〜7〜
ミリエラはヴェスタルトを連れて、闇の中をゆっくりと移動した。ヴェスタルトは自分が起きているのか眠っているのか、判断できなかった。昼間白昼夢を見て、魔道士の集う水晶の館に迷いこんだ時とはまた違う感触だ。
あの時は体の重さを感じなかった。宙をふわふわと浮いているような、なんとも気持ちの良い感触…。だが今は、少し肌寒い。そして全身にけだるい倦怠感が広がっている。体が重いのだ。ミリエラに掴まれた腕から、精気を吸い取られているような気持ちになる。
ヴェスタルトはミリエラに連れられながら、自分が壁をすり抜け宿屋の中を歩いているのに気がついた。今目の前でアルフが寝ているのが見える。その隣はサンディだ。また一つ壁を通過した。
「サミュ…。」
ヴェスタルトは思わず呟いた。波打つ黄金の髪は束ねられていた昼間とは全く様子が違い、寝台に広がる様に投げ出されていた。まるで後光がさしているかの様に、放射状に広がる黄金の髪…。そして天宮を飾る大理石の彫刻の様な見事な造形の顔だち…。その一つ一つが息を飲むほどに清らかで美しかった。
ヴェスタルトは急に恥ずかしくなった。今自分は何をしているのだろうか?この美しい人の心に闇が巣食っているなど考えられないではないか。
やっぱり帰ろう、そう思ってミリエラの腕を解こうとした時、見すかした様にミリエラが心に直接語りかけてきた。
『ヴェスタルト、さあ、入るわよ。あの女の心の庭に。見たいでしょ、あんな清らかに見えるこの女の正体を。誰でも一つや二つ、他人には見せられない闇を抱えているもの。この女はどんな闇を持っているのかしら?あなたに会う前にどんな事をしてきたのかしらね。』
ヴェスタルトは振りほどこうとした腕を止めた。知りたい…。この人が一体誰なのか、なぜ学びの舎に来たのか。この人の事を少しでも知りたい、と思った。それがたとえ闇の部分であったとしても。
くっくっく、という含み笑いがミリエラの口から漏れた。
そして、ミリエラはヴェスの腕を強く掴むと、闇にまみれたルーンを紡ぎ出した。
「ああ、吸い込まれる…!」
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サミュアは皆が寝静まったあと、自分も眠りについていた。
正確に言えばサミュアは眠っていたわけではない。天宮に魂だけ舞い戻り、自分の統治する国々の様子を見ていたのだ。そして人々の声に耳を傾け、祝福を与えた。
「お帰りでしたか、スラ・マリサナ。」
ミカエルが嬉しそうに声をかける。
「とりあえず魂だけ。時を止めて、空間を切り開いて身体ごと帰ってきても良かったのだが…。」
「いえ、御指示だけいただければ、後は我々で処理いたします。」
「頼むぞ、ミカエル。」
「お任せください。」
サミュエルは頼もしげにミカエルを見つめた。この頼もしい天使の長は、いつもこともなげに大変な仕事を引き受けてくれる。それが自分への思慕から来ている事は分かっている。だが、それに答える事はない事も、お互いに分かっているのだ。何があったかはお互いに語りはしないが、それでも自分を慕い、付いてくるミカエルを心から愛おしいと思った。恋愛とは違う感情ではあるけれど。
「スラ・マリサナ、こちらにおいででしたか。」
水晶の館の魔道士の長アザリアンは、サミュエルの魔道の香りをたどって駆け付けた。
「昼間は世話になったな。」
「とんでもございません。あなた様のお役にたてただけでも本望でございます。」
アザリアンは丁寧にお辞儀をしてから、話を続けた。
「少し気になる事がございまして、御報告に参りました。」
「気になる事?」
「あなた様がお連れになったあの少年。どうも何者かに魔道を封じられていた痕跡がございます。」
「人為的にか?」
「はい。大した力ではありませんでしたが、彼の魔道を幼い頃に封じ込めていたのでは、という痕跡が残っておりました。あれだけの力の持ち主、いずれはその封印を自ら外していただろうとは思いますけれど。」
「癒しの魔道が引金になったのか?力が沸き上がり溢れだしたのだな。」
「いいえ。あなた様はあの時、あの少年の手に御手を重ねられておりました。そして呼び水の様に彼の力を引き出したのでございましょう?それが原因でございます。あなた様のお力でその封印が解けたのでございます。」
サミュエルはゆっくりと頷いた。
「余があの者の魔道の扉をこじ開けた、と言う事か?」
「それが、なぜかあなた様のお力に触れると、解放される様になっておりました。」
「余の力に…?」
「お心当たりは?」
「全く。」
「とにかくお気をつけください。聞けば出生もわからぬ少年、何かの罠の可能性もございます。」
「ありがとう、アザリアン。だが、余はあの者の純粋な心が気に入っておるのだ。罠であるとは思いたくない。」
「申し訳ございません、出過ぎた事を申しました。」
「いや、そなたの気遣い感謝する。」
「!!」
サミュエルはハッとした顔をした。
「どうなさいました?」
ミカエルとアザリアンが同時に聞いた。
「余の心の庭に何者かが侵入した。蒼銀の竜が食い殺してしまわないうちに戻らなくては…。」
その直後には雷鳴とともにサミュエルの姿は消えていた。
ミカエルは心配そうにサミュエルが消えた方向を見つめた。今すぐにでも追いかけたい衝動に駆られた。だがその気持ちをなだめると、静かに目を閉じた。
『ラファエル、何をしているのだ!?主が、サミュエル様が難義しておられる!』
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「そんなばかな…!」
ミリエラは立ち尽くした。
辺りは一面の銀白色に輝いていた。この強い光のもっとも高貴な色のオーラはなんだろう?ミリエラはサミュアの心の庭をみまわした。しかしそこはただただ、光り輝くだけで一点の曇もなかった。
「一点の曇もない女がいるなんて…!!」
「余の心の庭に入り込み、乱している輩は何者だ!?」
雷にも似た激しい叱責の声が、足下から沸き上がる様に聞こえた。と、同時に足下が立っていられないほどに波打った。
「ひいっ!」
ミリエラは恐怖の叫び声をあげた。ふいに自分の周りに黒い影が覆いかぶさった。
「きゃああ!!」
ミリエラは見た。自分の何倍もの大きさの蒼銀の竜を。それはまさに自分に襲いかかる所だった。
シャッ…。
竜の鉤爪がミリエラに襲いかかった。と同時にミリエラはルーンを唱え、姿を消した。辺りは一瞬鮮血が飛び散ったが、ただひとり、ヴェスタルトだけが残された。
ヴェスタルトは、ただただ呆然とその場に立ち尽くしていた。ここはどこ?心の庭ってなんだ?あの竜は何者だ?だが、ヴェスタルトは不思議と恐怖を感じていなかった。何故かはわからない。サミュアが自分に危害を加えるはずがない、と信じているのだ。根拠のない理由で。
蒼銀の竜はヴェスタルトを正面から見据えた。
『何をしに来た?』
先ほど聞こえた声とは違う、心の奥底を震えさせるような低いうなり声にも似た声が、上の方から降り注いだ。竜の声だろうか、それとも…?
『ここが心の庭?』
ヴェスタルトは竜に問いかけた。
『ふ…ん、小僧、少しは魔道の心得があるようだな。このわしと会話できるとは。そう、ここが我が主たる方の心の庭。どうやってここまで来た?』
『…わからない…。』
途方にくれた顔になったヴェスをかばう様に最初の声がした。
「竜よ、そこまでだ。その牙を納め、帰るがよい。」
「主よ。」
「ヴェスタルト。ここはそなたの来るべき所ではない。お帰りなさい。」
「お、お待ちください。あなたは!?あなた様は…?」
「おやすみ、ヴェスタルト。」
ヴェスの意識は朦朧としてきた。その途切れ途切れの意識の中、微かに目の前に、黄金の髪をくるぶしまで伸ばした神々しい女性の姿が浮かんだ様に見えた。だが、すぐに銀白色のオーラの向こうに消えていった。そして意識が完全に途切れた。
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「竜…。蒼く光る銀色の竜…。」
胸元から滴り落ちるどす黒い血液に気がつかないまま、ミリエラは闇に体を預けて震えていた。噂で聞いた事がある。心の中に蒼銀の竜を住まわせている女…。
「首尾はどうだ?」
ミリエラは闇から沸き上がった太い声に、飛び上がらんばかりに驚き、更に身体を硬直させた。
「お、お許しください、ルディリス様!」
「あの目障りな下級天使は始末したのか?」
「いいえ、いいえ!」
「なぜ始末せぬ!」
「あの女は心の中に、蒼銀に輝く竜を住まわせてございます。」
「!!」
しばらく闇は沈黙した。
「…あの女か…。」
しばらくしてルディリスはぽつん、と呟いた。
「あの高慢で、でしゃばりな目障りな女か…。」
何やら考え込んでいる様子で、ルディリスは独り言を言った。
「なれば、お前の手に負えぬのも致し方あるまい。」
自分ですら何度も煮え湯を飲まされてきたのだから、そう言いかけて、ルディリスは口を噤んだ。
この気持ちはなんだろう?ルディリスは右手をそうっと持ち上げ、左から右にすっと動かした。闇をスクリーンにしてサミュアと名乗る下級天使を映した。その安らかな顔を眺めているうちに、説明のつかない感情が沸き上がるのを感じた。
この女…。この世界を支配し、自分を滅ぼさんとする女…。だが、心の奥でこの女を求めている自分がいる。自分はいつの日か、この女に滅ぼされる日が来るかも知れない。押さえられないほどの感情が沸きおこる。この感情は憎しみというものであると、思っている。でも、なぜこんなに憎いのかわからない。この世に生を受けたその時から、自分はこの女を憎んできた。それがなぜだかわからない。憎くて憎くてたまらないのだ。
自分はどこから来たのだろう?そして何をしようとしているのだろう?この世が欲しいのだ、ただそれだけなのだ。なぜ欲しいかもわからない。
ルディリスはそのサミュアの像をかき消すかの様に、手を動かした。闇の映像は消えた。
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ラファエルは戸惑った。ミカエルが、サミュエル様が難義しておられる、と心に語りかけてきたからだ。自分は今やはり魂を飛ばして、樫の木のある村の探索に来ている所だ。夜だと言うのに至る所に人の気配が満ち満ちていて、ただならぬ様子が見て取れた。だが、こんな事をしている場合ではない。即刻帰らねば。
日頃サミュエル様は幾重にも守られた天宮の寝室でお休みになる。だから心に侵入などできるものではない。だが、こんな無防備な状態で天宮からお連れしてよかったのだろうか?自分に守りきれるのか?
風のような勢いでラファエルは森の宿屋に帰った。
『サミュエル様、主よ!』
いきなりサミュエルの部屋に入るのが躊躇われて、ラファエルは心をサミュアに飛ばした。
『ラファエルか。何ごとだ?』
『何か変わった事でもございましたか?』
『特に何も。騒ぐでない。ミカエルに出過ぎたまねはしない様に、良く言っておいてくれ。』
『サミュエル様!』
ラファエルは自分の心が拒絶されたのを感じた。こうなってはもう何を言ってもお聞きくださらないのを知っている。
「わかりました。」
ぼそっとつぶやいて、ラファエルは再び魂を樫の木の村に飛ばした。
誰に頼まれたわけでもないが、これが自分の役目なのだ、と気を引き締めながら…。
(続く)
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