 小さな音を立てて火が爆ぜる。
「……憎んでは、おったさ。お前のせいで桔梗お姉様は、死んでしまわれた。いやその前から、お姉様がお前に心動かしてしまわれた時から、お前を憎んだ」
「そう…か。そう、だよな」
犬夜叉の顔が翳る。
「たった二人きりの姉妹。私には美しくて聡明で、巫女としての『力』にも優れていたお姉様が誇りだった。お姉様の事はなんでも知っていると思っていた」
壁にゆらゆらと影が揺れる。
「……でも、いつしかお姉様の心にはワシの知らぬ場所が出来ておった。その場所でのみ、お姉様は『巫女』としてではなく、『桔梗』と言う名の娘になる事が出来たのじゃ」
……それは犬夜叉にも、同じ事だった。
やっと見つけた『居場所』
『孤独(ひとり)』でなくとも、すむところ。
寄り添ってなら、生きて行けるかもしれないとそう思った。
「悲しかったよ。置いて行かれたような気がしてな。だからワシからお姉様を奪った男を恨んだんじゃ」
「楓…?」
気が付いたか?
そうじゃ、あの時は『お前』だから憎かった訳ではない。
お姉様を奪った『男』だから、憎かったんじゃ。
―――― ワシもまだ、子供じゃったからな。
「……あんな事になってお前がお姉様に封印され、お姉様は亡くなり気持ちのやり場がなくなったワシは、初めてそこでお前が憎い! とそう思った」
とつとつと、言葉を続ける。
犬夜叉に聞かせる為か、自分自身に聞かせる為か。
「気が付くとな、鎌や鉈(なた)を指が動かなくなるぐらい握り締めて封印されたお前の前に立っている事が何度もあった」
大きく影が揺らめく。
「仕方…、ねぇさ。お前に取っちゃ、俺は桔梗を殺した憎い仇。膾(なます)にされても、文句もいえねぇ」
「……怖かった」
「俺が、か? 封印されてんだ、一思いにやっちまえば良かったのによ」
楓がゆっくりと、頭(かぶり)を振る。
「怖かったのは…、ワシ自身じゃよ。こんなにも、誰かを恨む事が出来る自分。憎む自分。それに気付き、恐ろしさの余りしばらくお前に近づこうとはせなんだ」
聞けば聞くほど、犬夜叉に取っては辛くなる。
しかしその場を立つこともせず、土に雨が染み込むように楓の言葉を聞いていた。
桔梗を亡くし、急遽『巫女』として立った楓はその重い責務に忙殺され、封印された犬夜叉の事を思い出したのは、桔梗の年を一つ・二つ越えた頃だった。
もとより神域を護る為の杜。
犬夜叉を封印してからは、なお一層禁域として誰も近づかぬ場所となっておった。
―――― ここでなら、泣ける。
己の力の無さ、不甲斐なさに。
頼る者もない、この心細さに。
そして、気が付いた。
( ああ、あの頃のお姉様は、今の私よりもっとずっと『孤独』だったのだ。『人』であって、『人並』に暮らす事は許されない身故に )
その身に蔵す類稀なる霊力故に、『四魂の珠』を浄化し続けねばならないお姉様。
ふと、今まで見る事を避けて来た犬夜叉の姿が、別の意味を持って楓の隻眼に映る。
―――― 『人』でもない、『妖』でもない、『半妖』。
行き場の無いお前も、お姉様と同じだったのだな。
そう思って見つめなおしたお前は、人ならぬ美しさを湛えていた。
封印された時のまま色褪せぬ白銀の髪も、頬の色も。
力強い金の瞳は閉ざされ、見る事は適わぬが。
「それから度々、挫けそうになるとお前に逢いに行った。そのうちにな、お前があんな大それた事を本当にしたのか、判らなくなってきた。ワシは確かにこの眼で見たのに、それでもお前がお姉様を手に掛けたようには思えなくなってきたんじゃ」
「楓……」
「確かにお前は乱暴者で、迷惑はしとった。じゃが、そんなに腹黒い事がこやつに出来るだろうかと、そう思い始めたんじゃ」
ふっと、楓の眼が笑う。
「封印されたお前なら、ワシはお姉様より随分長い事見て来た。お姉様を欺けるほど犬夜叉お前、賢くはあるまい?」
真剣な面持ちで聞いていた犬夜叉はがくっ、と体(たい)を崩しそうになった。
「なんでぇ、随分な言い様だな、おい!」
孫を手玉に取る、矍鑠(かくしゃく)とした祖母のような表情で。
「そしてな、ああと得心がいったのじゃよ。お姉様がお前を封印した時、瀕死の重傷の為、浄化するまで至らなかったのだと思っていた。お姉様程の方が高が半妖一人浄化出来ぬとは、と涙したのだが…」
一旦、言葉を区切る。
「違ったのだ。お姉様はお前を浄化しようとした瞬間、ワシと同じ懸念を抱かれたのだろう。それはお姉様も意識されない程の」
もう一度、囲炉裏に柴をほうり込む。
雨はまだ止まず、しっとりとした空気が小屋の中を満たす。
「……いつか、お前の封印を解く者が現れる。ワシはそう確信していた。その者はお姉様の意を受ける者。いや、お姉様の生まれ変わりかもしれぬと、密かに思っておった」
「……それが、かごめ、か」
「ああ、そう言う事じゃ。だが、かごめはただの生まれ変わりではない。お姉様の『望み』を叶えてくれる者でもあろうと、そう思っておった」
「…桔梗の、望…み?」
「かごめを見ていて思わぬか? 一生懸命『自分らしく』生きている、あの姿を。お姉様も巫女などと重い星の許に生まれつかねば、あのように生きられたかも知れぬ」
「……かごめは、かごめだ。桔梗の替わりなんかじゃねぇ」
……そう。
かごめは、かごめ。
桔梗は、桔梗。
同じなんかじゃねぇ。
どっちもたった『ひとつ』の存在。
―――― 選び切れないのは、俺。
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「……ワシはなぁ、犬夜叉。お前にもそう生きて欲しい。長い年月眠り続けるお前を見て来た。最初は切り刻んでしまいたいほど憎い相手として。やがて、お互いの境遇を分かり合える者同士として。だから…、言うのじゃ」
「楓……」
「楽に…、なれ。犬夜叉」
その言葉の意味を、静かに深く受け止める。
……楓は、俺に『桔梗』ではなく『かごめ』を ――――
「……でも、桔梗は今も『孤独(ひとり)』でさ迷っている。奈落に命を狙われている。守ってやれるのは、俺しかいねぇ…」
……可哀想に。
犬夜叉、お前は優しすぎる。
「犬夜叉、あれはお姉様ではない。『死人』じゃ。この世に在ってはならぬものぞ。お姉様としても不本意であろう、あの忌まわしき姿でこの世に留まる事は」
楓の言葉に驚愕の眼を向ける犬夜叉。
「ワシとても、お前を取り殺そうとする浅ましい姿は見とうはない。お前への未練、奈落への恨み。それだけでこの世にあるとするならば、一 刻も早く浄化してやりたい! それだけの力がないのを悔やむばかりじゃ」
犬夜叉は、ぐっ、と拳に力を入れた。
「……楓、本気で言ってんのか? お前、妹だろっっ!!」
「妹だからじゃっっ!! お前に判るかっっ!? 敬愛していたものが、己の拠り所としていたものが、おぞましきものに変わってゆく悲しみがっっ!!」
真っ向からぶつかる隻眼の厳しい眼差しと、強い光の金の瞳。
「……桔梗は、桔梗だ。今はまだ何を考えているか判らねぇが、あいつはちっとも変わっちゃねぇっっ!! 俺は、そう信じるっっ!」
「……かごめをまた、悲しませるのか?」
その一言は、犬夜叉の胸にきりりと突き刺さる。
それでも ――――
「なぁ、楓。お前さっき俺に、かごめのように『自分らしく』生きて欲しいって言ってたよな。ならばここで桔梗を見捨てるのは、『俺らしく』ねぇ。そんなことしたら、もうかごめの側にもいられない。俺の不器用さは、かごめを悲しませるかもしれねぇが」
膝の上の両の拳に力を入れながら、一言一言そう告げる。
「……それなりの覚悟はしておるんじゃな?」
「ああ」
もしここにかごめがいたら、どんな顔をして俺を見るだろう?
怒るだろうか?
悲しむだろうか?
それとも ――――
( そうすれば、桔梗が助かるんなら…、そう出来るのがあんたしかいないのなら、やるしかないじゃないっっ!! )
敢えて、茨の道を選ぶのか ――――
「……変わったな、犬夜叉。強くなって、優しくなった」
「ふん。俺はちっとも変わっちゃねーぜっっ!!」
照れ隠しのように吐き捨てると、横を向く。
少しその顔を赤らめながら。
―――― 変わったよ、お前は。
お姉様の歳を十ばかり過ぎた頃、ワシはお前の姿を見ながらお前の父母を思った。お前の母はどんな思いで、お前をこの世に生み出したのか。お前の父に無理に添わされたのかとも思ったが、お前を見ていてそれは違うだろうと思った。
それほどにお前の姿からは、禍禍しさは感じられない。
幸薄かったのだろうが、それでもお前は『親』に慈しまれて育ったのだろうと、このワシにも判った。
子を思う親の心根に触れたような気がした。
ゆっくり時は流れ、お前の姿はそのままに、ワシの中でやんちゃで悪ガキそのままだったお前は、いつしか孫のような存在になっていった。
五十年前の忌まわしい記憶も遠くなり、それを知るものも稀になり…。
……ワシがおらぬようになれば、何故おまえがここに眠っているのか誰も知る者がいなくなる。
そこに居ながら、お前と言う存在が消えてしまう。
眠り続けるお前。
眠り続ける ――――
「……で、楓!」
ワシを呼ぶ犬夜叉の声に、はっと我に返る。
「ああ、なんじゃ?」
「なんだ、じゃねーだろ? まだ、何か言いたい事あんじゃねーのか?」
心配そうな、そのくせ半分むっとしたような表情。
ふっと、顔が綻ぶ。
「よかったな、間に合って」
「へっ? 間に合った、って何が?」
首を傾げる犬夜叉。
「ワシがおらぬようになる前に、かごめや法師殿のような『仲間』に出遭えて」
「楓……」
ふうぅっ、と大きく息を吐く。
「……それだけが、心配じゃった。お前を残して行く事だけが、な」
何も言わず、触れてる事も気付かない程優しく優しく、慈しみに満ちた光をたった一つの眼に湛えて、犬夜叉を見る。
「俺を…、ずっと見ててくれたのか?」
何も言わず。
すっと、犬夜叉の手が楓の眼帯にかかる。
「……すまねぇ。これ、俺があの時つけた傷だろ?」
その手に皺ばんだ自分の手を副える。
「気にするでない。お前につけられたものか、お前に化けた奈落が付けたものか判らぬでな」
触れ合う暖かさ。
犬夜叉は、すっくと立ち上がった。
「……不器用な生き方しか出来ねぇが、見ていてくれよな。楓婆ぁ!!」
「ほっ、なんと生意気な。さっさっと奈落を倒してしまわぬか! それを見届けぬうちは、極楽に行きたくとも行けぬわ!!」
「へんっっ!! 何とかは世に憚(はばか)る、ってな。長生きしろよ、楓婆ぁっっ!!」
そんな捨て台詞を残して、夜の闇の中に紛れてゆく。
雨はまだ降っている。
―――― ああ、そうだ。
俺はどれだけかごめの事を知っているのだろう?
何も語らず、何も聞かず。
楓は五十年もの間、俺を見ていてくれた。
それが今の俺と楓の関係を作ったのなら、お前を知りたい、解りたいと思うこの気持ちが俺達に、新しい『絆』を作ってくれるかもしれない。
これからの『時』を重ねて ――――
「…また、かごめの所へ戻ったか」
微かに降る雨越しに犬夜叉を見送る。
せめてお前だけでも、『生きていて良かった』、と思える『生』を送って欲しい。
( お姉様も、『時』があればまた違った人生を歩めたであろうに… )
桔梗お姉様、犬夜叉、かごめ。
どんな運命の意図が操っているのか、ワシ如きの眼力では見通す事も適いませぬ。
この降る雨の如く。
ワシに出来る事は、只々こうやって見守るばかり ――――
【終】
2003.10.15
【 あとがき 】
6666番ニアピンゲットのぶーにゃんさんからのリクエストです。
楓さんの視点から見た桔梗・犬君・かごめの関係、および楓さんが犬君
をどう見てるか、との事。後者の方は前々から書きたいと思っていたの
で文章にしやすかったのですが、桔×犬×かごは表現が凄く難しくなる
んです。書き込み不足な感もありますが、これ以上書き綴っても纏まり
を欠きそうでしたので、ここで筆をとめました。
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