【 みつとせ −三年− 】
……四魂の玉が浄化され、かごめは『自分の世界』に戻っていった。
井戸が消えていた三日間、かごめの家族がどれほど心配していたか、帰ってきたかごめを見る皆の顔が雄弁に物語る。
俺もほっとしていた。
かごめを家族の元に帰すことが出来た。
かごめも嬉しそうだった。
家族の元に帰る事が出来たから。
( ……ここがかごめの本当の居場所。かごめの帰るべき場所 ―――― )
井戸から溢れる光の中、引き戻されるような感覚の中で、俺はそう呟いていた。
光が収まり視界が元に戻った時、俺は楓の村はずれの、あのいつもの骨喰いの井戸の中にいた。白夜の冥道残月破に斬られたかごめを引き込んで消えた井戸も、元に戻ったようだった。
ただ一つ違ったのは、もう井戸は俺をかごめの所へ連れていってくれなくなっていた事 ――――
* * * * * * * * * * * * * * * * * * *
骨喰いの井戸は、もともと不思議な力を持った井戸だった。
楓の村では、退治した妖怪の死体を処理するのに使っていたという。妖怪の死体を井戸に放り込んでおくと、いつの間にかどこかに運び去っていてくれるらしい。そんな力を持っていた井戸だから、四魂の玉を身体の中に持って生まれたかごめを、かごめの時代の井戸の中に引き込みこちらの時代に連れてきたのだ。
「心配したぞ、犬夜叉。かごめはどうした?」
真っ先に楓が俺にそう尋ねる。
「……向こうの、かごめの世界の家族の所に送り届けてきた」
「そうか、かごめも無事なんじゃな」
俺を囲んできた他の皆の顔も、安心したような表情になった。楓の陰に隠れていたりんまでも。そして奈落のいない、四魂の玉もない、当たり前で、それでいても少しずつ変わってゆく日々が過ぎて行く。
あの最終決戦で甚大な被害を受けた村も再建されつつある。力仕事に狩り出されたり、退治屋の仕事を手伝ったりして、俺の居場所もこの村に落ち着きつつあった。遥か昔、母を亡くしてから今まで居場所を持たなかった俺が手に入れた、居場所と仲間と信頼、そして強さ。
全てはかごめ、お前に出会えたから。
何も手に入れていなかった時には、強さだけ、力だけが欲しかった。
欲しかったものを手に入れて、それ以上のものの手に入れて、それなのにまだ欲しいと思う。
かごめ、お前を。
だから、俺は待つ事にした。
お前を信じて、待つ事にした。
同じように『待つ』、小さな相方もいたのはついでだ。
「りん、お前、いつまであいつを待つつもりだ?」
「いつまでって…? いつまでなんてないよ、ずっと待ってたって平気だよ。りん、信じてるもん!」
骨喰いの井戸の側、俺とりんの二人は空を見上げ、井戸の底を覗き込み、そんな会話を繰り返す。りんの待ち人は、ひと月に一・二度は訪れる。そして二言・三言、言葉を交わしては、また村から去って行く。俺からすれば、どちらにも蛇の生殺しのような状態に思えた。
「お前さ、本当はあいつについて行きたいんじゃないのか?」
びくっと、りんの肩が震えた。
「……うん、ついてゆきたい。でも、殺生丸様はこの村で色んな事を学べと仰ったんだ」
「学んで、それからどうなるんだ?」
俺の問い掛けに、りんは困ったような顔をした。りんがこの村で学ぶと言う事は、「人らしい暮らし」を学ぶと言う事。琥珀に聞いた話だと、りんの生まれた村は山の中の寒村で、酷く貧しい村だったらしい。早くに親兄弟と死に別れたりんは、村の者から邪魔者扱いされていた。妖怪である殺生丸に付いて行きたくなるほど、酷い目に会わされていたのだろう。今のりんを見ているとそんな影など少しも感じないのだが、でもいざ自分の身を振り返れば、母亡き後の大人たちのあからさまな蔑みや冷酷な仕打ちを思えば、共感出来る気がする。
「まだ、わかんない。だって知らない事が多すぎて、どの位学べば良いのか判らないんだもん」
小さな身体で大きく腕で山を描いて見せて、学ぶ大変さを動作で示す。俺は問い掛けの言葉を変えてみた。
「りんは、この村が好きか?」
「好きだよ、勿論!! 楓様は優しくて物知りだし、色んな事を教えてくれる。弥勒様だって珊瑚様だって、りんの事を気遣ってあれこれして下さるし」
「じゃぁ、ずっとこの村で暮らしていても構わないんだな?」
「えっと…、殺生丸様も一緒なら……」
りんの行き着く答えはそれ。
りんの中の絶対の存在、殺生丸。
( ……俺も似たようなものか。りんにとっての殺生丸は、俺の中のかごめと同じ ―――― )
学んで、それからどうなるんだ? ――――
かごめにも、そう思っていた。
こちらとあちらを行き来しつつ、たくさんの学問書を寝ずに読み学ぶ姿に。ほんの少し前、雪の降ったあの日のかごめの真剣な表情は今も鮮やかだ。『入試』とか言う難関に立ち向かうかごめに俺は、頑張れよとしかかける言葉を持たなかった。
かごめがあれほどの思いで学んだものは、なんだったのだろう?
俺には、わからない ――――
「りんね、思うんだ。殺生丸様って人間嫌いだって邪見様が言っていたんだけど、今はもうそんなに人間は嫌いじゃないかもしれないって。そしたら、もしかしたら殺生丸様もこの村で暮らしてくださらないかなって」
りんの瞳が期待できらきらしている。
「……あいつの考える事だから、俺には判らねぇ。だけど、少なくともお前を預けられる位には、人間を『信頼』してくれるようにはなったんだと俺も思う」
あいつが、殺生丸が人間の村で暮らすはずなどない! と言いかけた言葉を胸に収めそれだけを口にする。
「犬夜叉様もかごめ様を待ってるんだよね? かごめ様はどうして来られないの?」
小首を傾げ、りんが問う。骨喰いの井戸の不思議を話しても、俺にだって良く判っていないのに、幼いりんが理解出来るだろうか? だけど、りんが聞いたらりんはなんと思うだろう。
その思いを聞いてみたいと、俺は思った。
「この井戸は不思議な井戸で、俺たちのいる所と全然ちがう所に繋がっていたんだ」
「全然違う所? この村と山の向こうくらい?」
りんくらいの歳の子なら、そう考えてもおかしくない。
「いや、もっと遠くだ。明日の明日の、もっと先の、そんな場所」
「明日の明日の、もっと先って……、じゃ、今はかごめ様、どこにもいないの?」
「ああ、そうだ。俺がどれほど山を駈け、野を走ってもかごめはいない。四魂の玉が消滅して、かごめは自分の生まれた時代に戻り、井戸は閉じた。だからもう、ここへは来られない」
俺の答えに、りんの瞳が潤み出した。
「犬夜叉様、悲しいよね。かごめ様も……。あんなにもお二人は一緒だったのに、どうして離れ離れになっちゃうの!? りんだったら、そんなの堪んない!!」
「りん……」
「りんも殺生丸様と離れ離れになったけど、それでも時々は会いに来てくださる。これって、物凄く幸せな事なんだね。だから、犬夜叉様とかごめ様もそうならなきゃいけないよ!!」
俺とかごめの為に流してくれる涙が温かく、俺の心をそっと癒す。
が、次の瞬間、俺の背筋に殺気が突き刺さった。
「あ……」
背中が強張る。
冷たい風が吹き抜ける。
りんが俺と話していた事で、気付いていなかったのもさらに機嫌を損ねる原因になっているようだ。
「りん……」
「あっ! 殺生丸様っっ!!」
その姿に気付くなり、りんは俺の横をすり抜け、殺生丸の前へと駆け寄ってゆく。俺たちの為に流してくれた涙は、あっという間に嬉しそうな笑顔に掻き消されていた。
「何を泣いていた? もしや、犬夜叉に……」
りんの笑顔の頬の上に残る涙の痕を見つけ、ぎろりと睨みつけるその視線は、かごめを邪眼で射竦めた曲霊をも凌ぐほど。
「ううん、違うの。犬夜叉様とかごめ様の話を聞いて、悲しくなって勝手にりんが泣いていただけだから」
「話?」
「かごめ様はね、ずっとずっと遠い所にいらっしゃるんだって。井戸が閉じちゃったから、もうこちらには来れなくなっちゃんたんだ」
「遠い所……」
「明日の明日の、もっと先の所なんだって、かごめ様がいらっしゃる所は」
りんの言葉を聞き、殺生丸が俺に向かって一言呟いた。
「……だから、お前は『待つ』のか。時を渡るために」
「殺生丸……」
りんにはそこで待てと手で示し、音もなく俺の側に寄ってきた。りんの耳を気にしてか、潜めた声は、俺の耳でようやく聞き取れるほど。
「先か後かの違いだな、私とお前では」
「なに?」
「かごめの時代がどれほど先かは知らぬが、お前はかごめを信じて時を渡ってゆくつもりなのだろう」
「ああ……」
「それを辛いものだけにするかどうかは、お前の心次第。半妖のお前でも、あの父上の血を受け継いだ者ならば、誰かに殺されでもせぬ限り後四・五百年は生き延びよう」
そう言い置いて、すっと視線を後ろで待たせているりんへ向けた。そこで俺は、はっと気付いた。
「りんを楓に預けたのは、人らしい暮らしをさせようとしたのは、そう言う訳かっっ!?」
楓に聞いた、りんを預かった時の殺生丸との遣り取り。
―――― どちらでも選べるように、と。
りんに何を選ばせるつもりなのか、そこまでしてりんの『望み』を叶えてやりたいと思う程に、りんは殺生丸に取って大事な者。『待つ』時が、俺より辛いのは殺生丸かもしれない。
「……………………」
「りんが人里の暮らしに馴染み、お前を必要としなくなる時を、お前は待っているのか?」
「それでりんが幸せになれるのなら、それでいい。あれの悲しむ顔を見たくないだけだ」
表情を変えずに、淡々と今までなら口にしなかった言葉を口にする。
「嘘をつけ。お前、りんに選ばせるつもりなどないだろう。こうして足繁くりんの元にお前が通って来る以上、りんがお前を想わない訳がない。それとも今のお前は、りんの父か兄のような気持ちで通っているのか? ならば邪見でも十分間に合う話だ」
「お前に指図されるいわれは無い」
無愛想なままの、吐き捨てるようにそう言う。その声の調子に、ふと、殺生丸にも自分の本当の気持ちがまだ判っていないのかもしれないと俺は思った。りんが大事、『守りたい者』と意識しても、それがどんな形になってゆくものなのか。
だから、りんに自分の『未来』を委ねたのかもしれない。委ねきれない気持ちを、らしくない行動に表して。
俺がそんな事を考えている間に殺生丸は、りんに何やら渡し、そして空に浮かぶとりんの前から去っていった。
「先か後かの違い、かぁ……。そうだな、りんがこの先あいつの手を取ったとしたら、どれだけあいつと一緒にいられるのだろう? おふくろが死んだ時、周りの人間は妖怪だった親父の妖気に中ったのだと言っていた。半妖の俺と違って、殺生丸は完全な妖怪。ましてや刀々斉が言うには親父越えをした、大妖怪の中の大妖怪」
殺生丸の去って行った空に向かって、未だ手を振り続けているりんの姿を見る。
「ただの人の子のりんには、荷が重過ぎる。それをあいつは慮っているのかもしれねぇな。ましてや親父と違って、猛毒も身体の中に飼っているような奴だ」
近くにあっても、共に手を取り合ってしまえば、『その時』を短くしてしまう二人なのだと俺は理解した。希望を持って渡る長い時か、思い出を抱いて歩いてゆく『それから』の時なのか。
「なぁ、殺生丸。どんな形でも、俺達らしく後悔のない生き方をしようぜ」
俺はもう、姿も見えない空に向かって、そう呟いた。
* * * * * * * * * * * * * * * * * * *
優しく時は流れてゆく。
弥勒と珊瑚は父となり、母となった。
七宝も、毎年狐妖怪の昇級試験を受け、一段一段子狐妖怪から狐妖怪らしくなってきた。
琥珀は妖怪退治屋の末裔として、人に徒なす妖怪を退治る為にあちらこちらを飛び回っている。
りんも、楓の元で色々学んでいる。炊事や裁縫の事だけでなく、薬草見分け方や使い方や病気・怪我の手当ての法や、知っていれば必ず自分の身を助けてくれることを。村の産婆も兼ねている楓の手伝いで、命の生まれる場にも何度も立ち会わせた。小さな命をどうやって育んでゆくかも。それが一番、楓がりんに授けたかった知識かもしれない。
俺は手が空くと、いつも井戸の側に行き飽く事もなく中を覗きこむ。時には、井戸の底に下りてみて、跳んだり匂いを嗅いだり、底土を掘ってみたりもする。最近は、弥勒に言われた瞑想とか言うものもやる。井戸の底で胡坐をかいて、一心に井戸が通じていた頃の感覚を思い起こす。だけど、途中でかごめの顔が浮かんできて、瞑想できずに終わる事が多い。
「かごめっっ―――― !!」
井戸の側にいた七宝とりんが、びっくりして顔を見合わせた。
「なんじゃ、犬夜叉の奴。また井戸の底に下りておるのか」
「犬夜叉様、姿が見えない時は大抵井戸の底だよね」
「楓お婆の話じゃ、この井戸の中にいるとどこか知らん所に連れてゆかれるらしいぞ」
「知らない所って、かごめ様の所?」
「さぁ、オラもようは知らんのじゃ。多分、そうではのうて、危ない所じゃと思う」
七宝がそんな事を言いながら井戸の底を覗き込んでいる間に、りんはいつの間にか来ていた殺生丸の所へ駈けて行く。
そんな風に日々は過ぎて行き、そして三年目。
春先の風は開き始めた桜の香りだけではなく、懐かしく愛狂おしい匂いを一緒に運んできた。衝動的に駆け出す足と、早鐘のように打ち続ける胸の鼓動。期待と震えがくるような思いで、井戸の中に手を差し伸べる。俺の手を握り返す、柔らかく温かな手。
「来ちゃった、犬夜叉」
俺の手は、しっかりとかごめの手を握り締めていた。かごめの、『来ちゃった』の一言の重みを俺は知っている。家族も、友人も、学び舎も、かごめの時代にあるかごめが大事に思っていたもの全てを置いて、俺の所に来てくれた事を。
井戸はかごめを俺の所に届けてきてくれて、それからまたその道を閉じてしまった。
それを承知でかごめは、俺の所へ来てくれた。
それからまた暫くして後、殺生丸に視線で人気のない所に呼び出された。
「……かごめに、義兄と呼ばせるな」
「俺だって、呼んで欲しくねぇ」
りんの所に来た帰り、空を行く殺生丸を見かけてかけた一言が、事もあろうに
『お義兄さ〜ん!!』
だったのだ。俺に取っても物凄くイヤな響きで、その一言で俺たちの関係もあいつの知る所となってしまった。
「待っていれば、お前から会いに行ったものを……。数百年の時を越えて。そうすれば、かごめは何も無くす事はなかった」
「……待ってたさ、俺もかごめも。だけど、全てを無くしても、かごめは俺に会いたいと願ってくれた。俺も会いたいと願った。その結果だ」
次に殺生丸が言う言葉が、俺には予想できていた。
「……人の生など、ほんの一刹那。過ぎてしまえば、その先にあるのはまた独りの時。かごめの代りになるような者が現れる、その時まで」
「その言葉、そっくりお前に返すぜ殺生丸。俺はかごめの代わりなんていらねぇ。お前だってりんの代わりがいるなんて思ってねぇだろ?」
「犬夜叉……」
これを言ったら、それこそ殺生丸の爪で引き裂かれるかもしれないと思いながらも、俺はこう言わずにはいられなかった。
「認めたくないけどさ、俺たちやっぱり似てるのかもな。大事な者・守りたい者と一緒にいられる時は短くても、その想いはこの胸にずっと残っている。長い時の旅の道連れに、この思いを抱いてどこまでも歩いて行く」
「………………………」
「お前も言っていたじゃねぇか、俺たちの心次第だと。それに俺には大事な役目がある」
「役目……」
「ああ。かごめが俺の所に来てくれた替わりに、今度は俺がかごめの家族の所に、かごめは俺と幸せに暮らしたと報告に行くんだ」
一瞬、殺生丸の表情が動いた。身構えた俺の眸に映ったものは、微かな殺生丸の笑み。その笑みにどんな意味が込められていたのだろう。
「そうか。私には関係ないな」
それ以上はもう何も言わず、殺生丸は帰って行った。
そして、それから更に三年後。
全てを理解し受け入れ、覚悟を決めたりんが殺生丸の手を取り、楓の村を後にした。
殺生丸がらしく生きるには、人間の村では無理なこと。人の暮らしを捨ててまで、付いて行きたいとりんは強く願ったのだ。漂泊を常にする妖怪ゆえに、これからのりんの行く先は定まる事のない旅の日々。それでも常に共にいられる幸せを、りんはとても喜んでいた。
「遠くにお嫁にやったと思えばいいじゃない」
村を出れば、そうそう会うこともままならないだろうりんを思い、かごめが村に残った皆にそう言う。同じ言葉を贈られて、かごめもここに来たのだろうと俺は胸を熱くする。何度も阿吽の上で頭を下げるりんを、かごめが俺たちの間に生まれた赤ん坊を胸に抱き、穏やかな優しい笑顔で見送っていた。
三年 五年 十年 二十年。
確実に俺たちの上を時が流れ去ってゆくだろう。
腕の中の大事なものも、いつかは時の流れに ――――
だけど、共に刻んだ時の思い出は、色褪せる事無く俺の中に在る。
これから先のどんなに長い時も、過ぎてしまえば全て俺の中に。
触れる事も、言葉を交わす事も出来なくなっても、お前はずっとここにいる。
俺が生きている限り ――――
【完】
2010.2.16
= あ と が き =
アニメ18話「人生の一大事」を視聴しての、そして原作のラストを知っているからの突発SSです。
原作完結時には、殺りん視点でのSSを書いていました。
今回は犬夜叉視点で書いてみたくなったのです。
かごちゃんが『時空を越えた少女』だからこそ、私はこんなにも惹かれたのかも知れません。
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