【 相生相剋 】



 その姿をりんが目にしたのは、二度目。
 最初はあの天空の城に住まう殺生丸の母に会った時。
 そして、今 ―――

 りんの知る殺生丸は、いつでも強い。決して負ける事など、りんには考えられなかった。考えられない考えたくも無いのに、目の前のほんの少し前の姿にりんの胸はきゅうと痛くなる。天生牙は殺生丸にあの後、腰の鞘に収めてもらった。冥道残月破を犬夜叉に譲った天生牙は、昔の切れぬ刀に戻っている。
 丸腰のまま素手で得体の知れぬ相手と闘い、相手の鋭く邪悪な触手で残った右腕までも何箇所も貫かれ、酷い有様。

「殺生丸様っっ…!!」

 心配のあまり声をかけようとして、それは自分が殺生丸の強さを信じてないような気がしてりんは言葉を飲み込む。飲み込まれた言葉は、触手に障って倒れた琥珀やそのバケモノの眼光に中てられたのか、身動きのできなくなったかごめへかける言葉に変えた。

( 信じているから! 殺生丸様は絶対負けないって、りん信じているから!! )

 りんの思いに呼応したように、殺生丸の金の眸が血色に変わり頬を彩る妖線はより鮮やかに浮き出し、端麗な容貌は妖怪の本性を顕にした凶暴な様相。異母弟である犬夜叉でさえ、殺生丸の妖犬姿を見たのはこれで二度目だった。そのどちらの時も、互いが互いを殺しあう死闘の場。虚を突かれた相手の首を鋭く大きな牙で食い千切った。

( 殺生丸様っっ!! )

 食い千切られた相手の体から噴出す瘴気。動けぬかごめと琥珀の身を案じて、犬夜叉が叫ぶ。変化する前に、殺生丸が琥珀を連れてこの場を去れと言った訳はここにあったのかと、琥珀を抱えりんの乗る阿吽に同乗した弥勒は思う。

「邪見様、おいてきちゃった」
「あの人は大丈夫でしょう」

 弥勒もこの場で、あそこに戻る事の危険性を考えそう言うしかない。その考えが正しいといわんばかりに、そのバケモノは殺生丸に首を食い千切られた体から噴出した瘴気を触手に変化させた。琥珀の欠片を狙い、阿吽ごと掴み締めようとする触手を犬夜叉の鉄砕牙が両断する。ほんの一瞬の隙で、こちらの首を取られかねない。

( 闘い方も生命力も、奈落と同じ…。だけど、あれは奈落とはあきらかに違う! )

 弥勒が気付いた、『気になる事』。奈落に惨殺された巫女・瞳子の言葉と楓の言葉。かごめの本来の霊力を封じている何か。

( 四魂の珠の邪な部分が、かごめ様の霊力を恐れ――― )

 かごめの体の中にあった『四魂の珠』、桔梗の全身全霊なる浄化の力で清められ、奈落であれば触れる事の出来ないはずの琥珀の欠片を穢したものの正体……。

 それは ――――

「……なんか嫌だ、あれ」
「どうした、りん?」

 阿吽の背の上で、りんの呟きを弥勒が聞きとがめる。りんはそう思ってしまった自分を持て余してしまったのか、自分にとって絶対唯一の存在である殺生丸に感じた違和感を拭いたかったのか、ぽつりぽつりと言葉を紡ぎ始めた。

「前に見た時には、あんな怖いお顔じゃなかったのに…。あいつに似てるような気がしたりんがきっと馬鹿なんだけど、でも……」
「りん……」

 りんの言葉に引っかかりを感じた弥勒は、犬夜叉のお陰で体制を整えなおした上空から闘いの場を俯瞰した。犬夜叉と妖犬化した殺生丸の間に巨大化したバケモノの首のない胴体が立っている。上半身に無数の瘴気の触手を蠢かせ、隙あらば一気にその触手で貫こうと構えている。
 殺生丸の顎門に銜えこまれたバケモノの首も変化しつつあり、殺生丸の攻撃がなんら痛手を与えていなかった、借り物の体などいくらでも壊せとうそぶく。その僅かなやりとりの間に、醜悪な変化をしたバケモノの首が殺生丸の鋭い牙の間から醜く這い出し、じわりと延びた瘴気の触手が殺生丸の妖犬体を緊縛し始めた。

「てめぇ、なんなんだ!」

 嫌なものを感じた犬夜叉が、バケモノの首に怒号を飛ばす。
 その声に、殺生丸の体をますます締め上げながらバケモノの首は答えた。

「聞くなら答えよう。わしは…、曲霊」

 轟々としたその場の大気の震えの中で、弥勒の耳にも首の言った言葉は聞こえた。

「曲霊…、そうか。そうだったのか!」
「法師様、それじゃ……」

 上空待機組の弥勒と珊瑚が互いの顔を見合わせる。桔梗の元に四魂の珠が渡る前は、妖怪退治屋の里に四魂の珠はあった。犬夜叉や弥勒が四魂の珠の謂れを聞いたのは、長の娘である珊瑚からだった。その折に弥勒自身が口にした言葉なのだ、『曲霊』とは。

「法師様、『曲霊』ってなに?」

 言葉の意味がわからなくて、弥勒の顔をりんが下から見上げる。

「曲霊とは、四魂の働きの逆相の事だ」
「逆相…?」

 ますます言葉の意味が判らなくなって眼を丸くするりんに、どう説明しようかと弥勒は言葉を捜す。

「天地の昔より、この世に在る全てのものに『四魂が宿る』と言われている。四魂と言っても、りんの様な幼い子にはわかるまいな」
「法師様……」

 あまり悠長な事をしていられる状態ではないのに、なぜか弥勒はりんにその事を判らせよう、伝えようとしたくなっていた。

「お前に判るように言えばそうだな、一つ目は勇気と力だ、二つ目は知恵、三つ目は親しみ、そして四つ目が愛おしむ事」
「うん、それならなんとなく分かるよ。りん」

 りんが指を折りながら、弥勒の言葉を反芻している。

「これが正しい働きをする時、勇は困難にも負けず戦い先に進む事が出来る。知恵はそれをもって人を助け、より良い状態を作り出す方法をもたらす。親は皆が仲良くしてゆくのに必要なもので、愛しむことで癒し育むことが出来る」
「じゃ、これが逆の場合は…」
「ああ、勇は力を持て余し殺戮や破壊につながり、知恵は人を騙し貶め心を踏みにじる。親は親しくなるほどに相手の事をきちんと受け入れるだけの心が無ければ、相手を憎む事にすらなる。愛しむ事もまた似たり。相手を思う事よりも我の勝る愛情は、自分にとっても相手にとっても毒にしかならぬ」

 そう噛み砕いてりんに語りかけるうちに、ふとそれは桔梗を梓山で殺した奈落そのものの姿と重なってくる。それと、もう一人。奈落とは別の方向で重なる姿がある。

( なるほど…。りんが嫌がった訳だ。その身に宿った力も知恵も親愛も最上のものであったとしても、どちらに転がるかは置かれた状況次第。天の理を表す五行の相生相剋と同じく、それもまた世界の相 )

 弥勒は自分が初めて出会った頃の殺生丸を思い返して、そう納得した。思えばあの頃の殺生丸は相剋の相だったのだろう。全てが悪い方に影響してゆく。自分にだけではなく、周りにも。

「りん。お前が殺生丸と出会ったのは何時の事だ?」
「何時って…、うん! 殺生丸様がとても大きな怪我をして、りんの住んでいた村の裏山に潜んでいた頃だよ。りん、どうにかしてお世話したくて色んなものを持っていったんだけど、何も食べて下さらなくてね」
「大きな怪我…、犬夜叉が風の傷を会得した頃か? りんお前、傷だらけの殺生丸は怖ろしくなかったのか?」
「う…ん、怖かった、かな? りんを睨んでしゃーって脅かしたし、でも……」
「でも?」
「……死んで欲しくなかったんだ。何故か分からないけど。人じゃないのは分かってたし、怖ろしい妖怪だろうなって言うのもね。でも、もう誰もりんの目の前で死んで欲しくなかったんだ」

 りんはその頃を思い出しながら言葉を続ける。瞳を伏せたりんの横顔は、幼い少女とは思えない不思議な美しさが滲んでいた。あどけなさと脆さと孵化する前の蝶のような何か。

「りんね、そのすぐ後で妖狼に首を噛み裂かれて死んじゃったんだ。だから……」

 そう言って、妖犬化した殺生丸の口元に一瞬視線を走らせ、またすぐに伏せる。

「そうか、その後りんは殺生丸の天生牙で生き返り、そのまま後を付いてゆくようになったんだな」
「そう。孤児のりんは村のお荷物だったし、村の皆も狼に食い殺されてたし、もう帰るところもなかったんだ。それなら、自分がついて行きたいと思った殺生丸様の後を追ったんだよ」


 殺生丸とりんの出会いは、一つの奇跡。
 相剋を相生に転じさせ、殺生丸の中の曲霊を抑えさせたのだ。


「法師様、あれっっ!!」

 珊瑚の切迫した叫びに、弥勒とりんが珊瑚が促した方へと視線を走らせた。二人の眼に映った光景は、曲霊の巨大な禍爪にしっかりと握り締められ、瘴気の毒で侵されている殺生丸の姿。美しい白銀の毛並みは瘴気の毒に焼かれ、血肉の混じった茶赤色に染まり嫌な臭いが辺りを包む。

「嫌っっ――!! 殺生丸様っっ!!」

 りんの叫びが聞こえたのか、殺生丸の金の獸眸が一瞬りんの姿を捉えた。が、すぐにその視線は外され、代わりに厳しい隔絶したような気を送ってくる。

「何してる! 弥勒、珊瑚!! 早く、かごめや琥珀を安全な所へつれて行け! ここは俺達二人で治めてやるっっ!!」

 言葉ではなく態度で示した殺生丸の意思を補うように、犬夜叉も叫ぶ。

「くくくっ、お前達雑魚を相手にして肝心の獲物を逃す訳にはゆかぬからな。先にあちらを葬ってから、ゆっくりお前達を嬲り殺すとしようか」

 曲霊は楽しげに邪悪な笑みを浮かべると、触手を阿吽に定めて繰り出してきた。慌ててその触手を薙ぎ払おうと犬夜叉が跳躍して追うが、その足首をもう一本の細い触手に掴まれ地面に叩きつけられる。その間にも弥勒たちを狙った触手は先を幾本にも細分化させ、降り注ぐ槍のような状態で襲い掛かる。

「殺生丸様――っっ!!」


 ―――― !! ――――


 りんが思わず目を閉じた瞬間、ふと、りんは自分が目を閉じ反射的に抱え込んだ腕の中に馴染みのある感触と重さを感じた。ひんやりとした滑らかな手触り、凄烈さと気高ささえも感じさせる殺生丸の守護剣、天生牙。
 天生牙自体が白金色の柔らかで温かみの在る光を溢れさせ、その光は弥勒やりんの頭上に突き刺さりそうだった触手をことごとく消し去っていた。溢れた光は大きな球体になって少し離れて上空に待機していた雲母や珊瑚達も包み込む。

「天生牙の、結界…?」

 九死に一生を得た感の弥勒が、詰めていた息を吐くようにそう呟く。その様子を見ていた犬夜叉も光の球体と、自分の背後で窮地に陥りながらも眸の奥に澄み切った金色の光を見せる兄を感慨深く見ていた。

「あ…、私、どうしたの…かしら……」

 琥珀の欠片を浄化しようと倒れた琥珀に駆け寄り、曲霊の邪眼に中てられたかごめが途切れ途切れに言葉を搾り出す。

「かごめちゃん! 気がついたの!?」
「うん、体が動かなかっただけ…。皆の声なんかは聞こえていたの」

 のろのろとかごめは体を起こし、周りの状況を把握する。そんなかごめの様子を見て、弥勒は阿吽を雲母の側に寄せた。

「弥勒様、この光は…?」
「ええ、おそらくは天生牙の発した結界でしょう」
「天生牙の……?」

 不思議な優しい瞳で弥勒は、りんが抱えている天生牙をかごめに指し示した。あの時、殺生丸が何を思ったか、何を守りたいと思ったのかはつまびらやかにする事ではないだろう。ただその思いが、自分を始めこの仲間達を守ってくれた事実に変わりはない。

「かごめちゃんが動けるようになったって事は、琥珀もっ!?」

 姉である情からか、真っ先に琥珀の様子を気にかける。

「いや、琥珀はまだ気を失っている」
「琥珀…」

 りんはぎゅっと天生牙を抱え込み、祈るように琥珀の様子を伺う。

「琥珀君は四魂の欠片を穢されているから、動けないんだと思う。私が受けた影響とは随分違う」
「かごめ様…」
「私の場合は、目に見えない力みたいなもので雁字搦めにされたような感じだったの。とにかく体が動かなくて、声も出せなくて ――― 」
「そうですか。かごめ様は破魔の巫女・浄化の巫女でもあらせられるから、曲霊でもそのお心を穢す事は出来なかったのですね。動きを封じる事しか」

 寄せた阿吽の背中に乗せられた琥珀の背に、かごめは自分の手をかざした。今の自分に浄化出来るかどうか判らないけど、この天生牙の結界の中は妖怪であるはずの殺生丸の意思とは思えないほど清浄な空間だった。曲霊の悪しき想念も流れ込む事は無い。
 琥珀の欠片にかごめの手が近づいた途端、双方から溢れんばかりの光が迸り、結界の中は一瞬影もないほどに光で満たされた。

「あ…、う、ううん……」

 琥珀は小さな呻き声を零しながら、栗色の瞳を開く。

「琥珀!!」
「あ、姉上。それにかごめ様も…」
「よかった! 琥珀。気がついたんだね」
「これは一体…?」

 周りを見回し、その優しく気高い光に琥珀はあの情景を思い出す。
 りんさえ知らない、冥府の底で息絶えたりんを腕に抱え慟哭した殺生丸が起こした奇跡を。

「殺生丸様は?」

 琥珀の問い掛けで皆がその方向を見た時、殺生丸の巨体は無残なほど瘴気の毒に焼かれ侵されていた。今まで見たことも無いほど酷い姿ではあるが、その金の眸には雄雄しさと気高さが宿っている。とても妖怪とは思えぬほどの清浄さで。
 りんが阿吽の背から降り立つと、自分の腕の中の天生牙を高く掲げ大きな声で叫んだ。

「天生牙! 殺生丸様を助けて!!」

 りんの声に結界の光が共鳴し、ざぁぁぁと激しく光の流れるような音がそこに居た者達の耳を打った。犬夜叉も、自分の足を捕らえた触手を鉄砕牙で切り捨て、体勢を起こす。振り返り背後の殺生丸を見やると、その巨体は大きな光の珠のようになっている。
 光の鳴動が収まると、光が収束したようにそこには人型に戻った殺生丸が立っていた。曲霊に焼かれた体にはその痕は一片もなく、もとより玲瓏な容貌に更に凄みと霊巌さを増していた。

 あるべき姿にあるべき事象へと導くのは力ではなく、その『想い』。
 この曲霊を満たし動かしている妖怪や人の怨念でさえも、隔てる事無く。


 手にした天生牙から、滔滔と溢れる光。
 あの冥府の底で無念の念を抱え彷徨う亡者どもを導いた、あの光が溢れていた ――――



【終】
2007.07.26





【 あとがき 】

先週からの展開で、四魂の珠の考察を入れようとあれこれ調べていたのですが、今週の『曲霊』発現で、いっぺんに考察モードから突発SSモードに切り替わってしまいました。
先読み妄想なので、また来週になれば小気味良く留美子先生の掌で踊らせられそうなのですが、取り合えず現時点での妄想吐き出しです。


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