ARCH-ANGEL5
用語解説


ヒカルと言い合いをした翌日から、saiは一切、男の服を着なくなった。

M・Hに乗っていないときも、常にファティマ・スーツか、ブラウスにスカートという格好でヒカルはかえ
って居心地が悪い。クリスタル(頭部受信機)を外すこともなく、saiはヒカルのファティマに徹していた。

残された時間もあとわずかに一週間。

ヒカルは見違えるように腕をあげていた。

今では連戦連勝、”手合い”を始めたばかりの頃、実剣の衝撃にパニックをおこしてコントロールを取り上
げられたのが嘘のようだった。

その時の事を、ヒカルはまざまざと思い出す。

M・Hは騎士とファティマの二人でコントロールする。しかしファティマは騎士のサポートが主で、戦闘に
おいて一人でM・Hを動かすことはあまりない…というか出来ない。それほどの身体能力がないからだ。

しかし唯一バランシェ・ファティマには、そういうことが可能だと言われていた。だが実際にされてみると
驚き以外の何物でもない。

しかもただ動かすだけならともかく”ARCH・ANGEL”は手合いの相手と組み合ってみせた。

「マスター、しかっりして下さい。のん気に気を失ってる場合じゃありませんよっ!」

ヒカルは呆然として”ARCH・ANGEL”の声を遠くに聞いていた。

「マスター!!」

もう一度、あきらかな怒号にやっと我に返ったヒカルにコントロールが返される。

しかしその時には”手合い”にもかかわらず、実剣で切り付けて来た無作法者は”ARCH・ANGEL”に叩き
伏せられた後だった。

「…ですから、腕を振り切ればメイデン・ブレードになります。きちんと使い分けて下さいね。M・Hに乗
ったときの力は騎士の基礎体力に正比例しますから、まず自分の力をあげることが肝心なんですよ」

はっとしてヒカルは回想から覚めた。

「聞いてます?マスター?」

「も、もちろんっ。ええと…でも、やっぱり性能のいいM・Hにはかなわないだろ?騎士としていくら強く
たってさあ?」

「それはそうですが、ファティマによってはある程度、性能の劣るM・Hのパワーを上げる事も可能です。
あと大切なのは技の見切りと、間合い。それともうひとつファティマとの連携ですね。戦闘中はあるていど
マスターと脳波でシンクロしますけど…まあこんなことは、今さら言うまでもありませんね」

saiは優しくヒカルに笑いかけた。母親のような微笑み。

あの日以来、ヒカルはsaiを”ARCH・ANGEL”としか呼ばせてもらえない。

うっかりsaiと呼んでしまっても絶対に返事をしてくれないのだ。また『彼女』もヒカルをマスターとしか呼
ぼうとしない。

(ちょっと意固地になってるよな、コイツ)

ヒカルはそう思うけれど、もともと悪いのは自分なので何も言えなかった。

「…で、どう?オレ、ヤクトを使いこなせると思う?」

おそる、おそる聞いてみた。イエスでもノーでも答えを聞くのは怖い。

でも残り一週間、きちんとsaiの口から聞かなければ、と思った。

「そうですね…」 saiはちょっと曇り顔だ。やはりダメなのだろうか?そう不安になった時、

「大丈夫、だと思いますよ。あとは私を信頼してくだされば」 saiはにっこりした。

「信頼?してる、してる!お前はオレのサイコーのファティマさ!」 ヒカルが即答したのにsaiは、

「なんか調子いいですね、マスター?」 と、少し疑わしげ。

実をいうと、いまひとつ力不足な感はある。

しかしヤクト・ミラージュは通常のM・Hと違って騎士とファティマが同時に制御する特殊な操縦方式なの
だ。

いざとなれば自分にコントロールを集中させることもできる。

「…とうとうデルタ・ベルンへ帰る時が来たんだな!”ARCH・ANGEL”」

saiはしっかりと頷いた。その表情は何かを決意したように引き締められていて、ヒカルはまた少し不安にな
る。

(お前、今、なに考えてる?)

聞きたいけど、聞いてはいけない気がした。

ヒカルがそうであるように、saiもまた何かを決意しているのだろう。二人は黙り込んだ。

「最後ですから、カステポーで羽を伸ばしてこられては?」 saiが沈黙を紛らせるように提案した。

そういえば、せっかくの保養地なのに”手合い”ばかりで、一度も遊びにいっていない。

「私はその間にM・Hのチェックと整備を済ませておきますから」

お前もいっしょに…そう言いかけて言葉を飲み込んだ。

ファティマが人前に出るにはいろいろ制約がある。

全身をケープで覆って歩くなど、saiにとっては苦痛でしかないはずだ。『太陽の下を歩けぬ二人』…とはよ
く言ったものだ。

しかし”行かない”と答えてsaiの勧めを断るのは、なんだか気が引けた。

「わかった…そうするよ。夕方には戻るから、おみやげを楽しみにしてて」

「食事はどうします?」

「もちろん帰ってお前と食べるさ!」 そう言ってヒカルは微笑んだ。

saiもまた嬉しそうに笑い返してくれた。



ヒカルが出かけた後、saiはさっそく格納庫へ向かった。

M・Hのコントロールに遊びが出すぎているようだったのが、気になっていたのだ。

ファティマ・ルームではなく騎士のコクピットに乗り込む。

誤差の感覚を確かめ、関節の調整をしていると油まみれになってしまった。本来、こういう事は専門のマイ
スター(整備士)がするのだが、今はそうもいっていられない。

「…お風呂でもはいりましょうか」 低く呟いた。

シャワーですませようと考えていたのに、気が付くと湯を張ってしまっていた。実はこういうことがよくあ
る。
湯気の立ち上る浴槽に、ゆっくり身を沈めると、やはり思い出したくもない感覚が甦った。

ぬるめのお湯は、エトラムル時代に常に自分を包んでいた『羊水』の感覚。

saiは形を持たなかった頃をよく記憶していた。思い出したくないのに湯に入ってしまうのは、それを身体が
無意識に求めているからかもしれない。

自分の手が、足が、声が欲しくてたまらなかったあの頃。



人工生命体であるファティマは本来、殺戮を好まない。彼らはもともと非常に温和な生命体なのだ。

それを殺戮マシンに変えるのが、マインドコントロールだ。

騎士に従属する事により、心理的な負担を軽減し精神が壊れるのを防ぐ。それでも溜まり続ける精神的な疲
労は定期的なメンテナンスでケミカルに取り去らねば、ファティマはやがて死んでしまう。

ファティマの可能性を摘み、彼らの精神を縛るマインドコントロール…しかしそれによって彼らは心が壊れ
る事から守られてもいるのである。

人型ファティマの場合、暴走を防ぐ意味合いも濃いので、マインドコントロールは非常に強固に刷り込まれ
る。しかしエトラムルは自我がないとされていたため、それはとても希薄なものでしかなかった。

”ARCH・ANGEL”は非常に優れたファティマだったが、エトラムルとしては致命的な欠陥を持っていた。

それは『彼女』がエトラムルにはないとされていた、自我を持っていたということだ。

M・H(モーターヘッド)”カン”に搭載されたエトラムル・ファティマは騎士に仕えるというより、M・H
による戦闘と殺戮そのもののために存在していた。

『スケーヤ』の騎士はM・Hに乗り込まない。遠隔操作による脳波のシンクロにより、ファティマが単体で
M・Hを動かすのだ。強く騎士に従属することなく単体でM・Hに組み込まれ、望まぬ殺戮を続けるうちに”
ARCH・ANGEL”はその精神を崩壊させていった。

命令に全く反応しなくなったところで異常に気付いた騎士団は、壊れた”ARCH・ANGEL”を処分しようと
した。グロテスクな容貌のエトラムルは多くの場合、能力以外に省みられる事がない。

バランシェ・ファティマは貴重だが、それでも壊れたエトラムルに価値はないのだ。

それをかばい『銘入りのファティマは壊れると、親元(製造元・この場合はバランシェ公)に還されるのが
習いだ』と、処分に反対してくれたのが『彼女』のマスターだったシャリシャン・ホーカだった。

ゆっくり壊れていく自分を自覚して、『彼女』が切望したのは人間の身体だった。

身体があればこんなふうに計器の灯りだけが光る暗闇に閉じ込められて、一人きりで壊れていかなくてもい
いかもしれないのに。

生まれてきた甲斐もなく、死ねば何も残らない。私を覚えていてくれる者も誰もいない…。

せめて身体があれば、少しは記憶に残してもらえるのに…!

おそろしく孤独だった。

あの時の恐怖を思い出すと、saiはいまでも息がつまりそうになる。

(―ヒカルは私を、騎士に戻りたいくせに、そう言って責めたけど、私は騎士に戻りたいわけじゃない。

マスターに心を許すのが怖いんです、私は。

私にとってはマスターが全てでも、マスターにとっては私は使い捨てに出来る”人形”にすぎない…。

騎士とファティマは『次の主を探せ』(ファティマを従属のプログラムから解放するキーワード)の言葉ひ
とつで簡単に切り捨てられる関係だ。

そして見捨てられたファティマには、何も残らない。残るのはただ、戦いと、人を殺した記憶だけ…―)

やがて『彼女』はバランシェ公の元へ帰ることになる。

博士の元で調べても何故壊れたのか、最初はまったく原因不明だった。

それが精神崩壊のせいだと知ったバランシェ公は少なからず驚いた。エトラムルにそれほど複雑な心がある
とは思っていなかったからだ。

原因がつかめれば、”ARCH・ANGEL”を助ける方法はまだ、ある。

そして、『彼女』はあれほど切望した身体を得たのだった。

バランシェ公はかつてのエトラムル・ファティマに、マインドコントロールを施すかかなり迷ったと言う。

迷った末、それは外された。その後、バランシェ公と親交の深かった天照帝の計らいで、佐為の名で藤原家
の養子に入ったのだった。



湯から上がると、saiはもう一度最終チェックのために格納庫に行きかけて、外部モニターに誰か映っている
のに気が付いた。

(誰だろう?)

モニターを拡大して、凍りつく。

(あれは…!)

―緒方さん…。

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