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○ 方丈らいふ
見聞した天災の様相、この世の無常、閑居生活の情趣を述べた古典三大随筆のひとつ、蓮胤(れんいん:鴨長明(かものながあきら))の著した「方丈記」を通釈しました。
仏道を歩むために遁世し、閑居の暮らしへの愛着を抱いたものの、皮肉にも執着心から逃れられないでいる自分に気づき自己糾明を行わざるをえなかった蓮胤(れんいん)の心境に触れてみましょう!
★ 方丈記の通釈は以下の文献を参考に行いました。
記事における誤り等ご指摘くだされば幸いです。
参考文献
・古典解釈シリーズ 文法全解 「方丈記・無名抄」(島田良夫著)旺文社
・「方丈記」(川瀬一馬校中・現代語訳)講談社文庫
・少年少女古典文学館 「徒然草(嵐山光三郎)・方丈記(三木卓)」講談社
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序 その一 行く河の流れ
そのニ 無常
安元の大火
治承の辻風
福原遷都 その一
そのニ
養和の飢饉 その一
そのニ
その三
元暦の大地震
煩悩の俗世間
出家遁世
方丈の庵 その一
そのニ
その三
その四
閑居の気味 その一
そのニ
その三
早暁の思策
「行く河の…」の「河」はどこにある? |
実はこの有名な書き出しは論語の「子罕篇(しかんへん)」の中にある「川上の嘆(せんじょうのたん)」
として知られた一章が元となっていると言われています。
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また、文選(もんぜん)という中国南北朝時代の詩集がありますが、これに収められた陸士衡(りくしこう)の「歎逝賦(たんせいふ)一首」が出展であるという説もあります。
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語源的に「河」は「大きな川」の意味です。
「川上の嘆」では「川」となっていますから、孔子が見つめた川は黄河などの大河では
なかったことになります。
一方、「行く河」の場合、「方丈記」が、日野にある外山(とやま)の方丈庵に移り住んでから
書かれた作品であるということで、どうしても渓流(けいりゅう)や麓(ふもと)に流れる川などが
漠然(ばくぜん)と連想されます。
が、元ネタがあったとすると、「行く河」の「河」は中国の川だったことになるなあ。
それでも、日本では比較的大きな川である賀茂川(鴨川)や高野川や宇治川の水面(みなも)を、
長明自身もまた見つめつつ無常を思い重ねたのも確かでしょう。
「無常」とは? |
「無常」ですぐに思い起こすのは、「平家物語」冒頭「祇園精舎の段」の一節や「いろは歌」です。
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・釈迦…釈迦牟尼(しゃかむに)。ゴータマ・シッダールタ。紀元前5世紀頃の人。インド・ネパール国境付近の城主の子に生まれる。29歳で出家、35歳で悟り(さとり:心の迷いが解け、真理を会得〔えとく〕すること)を開き、仏陀(ぶっだ:悟りを得た人)となる。80歳で入滅(にゅうめつ:高僧が死ぬこと)。
・祇園精舎…釈迦に深く帰依(きえ:神仏を信仰して、その力にすがること)していた須達多(シュダッタ)という長者が釈迦のために建立(こんりゅう)した僧坊(そうぼう)で、その中の病僧を収容する無常堂の四隅(よすみ)に掛けられていた鐘が、病僧の臨終に際し自然に鳴って「諸行無常…」と説いたと伝えられる。
・諸行…万物。因果関係によって作られた、世界にあるすべての物事や現象のこと。
・無常…この世のすべてのものは生滅、変化して、少しもとどまることがないこと。人の世のはかないこと。
・沙羅双樹…サラノキ。高さ30m以上になるインドに産する落葉高木。釈迦が入滅した時、その四方に二本ずつあったというが、入滅とともにたちまち枯れて白くなったと伝えられる。
・盛者必衰のことわり…勢い盛んなものも必ず衰えるものだという道理。
・生滅…生ずることと滅びること。生と死。
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・浮世…辛(つら)くはかないこの世。
・煩悩…悟(さと)りを妨(さまた)げる人間のさまざまな心の働き。
・悟り…真理を会得(えとく)すること。
・往生…極楽浄土に生まれ変わること。
・極楽浄土…苦しみのない安楽の世界。
「伊呂波歌」は 仏教の根本思想である、「万物は絶えず移り変わり生滅(しょうめつ)するもので、不変なものではない」という意味の、諸行無常(しょぎょうむじょう)の精神を訳したものです。
「無常」とはつまり、一切万物が絶えず移り変わり、生滅変化して、同じ状態にとどまっていないあり方をいい、仏教では教理の根本にこの思想を据(す)えているというわけです。古代ギリシャの哲学者ヘラクレイトスの説いた「パンタ・レイ=万物は流転(るてん)す」という思想とも共通するものがあります。
ちなみに以下は、明治三十六年、黒岩涙香氏の主宰する新聞「万朝報(よろずちょうほう)」で「国音の歌」として「ン」を入れた四十八字の歌を懸賞募集した際に第一位を獲得した、埼玉の坂本百次郎という人の作による「新いろは歌」です。
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庵の「トイレ」は? |
水洗トイレがありました!
研究者は、蓮胤(鴨長明)の住んだ庵の外に水洗トイレを設けていたと推測しています。ただし、庵の南には懸樋(かけひ)や水を溜めた岩などが配置されていましたから、当然下流側になります。具体的な位置、形状など詳細は不明です。今後の研究が待たれます。