〜8〜

「おはよう、サミュア。」
ヴェスタルトは恐る恐るといった様子で、ベランダで空を眺めていたサミュアに声をかけた。夕べ見たものは何だったのだろう?銀白色のオーラが輝くあの空間。蒼く輝く龍がいた。そして地から沸き上がるようなサミュアの声。
寒くも恐くも無かったが、ひどく焦燥感を感じた。虚しさだけが残って先ほど目が醒めた。あれは夢だったのでは無いかとも思う。考えても見れば死んだと思っていたミリエラがいきなりやって来て、訳のわからない事を言いながら自分をサミュアの心の庭と呼ばれるところに連れていったのだ。とても現実だとは思えない。だがサミュアと行動する様になってから、不思議な事ばかり起こるような気がする。

サミュアはゆっくりと振り返ると何ごとも無かった様に微笑んだ。
「おはよう、ヴェス。夕べはよく眠れたかしら?」
「少し…。」
ヴェスタルトは少しこわばった笑顔でサミュアに答えた。そしてそれ以上の言葉を探してみたけど、どの言葉も不似合いな気がして、ヴェスタルトは黙り込んでしまった。今、ゆっくりと恐怖をじわじわと感じている。何が恐いのかよくわからないけれども…。

「おはよう、サミュア!」
サンディが元気に姿を現した。
「夕べはぐっすり眠っちまったい!身体ほぐしてくる。」
そう言うとサンディはベランダから軽々と飛び下りた。

彼はよい剣天使になるだろう、とサミュアは目を細める。こんなにも才能のある子供達が育っている。それはこれから必要になるからであろう。気を引き締めなければ。

「スラ・マリサナ…。」
サミュアは言葉では無く直接心に話し掛けて来たラファエルに自分も心を飛ばした。
「ラファエルか。夕べはご足労であったな。で、樫の木の村はどうであった?行っていたのであろう?」
「は。恐らく民は闇に喰らい尽くされているかと。闇に手に落ちた者共が満ちあふれております。獣王は地下にでも潜伏しているのか、地上に姿は見えませんでした。」
「そうか…。」
「子供達を連れて、あの村にいらっしゃるのですか?」
「そのつもりだ。もしそなたが止めるなら、子供達だけでも置いていく事はできる。」
「できましたら、そうお願いしとうございます。いえ、スラ・マリサナには子供達を連れ出した責任がおありでしょう。どうか連れて天宮にお戻り頂けませんか?ここは私1人にお任せになって。」
「朝っぱらから何を寝ぼけておる?」
サミュアは苦笑した。
「そなた1人で何をするつもりだ?」
「それは…。あの、その…。」

モゴモゴと口籠っているのを不審に思って、サミュアはくるりと後ろを振り向いた。そこに困った顔のラファエルが立っている。
「そなたは1人では無いということか。…彼らはどこまで来ておるのだ?」
サミュアはしたリ顔でラファエルを見る。心で直接会話をしているので、周りにいるものは、声は聞こえない。ただ振り向いて見つめあってるのを見ただけだ。
「この森の出口まで。」
「呆れたな。」
サミュアはもう一度ラファエルに背を向けた。

森の出口のあたりで、ミカエルはラファエルからの指示が飛ぶのを心待ちにしていた。ガブリエルも心配そうにミカエルを見つめている。
「ラファエルからは何も指示がきていないのか?」
「まだだ。」
ぶ然とした表情でミカエルが答える。
「うまくスラ・マリサナを説得してくれていればいいが。」
ミカエルはサミュエルの不興をかう事だけが恐ろしい。
「この先は闇の魔道で満ち満ちておるな。」
枝をかき分けながらアザリアンが姿を現した。
「どうした、シケた面をして、ミカエル。スラ・マリサナから何か連絡でも来たのか。」

ミカエルは力無く俯いて首を横に振った。
「いいや。まだだ。」
そう言い終わってミカエルは自分の懐にいつもあるべきものが無くなっているのを発見した。
「あ…。」
「どうしました?」
ガブリエルが聞く。
「いや…。」
ミカエルはあたりを見回して、何か考え込んだ顔をした。

サンディは心地よい朝の空気を楽しみながら、小屋の周りを探索していた。朝食にはまだ間がある。今日はあの樫の木の村に行くのだ。もしかしたら泉の元締めフォンティエル様のお手伝いもできるかも知れない。スラ・マリサナのお使いになる水を運ぶところを一度見てみたいと思っていた。水晶の様に凍っているにもかかわらず綺麗な音を立てながら流れる水、炎の様に燃える水、雷の様に輝く水。それを小さな壜につめて運ぶ。そのつめる魔道は、それはそれは見事なものだと聞いた事がある。ラファエル様の魔道を見る事もできるはずだ。
「あれ…。」
サンディは甘い香りが立ち篭めたのに気がついた。花の香りと言うよりは、熟した果実のような香り。だがそれは未だかつて経験した事のある香りでは無い。きょろきょろ見回したものの、香りの元になっていると思われるものは何も見当たらない。

サンディは抗い難い香りに導かれる様に、森の中を進んでいった。
「あれだ…。」
夢うつつになりながら、サンディは木の上にキラリと光る何か小さな赤いものが引っ掛かっているのを見つけた。ほとんど無意識に木をよじ登ったサンディは、その赤いものが鎖に繋がれた不思議な赤い色の石であることに気がついた。手を伸ばすとまるでサンディを待っていたかの様に手の中に収まった。

〜剣天使、サンディリエルよ。〜
その石を手にとった時、サンディの耳にそんな声が聞こえた。
「え!?う、うわっ!」
サンディは足を滑らせて4、5mの木の下に落下したが、体勢を整えて着地した。
〜見事だな、サンディリエル〜
再び赤い石が語りかけた。
「なんだ、お前?」
サンディは赤い石に語りかけた。自分でも滑稽な事をしていると思いつつ。
〜我は剣石〜
「剣石?」
初めて聞く名前だが、サンディはとても大事なものを見つけたような気持ちになった。そしてそれをそっと首に下げ、シャツの下にしまいこんだ。そして、皆の待つ小屋に向かって戻り始めた。


小屋では、ベランダで皆が姿を消したサンディを待ちわびていた。朝食の時間になっても戻る気配が無いので心配していたところだ。
「悪い、遅くなった。」
サンディ自身はそんなに長い事ほっつき歩いていた自覚は無い。だが、呆れ果てたアルフに時計を見せられて反省した。とうに食事の時間になっていたからだ。
「何かあったのかと思いました。」
心配そうにアシルが言う。昨日までの彼からは想像もつかないような一言だ。
「こいつに何かなんてあるもんか。」
心配させられて少し怒ったような口調でアルフが言う。
「本当にごめんって。」
「サンディが食事の時間にいないなんて、ありえないからな。」
ヴェスにまで言われて、サンディは口を尖らせた。
「あら…。」
サミュアは思わず声を上げた。サンディの真っ赤な瞳がなお一層炎の様に真っ赤に燃えている様に見えたからだ。そしてその原因がシャツの下にそっと隠している剣石にある事をすぐに見抜いた。

剣石は天使の長であり自ら剣天使であるミカエルが常に肌身離さず持っているもので、勝手に剣天使の仲間を選ぶものだ。剣天使はサミュエルがその目で確かめて選ぶ事もあるが、剣石が選ぶ事もある。いまだかつて石の選んだ者に間違いは無かった。

そう、石に選ばれたのね、とサミュアはにっこりと微笑んだ。先を越されたのは少し悔しいが、そういう事なら大歓迎だ。この旅が終わったら、サンディを剣天使の見習いにしましょうか、とサミュアはひとりごちた。

「さあ、飯だ飯だ!」
サンディは皆を促して食堂へ勢いよく歩いていった。

「皆には悪いのだけれど…。」
食事が終わった時に、ラファエルは皆を見回して言った。
「この旅行はここでお終いにしようと思います。」
「なんで!?」
まっ先に聞いたのはサンディだ。他の皆も怪訝そうな顔でラファエルを見つめる。
「この先は少し治安が悪くなっている。私は君たちの安全が約束できないのだ。」
「そんな…。」
残念そうな声でアシルが食い下がる。
「夕べ私1人で少し先に行ってみたんだけど、とうてい経験のない君たちが行かれそうなところでは無いんだ。だから、君たちはここから天宮に引き返してもらいたい。」
熱心に語るラファエルを見て、本当に危険なのだろうと伺う事ができる。
「でもフォンティエル様に頼まれた泉の水は…?」
「私はこの先まで行こうと思う。」
「お一人でですか?」
心配そうに言うのはヴェスタルトだ。
「私は参りましょう。」
静かにサミュアが言う。

それを聞いた瞬間、ヴェスとアシルの顔が曇った。

サミュアとラファエルは身支度を整えると、樫の木の村に向かって歩き始めた。小屋の主人がサンディ、アルフ、ヴェス、アシルと共に見送る。
「お気をつけなされい。」
主人は心配そうな目をサミュアに向けた。
「アザリアンが来てくれているようです。」
サミュアがこっそりと主人に告げた。
「おお、それはよかった。あんなのでも多少はお役にたてるじゃろうて。」
サミュアはにっこりと微笑み、軽く頭を下げた。
「では。」
ラファエルはサミュアを促して、歩き始め、その少し後ろをサミュアも歩き出した。

「で、どうする?」
天宮に帰ると言って小屋をでたサンディは、皆を見回した。
「このまま帰るのか?」
その問いかけに、皆一様に『まさか』という顔をした。
「ここまで来て何もせずに帰る訳には行かないだろう?」
アシルがすぐに同調する。
「そうだね。何があるのか知らないけれど、このまま引き返すのは癪だ。」
アルフもそう答える。大抵は皆を引き止める役目のヴェスも今度ばかりは同調する。
「サミュアさんが心配なんだ。ラファエル様がついていらっしゃるから大丈夫だとは思うんだけど、そんな危険なところに行かせたくは無い。」
もはやこの集団に理性的な仲間は存在しなかった。
「よし、行くぞ。」
サンディの一言で、皆くるりと踵を返した。

「何故あなた方がそろいも揃ってこんなところにいらっしゃるのかしら。」
こんな丁寧な口調で自分達に言葉をかける時はかなりお怒りの時だ、と言うのは皆経験的に知っている。ミカエルを始め、大天使様達はしょんぼりとうなだれてみせた。
「本当にしょうがない人達だこと。」
サミュアは溜め息まじりに言葉を続ける。
「アザリアンまで彼らに同調するとは。天宮はもぬけの殻になっているのではありませんか?」
「それなら御心配なく。我が水晶宮はラゼルアが守護しております故。」
「大天使は1人もいないのではありませぬか?」
「…。」
誰も返す言葉が無い。

「お言葉ですが…。」
しばらくの後、おずおずとミカエルが口を挟んだ。
「獣王ルディリスはその力をほとんど復活させて、地下に隠遁していると言うことではありませんか。いくらお強い貴女様でも、年端も行かない子供達と、剣の使い方も上手とは言い難いラファエルだけで勝とうとお考えなのは、少々危険なのではと存じます。」
「そなたがいれば勝てると?」
意地悪くサミュアはねめつける。天宮にあって皆の憧れの的であるミカエルにこんな言い様をするのはサミュアだけしかいない。
「いないよりは、勝ち目も広がりましょう。」
自信満々な様子では無い。あくまでも真摯な目でミカエルはサミュアを見つめる。それは恋しい人を見つめると言うよりは、御主人を見つめる飼い犬のような眼差しだ。

その眼差しはミカエルに限った事では無い。ラファエルもガブリエルもアザリアンも皆同じ瞳でサミュアを見つめる。
「わかった。ついてくるがいい。」
諦めたような口調でサミュアはそう言うと、とっとと独りで歩き始めた。

「そうだ、ミカエル。そなたの剣石、消えたであろう?」
サミュアは思い出して言った。
「どうしてそれを?」
「剣石が消え、このような山奥で年端も行かない剣天使を選んだ。ついてくるなと言うのが無理だな。」
サミュアはラファエルを見た。
「はぐれぬうちに迎えに行ってくれまいか、ラファエル。4人のおちびさん達が我々を追っている。」
「仕方ありませんね。」
しぶしぶとラファエルは踵を返した。
「どうやらこちらも大人数で乗り込む事になってしまった様だな。」
サミュアは諦めた様にそう言った。
            (続く)