方丈らいふ V

中学受験専門 国語プロ家庭教師


 

方丈の庵(ほうじょうのいおり)  その一

ここに
六十歳という
命のはかなく消え入ろうという
際(きわ)に至(いた)り

新たに
余生(よせい)を送るための
住まいを
構(かま)えることになった

例えるなら
旅人が
一晩(ひとばん)の宿をもうけるようなもの

老いた蚕(かいこ)が
繭(まゆ)を作るようなもの

この庵(いおり)
かつて
賀茂(かも)の河原に
建てた家と比べれば
百分の一にも及(およ)ばない

あれこれ
言っているうちに
齢(よわい)は
年ごとに重なり

住まいは
次第に狭(せま)くなっていった

この庵のありさまは
世間一般のものとは
まるで違う

広さはわずかに
一丈(いちじょう)四方(しほう)
高さは
七尺にも達(たっ)しない

庵を構える場所は
ここと思い定めたわけではなかったので
土地を所有して
これを建てたわけではない

土台を組み
屋根を葺(ふ)き
木材の継(つ)ぎ目には
鎹(かすがい)をかけただけ

もし
自分の思いに
かなわないとなれば
簡便(かんべん)に他所(よそ)へ
移し運ぶことができる

再び建て直したところで
いくらも手数はかからない

車に積んでも
わずかにニ両分
労賃(ろうちん)を払う以外に
他に費用はかからない



ここに六十(むそじ)の露
消えがたに及びて
さらに
末葉の宿りを結べることあり

いはば
旅人の一夜の宿をつくり
老いたる蚕(かいこ)の繭(まゆ)を営むがごとし

これを中ごろの栖(すみか)にならぶれば
また百分(ひゃくぶ)が一に及ばず

とかくいふほどに
齢(よわい)は歳々(さいさい)にたかく
栖(すみか)はをりをりにせばし

その家のありさま
よのつねにも似ず

広さはわづかに方丈
高さは七尺がうちなり

所を思ひ定めざるがゆゑ(え)に
地を占(し)めてつくらず

土居(つちい)を組み
うちおほひを葺(ふ)きて
継ぎ目ごとにかけがねを掛けたり

もし
心にかなはぬことあらば
やすく外(ほか)へ移さむがためなり

その
あらため作ること
いくばくのわづらひかある

積むところ
わづかにニ両

車の力を報(むく)ふほかには
他の用途(ようと)いらず








方丈の庵(ほうじょうのいおり)  そのニ

いま
日野山(ひのやま)の奥に
身を潜(ひそ)め暮らすようになって

庵(いおり)の外
東側には
三尺余りの
庇(ひさし)を差し出し
その下に
薪(たきぎ)を燃やす
竈(かまど)を作った

南側には
竹の簀(すのこ)で縁(えん)を張り

その西側には
閼伽棚(あかだな)を設(もう)け

庵の中
西側の
北に寄せて衝立(ついたて)を立て
内(うち)に
阿弥陀如来(あみだにょらい)の
絵像(えぞう)を安置し

そばに
普賢菩薩(ふげんぼさつ)の
絵像を描(か)いて掛(か)け添(そ)え

その前に
法華経(ほけきょう)を置いた

東の端(はし)には
蕨(わらび)の穂(ほ)を敷(し)きつめ
夜の寝床(ねどこ)とした
西南(せいなん)の方(かた)には
竹の吊(つ)り棚(だな)を据(す)え付け
黒い皮籠(かわかご)を
三箱(みはこ)置いた

中に
和歌
管絃(かんげん)に関する書
往生要集(おうじょうようしゅう)といった
写本(しゃほん)などを
収めておいたものだ

そばに
琴(こと)
琵琶(びわ)
それぞれ一張(いっちょう)ずつを
立て掛(か)けてある

折琴(おりごと)
継琵琶(つぎびわ)という
場所を取らない
組み立て式のものが
それである

私の
仮(かり)の住まいの有り様(よう)は
ざっと
このような具合である







いま
日野山(ひのやま)の奥に
跡(あと)をかくしてのち
東に三尺余(あまり)の
庇(ひさし)をさして
柴折りくぶるよすがとす


竹の簀子(すのこ)を敷(し)き
その西に閼伽棚(あかだな)をつくり
北によせて障子をへだてて
阿弥陀(あみだ)の絵象(えぞう)を安置し
そばに普賢(ふげん)をかき
まへに法花経(ほけきょう)をおけり

東のきはに
蕨(わらび)のほどろを敷(し)きて
夜の床(ゆか)とす

西南(にしみなみ)に
竹の吊棚(つりだな)を構へて
黒き皮籠(かわご)三合をおけり

すなはち
和歌
管弦(かんげん)
往生要集(おうじょうようしゅう)ごときの
抄物(しょうもつ)を入れたり

かたはらに

琵琶(びわ)
おのおの一張(いっちょう)をたついはゆる
をり琴
つぎ琵琶
これなり

仮りの庵のありやう
かくのごとし











方丈の庵(ほうじょうのいおり)  その三

庵(いおり)の外の有りようと言えば

南には懸樋(かけひ)があり
岩を配置し
そこに水を溜(た)めてある

林の中の庵なので
薪(たきぎ)に困ることはない

この山は外山(とやま)と呼び
正木(まさき)の葛(かずら)が
小道を覆(おお)いつくしている

谷は緑深く
木々が茂(しげ)っているが
西に向かって開けているので

陽(ひ)の沈むさまを
見つめつつ
西方浄土(さいほうじょうど)に
思いを馳(は)せる
便宜(べんぎ)がないわけではない

春には
一面の
藤(ふじ)の花房(はなぶさ)が見られ

紫雲(しうん)のように
西方(さいほう)に
咲き匂(にお)う

夏は
郭公(ほととぎす)の声を聞き

死出(しで)の山路(やまじ)の
道案内を頼(たの)む

秋には
蜩(ひぐらし)の声が
耳に
満ち溢(あふ)れ

その声は
儚(はかな)いこの世を
嘆(なげ)くかのように

耳に響(ひび)きこだまする

冬には
降り積む雪を眺(なが)めては

しみじみと
感慨(かんがい)に耽(ふけ)る

降っては消え
降っては消えする
雪の有りようは

人間の罪障(ざいしょう)に
喩(たと)えることもできるだろう

もし
念仏(ねんぶつ)が大儀(たいぎ)で
読経(どきょう)に専心(せんしん)
できぬときは

意に従(したが)って
休み
怠(おこた)ればよい

それを
妨(さまた)げる人もなければ

それを
恥(は)じる相手さえもいない

ことさら
無言の行(ぎょう)をせずとも

自(おの)ずから
口業(くごう)を負(お)わずに済(す)む
仏の禁戒(きんかい)を
守ろうと
あえて努めずとも

この境界(きょうがい)では
禁戒を破(やぶ)ろうにも
はじめから
破りようがない

もし

漕(こ)ぎ行く船の残す
儚(はかな)い白波(しらなみ)に
わが身を
思い重ねる朝には

宇治川はるか
岡(おか)の屋(や)に行き交う
船を眺(なが)め

万葉の詩人
満沙弥(まんしゃみ)の
情趣(じょうしゅ)にあやかって

歌を詠(よ)む

もし

桂(かつら)の葉を
風が鳴らす夕べには

唐の詩人
白楽天(はくらくてん)の
潯陽江(じんようこう)の
故事(こじ)に
思いやり

源都督(げんととく)のように
その風雅(ふうが)を真似(まね)て

琵琶を奏(かな)でる

もし

なお
興(きょう)に乗ることあれば

折(おり)にふれ
松風(まつかぜ)の音に誘(さそ)われて
秋風楽(しゅうふうらく)を
奏(かな)でる

水のせせらぎに合わせ
流泉(りゅうせん)をも


拙(つたな)い
私の技芸(ぎげい)であるが

元来(がんらい)
聞く人の耳を
楽しませようとは思っていない

一人で奏(かな)で
一人で歌を歌い

一人心を慰(なぐさ)み

一人楽しんでいるだけだから













その所のさまを
いはば南に懸樋(かけい)にあり
岩を立てて
水を溜(た)めたり

林の木ちかければ
爪木(つまぎ)をひろふに乏(とぼ)しからず

名を外山(とやま)といふ
まさきのかづら
跡(あと)埋(う)めり

谷しげけれど
西晴れたり

観念(かんねん)のたより
なきにしもあらず

春は藤波(ふじなみ)を見る
紫雲(しうん)のごとくして
西方(にしかた)に匂(にお)う

夏は郭公(ほととぎす)を聞く
語らふごとに
死出(しで)の山路(やまじ)を契(ちぎ)る

秋はひぐらしの声
耳に満てり
うつせみの世をかなしむほど聞こゆ
たとへつべし

もし念仏ものうく
読経(どきょう)まめならぬ時は
みづから休み
身づからおこたる

さまたぐる人もなく
また
恥(は)づべき人もなし

ことさらに無言をせざれども
独(ひと)りをれば
口業(くごう)を修めつべし

必ず禁戒(きんかい)を
守るとしもなくとも
境界(きょうがい)なければ
何につけてか破らん

もし
あとの白波に
この身を寄する朝(あした)には
岡の屋にゆきかふ船をながめて
満沙弥(まんしゃみ)が風情を盗み

もし
桂(かつら)の風
葉を鳴らす夕(ゆうべ)には
潯陽(じんよう)の江(え)を思ひやりて
源都督(げんととく)のおこなひをならふ

もし
余興(よきょう)あれば
しばしば
松のひびきに
秋風楽(しゅうふうらく)をたぐへ
水のおとに
流泉(りゅうせん)の曲をあやつる

芸はこれ
つたなけれども
人の耳をよろこばしめむとにはあらず

ひとりしらべ
ひとり詠(えい)じて
みづから情(こころ)をやしなふばかりなり







方丈の庵(ほうじょうのいおり)  その四

また

この山のふもとに
粗末(そまつ)な一軒(いっけん)の
庵(いおり)があり
山番(やまばん)が住まう

そこに一人の男の子がおり
ときどき私を訪(たず)ねてくれる

もし
格別(かくべつ)用事もないときは
その子を相手に
遊んで過ごす

彼は十歳
私は六十歳

齢(よわい)の隔(へだ)たりこそ
大きいが
心慰(なぐさ)む思いは
互いに同じだ

またあるときは

茅(ちがや)の花を抜(ぬ)き
苔桃(こけもも)を採(と)り
ぬかごを盛(も)り採り
芹(せり)を摘(つ)む

あるときは

山裾(やますそ)辺(あた)りの
田圃(たんぼ)に行って
落穂(おちぼ)を拾(ひろ)っては
穂組(ほぐみ)を真似(まね)て
作ってみたり

もし
のどかに晴れた日には
峰(みね)によじ登り
はるかに
故郷(ふるさと)の空を望み

木幡山(こはたやま)
伏見(ふしみ)の里
鳥羽(とば)
羽束師(はつかし)を見晴るかす

勝地(しょうち)は
誰(だれ)のものでもないから
気兼(きが)ねなどせずに
存分(ぞんぶん)に楽しめばよい

足が軽く
遠地(えんち)にまで
心馳(は)せるときには
ここから峰を伝い

炭山(すみやま)を越(こ)え
笠取山(かさとりやま)を通り

あるときは
岩間寺(いわまでら)
またあるときは
石山寺(いしやまでら)を
参詣(さんけい)する

もしくは
粟津(あわづ)の原に分け行って
琵琶(びわ)奏者(そうしゃ)
蝉丸(せみまる)
縁(ゆかり)の地を訪(たず)ね

田上川(たがみがわ)を渡(わた)り
歌人(かじん)
猿丸太夫(さるまるだゆう)の
墓(はか)に参る
帰途(きと)には
季節の折り折り

桜を見たり
紅葉(もみじ)を求めたり
蕨(わらび)を折り取り
木(こ)の実を拾(ひろ)い集め

仏様に供(そな)えたり
家への土産(みやげ)とする

もし
夜が静かならば
窓から望む月を見て
旧友(きゅうゆう)を偲(しの)び

猿(さる)の
悲しげな声に心を寄せ
袖(そで)を涙(なみだ)で濡(ぬ)らす

草むらの蛍(ほたる)は
遠く槇島(まきのしま)の
かがり火に見まがい

暁(あかつき)に降る雨の音は
木の葉を
ざわめかす嵐(あらし)の
響(ひび)きのよう

山鳥の
ほろほろと
鳴く声を聞けば

生まれ変わった
私の父や母が
会いに来てくれたのかしらと疑(うたが)い

峰に住む鹿(しか)が
人に近寄り
恐(おそ)れずにいるのを
見るにつけても

今の私の
世俗(せぞく)から隔(へだ)てた
暮らしぶりが
わかるというものだ

眠(ねむ)りが途切(とぎ)れがちな
老いた私だから
ときには
炭火(すみび)をかき起こして
その火とともに
夜を過ごすこともある

恐ろしいほど
山深い山というわけではないから

梟(ふくろう)の声を
しみじみと聞けるにつけても

山中(さんちゅう)の情趣(じょうしゅ)は
四季折々(おりおり)
尽(つ)きることはない

ましてや
私などより
深くものを思い
深くものを知る人ならば

山中の
自然の興趣(きょうしゅ)を
私以上に
感じ得たにちがいない






また
ふもとに一つの柴の庵(いおり)あり

すなはち
この山守(やまもり)がをる所なり

かしこに小童(こわらわ)あり
ときどき来たりてあひとぶらふ

もし
つれづれなる時には
これを友として遊行(ゆぎょう)す

かれは十歳(ととせ)
これは六十(むそじ)

そのよはひ
ことのほかなれど
心をなぐさむること
これ同じ

或(ある)は茅花(つばな)を抜き
岩梨(いわなし)をとり
零余子(ぬかご)をもり
芹(せり)をつむ

或(ある)は
すそわの田居(たい)にいたりて
落穂(おちぼ)を拾(ひろ)ひて
穂組()をつくる

もし
うららかなれば
峰(みね)によぢのぼりて
はるかにふるさとの空をのぞみ
木幡山(こはたやま)
伏見(ふしみ)の里
鳥羽(とば)
羽束師(はつかし)を見る

勝地(しょうち)は主なければ
心をなぐさむるにさはりなし

歩みわづらひなく
心遠くいたるときは
これより峰つづき
炭山(すみやま)をこえ
笠取(かさとり)を過ぎて

或(ある)は
石間(いわま)にまうで
かつは家づととす
或(ある)は石山ををがむ

もしはまた
粟津(あわず)の原を分けつつ
蝉歌(せみうた)の翁(おきな)があとを
とぶらひ
田上河(たなかみがわ)をわたりて
猿丸太夫(さるまるもうちぎみ)が墓を
たづぬ

かへるさには
をりにつけつつ桜を狩り
紅葉(もみじ)をもとめ
わらびを折り
木(こ)の実をひろひて
かつは仏にたてまつり

もし
夜しづかなれば
窓の月に故人(こじん)をしのび
猿のこゑ(え)に袖(そで)をうるほす

くさむらの蛍(ほたる)は遠く
まきの島のかがり火にまがひ
暁(あかつき)の雨は
おのづから木の葉吹くあらしに似たり

山鳥のほろほろと鳴くを聞きても
父か母かとうたがひ

峰の鹿(かせぎ)の
近く馴(な)れたるにつけても
世に遠ざかるほどを知る

或(ある)はまた
埋(うず)み火をかきおこして
老いの寝覚めの友とす

おそろしき山ならねば
梟(ふくろう)の声をあはれむに
つけても
山中の景気
折りにつけて
尽くることなし

いはむや
深く思ひ
深く知らむ人のためには
これにしも限るべからず







閑居の気味(かんきょのきび)  その一

そもそも

この外山(とやま)に
住まいを定めた当初(とうしょ)は
ほんの暫(しばら)く
住もうというほどにしか思わなかったが

すでに
五年の年月が経(た)った

この庵(いおり)も
そこそこ住み慣(な)れた
古家(ふるや)となって

屋根は
厚(あつ)く枯葉(かれは)を積(つ)み
土台には
苔(こけ)が生(む)している

何とはなしに
都の様子を耳にすれば
私がこの山にこもって後(のち)
お亡(な)くなりになった
高貴(こうき)な方が
数多くいらしたということだ

まして
平俗(へいぞく)な者たちの
死んだ数となれば
数え切れるものではなかろう

度重(たびかさ)なる
火災(かさい)のために
焼失(しょうしつ)した家々の数もまた
どれほどあったろう

ただ
この仮(かり)の庵(いおり)のみは
平穏(へいおん)で
無事であった

住まいは狭(せま)くとも
夜寝るだけの床(ゆか)はあり

昼座(すわ)れる場所もある

我(わ)が身一つを
置くうえで
何の不自由もない

やどかりは
小さな貝を選んで住む

身の程(ほど)を弁(わきま)えているからだ

みさごは
荒磯(あらいそ)に住む

人を恐れるが故(ゆえ)だ
私もまた
それらと同じことだ

身の程(ほど)を知り
また
世間を知る者として

欲(よく)を抱(いだ)かず
齷齪(あくせく)することもない

ただ平安であることを望み
憂(うれ)いごとのない暮らしを
楽しみとしている

総(そう)じて
世間の人々が
住家(すみか)を作るのは

必ずしも
我が身だけのためではない

ある時は
妻子(さいし)
一族(いちぞく)のため

ある時は
近親者(きんしんしゃ)
友のために作る

あるいは
主人
師匠(ししょう)のため

財産(ざいさん)
牛馬(ぎゅうば)のためにさえ
作ることもあろう

しかし私は

我が身
ただ一人のためにこそ
この庵を結んだ

誰(だれ)のためでもない

その訳(わけ)は

今ある私の
この境遇(きょうぐう)である

連れ添(そ)う相手もなく
頼(たよ)りとする従者(じゅうしゃ)もない

たとえ
住家(すみか)を広く作るにしても

そこに
一体(いったい)
誰(だれ)を住まわせられようか



おほかた
この所に住みはじめし時は
あからさまと思ひしかども
今すでに
五年(いつとせ)を経(へ)たり

仮りの庵(いおり)も
ややふるさととなりて
軒(のき)に朽(く)ち葉ふかく
土居(つちい)に苔(こけ)むせり
おのづから
ことの便りに都を聞けば
この山にこもりゐてのち
やむごとなき人のかくれたまへるも
あまた聞こゆ

ましてその数ならぬたぐひ
尽くしてこれを知るべからず

たびたびの炎上(えんじょう)に
ほろびたる家
また
いくそばくぞ

ただ仮の庵(いおり)のみ
のどけくして
おそれなし

程(ほど)せばしといへども
夜臥(ふ)す床(ゆか)あり
昼ゐ(い)る座(ざ)あり
一身(いっしん)をやどすに不足なし

かむなは小さき貝を好む
これ身知れるによりてなり

みさごは荒磯(あらいそ)にゐる
すなはち
人をおそるるがゆゑなり

われ
またかくのごとし
身を知り
世を知れれば
願はず
わしらず
ただしづかなるを望みとし
憂(うれ)へなきをたのしみとす

すべて
世の人のすみかをつくるならひ
必ずしも
身のためにせず

或(ある)は
妻子(さいし)
眷属(けんぞく)のためにつくり

或(ある)は
親昵(しんじつ)
朋友(ほうゆう)のためにつくる

或(ある)は
主君
師匠(ししょう)
および財宝
牛馬(ぎゅうば)のためにさへ
これをつくる

われ

身のためにむすべり
人のためにつくらず

ゆゑいかんとなれば
今の世のならひ
この身のありさま
ともなふべき人もなく
たのむべき奴(やっこ)もなし

たとひ
ひろくつくれりとも
誰(たれ)を宿し
誰をか据(す)ゑん





閑居の気味(かんきょのきび)  そのニ

さて

そもそも
友としての人の関係には

相手の富裕(ふゆう)が尊(たっと)ばれ
互(たが)いに配慮(はいりょ)し合う
懇(ねんご)ろな付き合いに
重きが置かれる

必ずしも
情の厚(あつ)い者
率直(そっちょく)な者が
大事にされるわけではない

そんな友をもつくらいなら
音楽や
自然を友とし
愛するほうが
よほどよい

従者(じゅうしゃ)というものは
賞与(しょうよ)の多く
何かと心づけを忘れない主人を
尊(たっと)ぶ

真心(まごころ)をもって
情愛深く
大事に扱(あつか)われること

暮らしの
心安らかな静けさなどは
念頭(ねんとう)になどない

このような者を
従(したが)えるくらいなら
我(わ)が身を従者としたほうが
よほどましだ

我が身が私の従者であったなら
なすべきことは
ただちに
己(おのれ)の身体(からだ)を使って
なせばよい

面倒(めんどう)が
ないわけではないが

他人を指図(さしず)し
他人を世話(せわ)する
気遣(づか)いが不要だ

もし
外出する用事があれば
自分の足で
歩けばよい

苦しくもあろうが

鞍(くら)だ


車だと
心労(しんろう)するのに比べれば
よほどましというものだ


私は

一つの我が身に
二つの仕事をさせている

私の手は
私の従者であり

私の足は
私の車である

どちらも
私の意のままに働く
私の心は
私の身体の辛(つら)さを
知っているから

辛いときには身体を休め
達者(たっしゃ)であれば
身体を使う

使うと言っても
度を越(こ)しはしない

気が乗らず
怠(なま)けたとしても
心懸(こころが)かりなどない

そもそも
常(つね)に歩き
常に動くことは
いちばんの養生(ようじょう)となろう

むやみに
休んでばかりもおられようか

他人を使い
苦労を強(し)いる行為(こうい)も
人間の罪障(ざいしょう)となろう

他人の力を借りず
自分で自分の
世話をすることだ

衣食(いしょく)についても
同じことだ

葛(くず)の織物(おりもの)
麻(あさ)布の夜具(やぐ)を

手に入るままに
身にまとい
身を包(つつ)めばよい

野原のよめな
山の木(こ)の実を食(しょく)せば
わずかでも
命をつなぐ糧(かて)となる

人との交(まじ)わりがないので
粗末(そまつ)なその姿(すがた)を
恥(は)じて悔(く)いることもない

乏(とぼ)しい糧(かて)は
却(かえ)って
粗末な頂(いただ)きものを
うまく味わえる

すべて
このように述べ立てた
私の暮らしの楽しみは
富裕(ふゆう)な者への
嫌味(いやみ)ではない

ただ
この楽しみを知り得なかった
かつての我が身の上と
今の身の上とを比べて

素直(すなお)な
私の感慨(かんがい)を
述(の)べたに過(す)ぎない












それ
人の友とあるものは
富めるをたふとみ
ねむごろなるを先とす

必ずしも
なさけあると
すなほなるとをば愛せず

ただ
糸竹(しちく)
花月(かげつ)を友とせんにはしかじ
人の奴(やっこ)たるものは
賞罰(しょうばつ)はなはだしく
恩顧(おんこ)あつきをさきとす

さらに
はぐくみあはれむと
安くしづかなるとをば
願はず

ただ
わが身を奴婢(ぬひ)と
するにはしかず
いかが奴婢とするとならば
もし
なすべきことあれば
すなはち
おのが身をつかふ

たゆからずしもあらねど
人をしたがへ
人をかへりみるよりやすし

もし
ありくべきことあれば
みづからあゆむ

苦しといへども

鞍(くら)

車と
心を悩ますにはしかず


一身(いっしん)をわかちて
二つの用をなす
手の奴(やっこ)
足の乗りもの
よくわが心にかなへり

身の苦しみを知れれば
苦しむ時は休めつ
まめなれば使ふ

使ふとても
たびたび過ぐさず

もの憂(う)しとても
心を動かすことなし

いかにいはむや
つねにありき
つねに働くは
養性(ようじょう)なるべし

なんぞいたづらに
休みをらん

人を悩(なや)ます
罪業(ざいごう)なり
いかが他の力を借るべき

衣食のたぐひ
またおなじ
藤の衣(ころも)
麻のふすま
得るにしたがひて
肌(はだへ)をかくし
野辺(のべ)のおはぎ
峰(みね)の木(こ)の実
わづかに命をつぐばかりなり

人にまじはらざれば
すがたを恥(は)ずる悔(く)いもなし
糧(かて)ともしければ
おろそかなる報(むく)いをあまくす

すべて
かやうの楽しみ
富める人に対して
いふにはあらず

ただ
わが身ひとつにとりて
むかし今とをなぞらふるばかりなり










閑居の気味(かんきょのきび)  その三

そもそも
この世の中というものは

自分の心の有りよう次第(しだい)で
どのようにも変わるものだ


乱れ
落ち着かずに生きているならば

どれだけ貴重(きちょう)な
財産(ざいさん)であれ
何の値打(ねう)ちも
見出せないだろう

どれだけ立派(りっぱ)な
御殿(ごてん)
楼台(ろうだい)に住み暮らそうが
先々(さぎざき)への望みを
抱(いだ)くことも出来ない

しかし
私は今

閑寂(かんじゃく)な日野の
わずか一間(ひとま)の
粗末な庵(いおり)に暮らしながら
これに非常な愛着(あいちゃく)を
抱いている

ときに
都へ赴(おもむ)けば
乞食(こじき)同然の
みすぼらしい己(おのれ)の姿(すがた)を
恥(は)じて感ずることもあるが
日野の庵に戻(もど)ってみれば

世の人の
俗欲(ぞくよく)に
あくせくして暮らす様を
却(かえ)って
気の毒(どく)にと思う

もし
人が
私のこの言葉を
お疑(うたが)いならば

魚と
鳥との有りさまをご覧(らん)なさい

魚は
水の中に暮らして飽(あ)きないが
魚でなければ
その心は理解出来まい

鳥は
林の中の暮らしを望むが
鳥でなければ
その心は実感出来まい

世俗(せぞく)から離(はな)れ
静かに暮らす
しみじみとしたこの味わいも
また
同じことだ

味わってもみずに
わかろうはずがない



それ
三界(さんがい)は
ただ心ひとつなり

もし
やすからずは
象馬(ぞうめ)
七珍(しっちん)もよしなく
宮殿
楼閣(ろうかく)も望みなし


さびしきすまひ
一間(ひとま)の庵(いおり)
みづからこれを愛す

おのづから
都に出(い)でて
身の乞・・・となれることを
恥(は)づといへども
帰りてここにをる時は
他の俗塵(ぞくじん)に
馳(は)することをあはれむ
もし
人このいへることを疑はば
魚(いお)と鳥との
ありさまを見よ

魚は水に飽(あ)かず
魚にあらざれば
その心を知らず

鳥は林をねがふ
鳥にあらざれば
その心を知らず

閑居(かんきょ)の気味(きび)もまた
おなじ
住まずして誰かさとらむ


 







早暁の思策(そうぎょうのしさく)  

さて

山の端(は)近くに
傾(かたむ)いた月のように

私の生涯(しょうがい)も
いよいよ
余命(よめい)わずかとなった

もう間もなく
私の命も
三途(さんず)の闇(やみ)にと
向かっていくことだろう

この期(ご)に及(およ)び
今さら何を
私は嘆(なげ)こうとしているのだ

仏の
諭(さと)し示された
その趣意(しゅい)は
執心(しゅうしん)なかれと
いうことだ

私の
この庵(いおり)と
静かな暮らしへの愛着(あいじゃく)は
罪業(ざいごう)となり
往生(おうじょう)の
妨(さまた)げとなろう

仏道(ぶつどう)を
悟(さと)る道において
何の役にも立たない
閑居(かんきょ)の暮らしの
私の楽しみについて

これ以上
述べ立てて
何になろう



静かな

早暁(そうぎょう)

この道理(どうり)について
私は
考え巡(めぐ)らし
自(みずか)らの心に
こう問(と)うてみた


俗世(ぞくせ)を逃(のが)れ
山林に隠(かく)れ暮らした目的は
心を修(おさ)め
仏道を
修行(しゅぎょう)せんがためだった

しかるに
お前は

姿(すがた)こそは
僧(そう)でありつつ
心は濁(にご)りに染(そ)まっている

栖家(すみか)もまた
維摩羅詰(ゆいまらきつ)の
方丈(ほうじょう)の庵(いおり)に
あやかり真似(まね)たが

生きる有りようは
怠惰(たいだ)な仏弟子(ぶつでし)
周利槃特(しゅりはんどく)にさえ
及(およ)ばない
もしや
これは

前世(ぜんせ)の罪業(ざいごう)
貧賎(ひんせん)の報(むく)いにあって

私は
迷(まよ)い
心労(しんろう)するのか

はたまた

みだらな俗念(ぞくねん)が

私の心の
奥深くに入り込み
狂(くる)わせてしまっているのか





この問いかけに
私の心は

何も答えてくれようとはしない


ただ
その時


私の心は


罪を為(な)せる
私自身の
舌(した)を使わせて


本意(ほんい)からでもない念仏(ねんぶつ)を


南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)



そっと
ニ三度

私に
唱(とな)えさせただけだった




時に
建暦(けんりゃく)二年
三月
末(すえ)のころ

出家僧(しゅっけそう)
連胤(れんいん)

外山(とやま)の庵にて
これを記(しる)す











そもそも
一期(いちご)の月影(つきかげ)
かたぶきて
余算(よさん)
山の端(は)に近し

たちまちに
三途(さんず)の闇(やみ)に向かはんとす
何のわざをかかこむとする

仏の教へたまふおもむきは
ことにふれて
執心(しゅうしん)なかれとなり


草庵(そうあん)を愛するもとがとす
閑寂(かんせき)に著(じゃく)するも
さはりなるべし

いかが要なき楽しみを述べて
あたら時を過ぐさむ

しづかなる暁(あかつき)

このことわりを
思ひつづけて
みづから心に問ひていはく

世をのがれて
山林にまじはるは
心を修めて道を行はむとなり

しかるを
汝(なんじ)
すがたは聖人(ひじり)にて
心は濁(にごり)に染めり

栖(すみか)は
すなはち
浄名居士(じょうみょうこじ)の跡を
けがせりといへども

保つところは
わづかに
周利槃特(しゅうりはんどく)が行ひにだに
及ばず
もしこれ
貧賎(ひんせん)の報(むくい)の
みづからなやますか


はたまた
妄心(もうしん)のいたりて
狂(きょう)せるか


そのとき

さらに答ふることなし


ただ

かたはらに
舌根(ぜっこん)をやとひて

不請(ふしょう)の阿弥陀仏(あみだぶつ)

両三編(りょうさんべん)申して
やみぬ



時に

建暦(けんりゃく)の
二年(ふたとせ)三月(やよい)の
つごもりごろ

桑門(そうもん)の連胤(れんいん)

外山(とやま)の庵(いおり)にして
これをしるす