【 霧 雨 −ひそかあめ− 】





 しとしとと、音もなく降る初秋の霧雨。

 あたりの景色を、まるで唐渡りの山水画を見るような深遠とした風景に塗り替えている。
 日が暮れて、少し肌寒さが増してきた。

 そう、いつもなら ──────

「…そう、ですね。いつの間にか、自分の周りに誰かが居てくれる事が当たり前になっていたようですね」

 誰も居ない小屋の中を見回し、一人ごちる。

 かごめ様が『二週間』と日にちを区切り、国に帰られてから何かと荒れている犬夜叉に助言を与え(…入れ知恵をと、人の言う)、あちらに行かせるようしたので、しょっちゅう犬夜叉の姿が見えなくなる事は仕方がない。
 楓様も今日は、村の若嫁の初産の手伝いに駆り出されている。

 そして、珊瑚は ─────

 頬を撫でさすりながら、回想を続けた。

 丁度、楓様が出掛けた後に隣村から使いが来たのだ。
 なにやら妖しいものが、夜な夜な村を徘徊している。御祓いをして欲しい、との事だった。
 私と珊瑚は、それではと言って立ち上がった。

 そう、実は二人とも退屈していたのだ。

 詳しく聞くまでもないと私は思っていたのだが、(…実際、隣村に起きている変異など、高が知れていた。この私が、小物程度の妖気しか感知していなかったのだから)、珊瑚が隣村からの使いの話を詳細に聞いている間が、誠に退屈だった。
 使いの者は事細かに話そうとする為、次第にその小物はトンでもない大物にさえ変化していった。
 そして、あまりの手持ち無沙汰につい、私の手はやってしまったのだ。
 私の目の前には、それは魅力的な珊瑚の尻。

 ぱーんっっ ──────

 小気味よい音が響く。

「あ、あの…」

 使いの者が呆気に取られている。

「じゃ、行こうか。話を聞けば、あたし一人でも大丈夫だし。どうする、七宝? 付いてくるかい? 妖怪退治が終われば、きっと御馳走にありつけるよ」

 わざとのように、そう七宝に声をかける。 このすっきりしない雨に振り込められて、くさくさしていた七宝に嫌はない。
 一つ返事で付いてゆき、後に残るは、この私。

「 ─── さて、楓様も何時になるか判らぬし、犬夜叉もこの刻限まで戻ってこないと言う事は、また一晩中かごめ様の様子を伺うつもりであろう。珊瑚も…」

 珊瑚の腕なら、もうとっくに妖怪退治は終わっている頃だろう。
 その後は、隣村で御馳走に呼ばれて村長の屋敷にでも泊めてもらう腹積もりか。
 たまの贅沢だ。

 まして、身銭を切る訳でなし。

「ふむ、今宵は私一人、という事かな」

 こんな風に、一人で過ごす夜はもう随分と久しい気がする。あの単身独行の旅の日々が、嘘のようだ。

「取り合えず、夕餉の支度でもしますか」

 そう呟きつつ、土間に下りる。
 かごめ様が国から色々運んでくださるので、戦国の世であっても食事は豊かな方だろう。特に味覚に関しては。

 犬夜叉に手伝わせて運び込んだ米も二斗(約36kg)ばかりあり、何よりも貴重な塩や珍品の砂糖や醤(ひしお・醤油や味噌の素)などもある。南蛮渡りのこしょうやかれい粉などもあるので、なかなか刺激的な食事も楽しめる。

 なんでも『れいぞうこ』とか言う物がないので、持ってきたい物の半分も持って来れない、とはかごめ様の言葉だ。
 自分だけしか食べないかも知れないのに、白米を使うのは贅沢に思え、粟や稗の中に一掴みだけ米を混ぜる。それを釣り鍋の中に入れ水を張り、これもかごめ様が持ってきた「和風だしの素」とやらを振り入れ、醤を溶き入れる。
 炉に火を入れ、煮立ってきたら有り合わせの残り野菜と卵を入れれば出来上がり。

( まあ、酒と干魚でもあればそれでも済むのですがね )

 碗によそい箸を付けるが、進まない。

( …独りとは、こんなにも味気ないものだったんですね )

 自分でも、少し情けないような気がした。
「今」、この場に居ないだけなのだ、あの仲間達は。

 それなのに ──────

 表で、人の気配がする。

「おや?」

 食べる気の失せた碗を下に置き、戸口の簾の方へ視線を向ける。
 程なく、この小屋の主である人物が入ってきた。

「なにやら、良い匂いじゃのう。すっかり遅くなってしまって済まなんだな、珊瑚…」

 と、言いかけた言葉が途中で途切れる。

「お疲れさまでした、楓様」

 小屋の中の私と囲炉裏にかかった鍋と、まだうっすらと私の頬に残る手形を見て、楓様は状況を読み取られたようだった。

「…またかのぅ、法師殿。して、珊瑚はどこに?」
「楓様がお出かけになられてからすぐ、隣村より御祓いをして欲しいと使いが参りまして…」
「そうか…。まあ、良い。夕餉は済んだのか、法師殿?」
「ええ、たった今。で、どうでした? 母親と赤子の様子は?」

 楓様は手にしていた荷物を上がり框(かまち)に置き、身に付けていた蓑や笠を外し、戸口に立てかける。

「おお、稀に見る安産であったぞ。あの若嫁は村でも評判の働き者じゃからのう、母子とも元気そのもの。産まれた子が、これまた丸々と太った玉のような男の子じゃ。爺婆が狂喜乱舞しとったわ」
「そうですか、それは良かった。産まれたばかりの赤子は、大人が失くしたものを全て持っていますからね。まさしく、宝です」

 楓様の隻眼が、不思議な光を湛えて私を見ているような気がした。

「どうじゃな、法師殿?」

 そう言って楓様の手がくいっ、と怪しげに動く。

「般若湯(酒の隠語)、ですか?」
「御神酒じゃよ。今日の酒は祝いの酒じゃからな」

 そう言って、上がり框の荷物をほどく。
 中から現れたのは五合の徳利が二本と心尽くしの酒肴の折りと。

「喜んで、お付き合いいたします」


  * * * * * * * * * * * * * * * * * * *
 

 夜になっても、雨は上がりそうにない。

 囲炉裏の炎がちろちろと肌を焙るのが、心地よい。
 誰かとこうやって酒を酌み交わすのも、随分と久しい。
 独りで飲む酒よりも、こうやって飲む酒は喉を落ちる時も優しい。

「のう、法師殿」
「はい?」
「お主は何故、身を固めぬ? 儂(わし)の眼には、お主は良き父親になれると思うのじゃが」

 その一言で、喉を通る酒が心に突き刺さる。

「…このような性格でして。一人の女性だけに腰を落ち付ける事が出来ぬ質(たち)なのですよ。それに ───── 」

 右手の封印の数珠を握りしめる。

「儂とて、判らぬではないぞ。だが、それがお主の本来の在り方ではあるまい? 数多の女子と浮名を流すばかりの極楽トンボではないであろう。違うかな、法師殿」
「極楽トンボ、ですよ。私は。もともとが女好きの家系ですし」

 ふうぅ、と深いため息をついて頭を横にふる楓様。

「…儂の眼にはのう、お主がまるで深い谷底を覗き込みながら、その崖っぷちでわざと浮かれ騒いでおるように見えるのじゃよ。お主には、お主を支えてくれる者が必要ではないのかね?」
「………………」

 辛酸を舐めてきたこの老巫女に、嘘はつけまい。
 見透かされている、とそう思う。

「…楓様も、酷な事を言われる。明日をも知れぬ身でありながら、伴侶を持てば不幸な人間を増やすだけです」
「じゃが、子は欲しいのであろう?」

 ぐっ、と声が詰まる。
 女性を口説く決まり文句ですよ、と流す訳には行かないようだ。

「…お主は知っておるのであろう? 己の『命』が、己だけのものではないと言う事を。父母より受け継ぎ、子らに渡してゆく大事なもの。生かされてある『命』であると言う事を」

 そう、その通りなのだ。
 この忌まわしい『呪い』さえなければ。

「楓様。私は母の顔を知りません。話に聞けば、さる高名な尼寺の庵主であったそうです。どんな経緯で父と知り合い、通じたのか。おそらく、その為が故に寺を出る事になったのでしょう。寺を出て人知れず私を産み、そのまま亡くなったとの事です」
「法師殿…」
「その後、再びその地を訪れた父に母縁(ゆかり)の者がそう言って、私を託したそうです」

 私は手にした杯の酒を一気にあおった。

「…楓様。私は、私の子を産んでくれる女性には、私の事などきれいさっぱり忘れ去ってくれて、子供など産み捨ててくれるような者を望んでいるのですよ」
「なんと、まあ…」

 杯に酒を満たす。
 出来た小さな水鏡に、悲しげに歪んだ顔が映る。

「…誰も、不幸にしたくはないのです」

 ふううぅ、と大きくため息を付く楓様。

「…お主がそのような考えでは、どれほど女性と一夜を共にしようとも、子は授かるまい」
「楓様?」
「…子は、知っておるのじゃよ。自分の行くべき所をな。本当に自分を望んでくれる者を」

 楓様の皺ばった手が、私の手を包む。
 言葉に出来ない想いを、伝えるかのように。

「法師殿、お主の母は本当に不幸だったのじゃろうか? 父が望み、母が望む。だからこそ、お主が今ここに『存在(ある)』のではないのかのう」
「楓様…」
「確かに、法師殿が父母より負わされた運命(さだめ)は重く、過酷なものであろう。だが、お主そのものが『希望』ではないのか? この世に存在する全ての『命』は、尊く侵さざるべきものだと儂は思う」

 …多くの命を訳なく散らされてきた楓様だからこそ、言える言葉かも知れない。

「法師殿の側に、共に生きたいと言う者が居るのではないのか? それは得難い仲間達かも知れぬし、愛しい誰かかも知れぬ。その者の為に、己の『命』を生き抜くのも男の甲斐性ではないかのう」

 楓様の言葉が、最上の酒のようにゆっくりと心を酔わせている。

 

 ──── そう、いつも何処か心の隅で思っていた。

      自分など、生まれてきてはいけなかったでは、と。

      風穴の音を聞く度に

      本気で人を好きになってはならぬと戒めた。

 

 
 それが、失くしたくはない仲間であればなおの事。
 
 でも、それならば…。

 

 生かされて生きる『命』ならば、私がどう足掻こうとそうなのならば、『今』を精一杯生きてみよう。
 『終わり』はいつか必ず来るのだから、その時まで悔いなく。

 
 ──── 自分の『心』に、素直に。


「ああ、済まぬのう。なにやら、固い話になってしもうて。ささ、酒を。まだ、たんとあるぞ」

 楓様が包み込んでいた手をほどき、酒を勧める。

「いいえ、あの連中がいたらこんな話は出来なかったでしょう。お陰で踏ん切りがついたようです」
「法師殿?」
「もう少し、自分に素直になってみようと思います」

 楓様の酒を受けながら、私は心からの微笑みを浮かべた。
 降り続く霧雨の優しさが、心の中に染みてくる。

 
 音もなく降り続き、乾いた心を潤して。

 
 * * * * * * * * * * * * * * * * * * *
 

 優しい雨の気配に消されてもう一人、その場に佇んでいた事に弥勒も楓も気付いてはいなかった。

 
 今日の戦利品を懐に、愛猫を足元にまとわりつかせた退治屋の娘。
 愛猫が声を立てぬようその口許に指を立て、そっとその場を離れた。

「ねえ、雲母。もし、法師様が望んでくれるなら、子供なんてあたしが何人でも産んであげるのにね」

 珊瑚の足元で、雲母がにゃあと鳴いた。
 火照った珊瑚の頬を、ひそか雨がしっとりと濡らしてゆく。

 珊瑚が雲母を抱き上げ、純粋なその瞳を見つめる。

 
「いいかい? だけど、これはあたしと雲母だけの秘密だからね」

 
 そうして、珊瑚はまだ七宝が眠っているであろう隣村の村長の屋敷へと取って返す。

 
 明日、何食わぬ顔で法師の許へ帰る為に。

 

 この雨も、明日の朝には晴れているだろう。
 二人の心を潤す、ひそか雨 ──────

 


【了】

 



【 あとがき 】

…半年近く寝かせていたネタでございます。私が犬夜叉の二次創作を始
めたのは2002年の11月頃からなので、その頃はまだ30巻のよう
なプロポーズシーンがあるとは予想もしていませんでした。
かごめちゃんが二週間実家に帰っている間の、サイドストーリーとして
プロットを立てていたのですが、その時は珊瑚ちゃんの方からあの台詞、
『何人でも子供を産んでやる!』と言って、逆プロポーズするような設
定だったのですが…。

何はともあれ、腐る前に日の目を見せる事が出来たようです。
後、雨の夜と楓ばあちゃんと犬夜叉で、というバージョンもあります。
いつかお披露目しますね。




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