〜9〜
「ラファエル先生…。」
アルフは困った顔で迎えに来たラファエルを見た。サンディ、ヴェス、アシルも少しうなだれる。天宮に帰る様に言われていたのに言い付けを守らずこっそりついて来ていた。そこにいきなりラファエルが戻って来たのだ。
「一緒に来ますか?」
少し怒った様子のラファエルだったが、思いも寄らない言葉が口から流れ出た。
「ほ、本当ですか?」
急に元気になり叫んだのはサンディだ。ラファエルは他の者の表情を見た。皆一様に嬉しそうだ。あれだけの事を言われれば腰が引けて当然なものを、この子達は…。ラファエルは目を見張った。自分はこの子達をずっと育てて来たはずだが、こんなに積極的な子供達だっただろうか?見た目は成人と変わらないが、目覚めの儀式を行ってまだ間が無い子供達なのに。
そしてサンディの胸元に目を走らせる。シャツの内側に何か隠している。不自然な膨らみはサミュアの言う様に剣石なのか。ラファエルはいつもに増して燃えるような瞳のサンディを見て、剣石に間違いは無いだろうと納得した。
それ以上の事は言わずに、ラファエルは踵を返した。子供達はぞろぞろとその後ろをついていく。
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「うわあ…。」
追い付いた時、誰からともなく声が漏れた。そこには天使の長ミカエルを始めガブリエル、イアンの魔道師の長(スラ・マリシアン)アザリアンまでが揃っていたからだ。本来ならば雲の上の人。一生に一度会えるかどうかの大天使や魔道師。そしてその真中に質素な身なりの低級天使のサミュアが物おじする事無く微笑んでいる。
「皆だけであの村にいかないで良かった。」
そういうサミュアを大天使達が皆慈愛の眼差しで見つめる。それは困ったようでもあり、愛おしげでもあり、それに気がついたヴェスタルトは思わずうろたえてしまった。
夕べの龍といい、昨日の癒しの魔道といい、低級の天使で、学びの舎にまで魔道を学びに来るほどの初心者であるにもかかわらず、天使とはこれほどすごいものなのだろうか?
ヴェスタルトがふと顔を上げて前を見た時、もう目と鼻の先に大きな樫の木が見えた。これが樫の木の村の名前になっている村の象徴だ。旅行の計画を練ろうとした時に光ったのはこのあたりの地図であったのだ。
「出発する前に皆にぜひ聞いてもらいたい事があるのです。」
サミュアが子供達の顔を見回した。
「何度もいう様にこれからはとても危険な事が待ち受けていると思う。それがどんなものなのかお話しておかなくてはなりません。」
アルフとヴェス、アシルが頷いた。サンディはこれほどまでに警戒する理由を謀りかねて首を少しかしげる。
「皆さんは獣王ルディリスを知っていますか?」
サミュアがいきなり切り出した。
はっと息を飲む声にならない声が聞こえた。
「恐らく彼があの村にいる。そして我々はそれと闘わなくてはならないのです。」
アシルの顔面が蒼白になった。サンディは口を一文字に結び、サミュアを睨む。
「獣王は先の闘いで、もう少しというところで取り逃がしてしまいました。」
「それは私の失敗です。」
ミカエルがぶ然として口を挟む。
「誰がやっても同じだったでしょう。闇に堕ちている彼は最期を迎える瞬間に自ら命を絶ち、そして自ら蘇るのです。」
「聞いた事があります。」
聡明な瞳でアルフが答える。
「確か、自ら命を絶つものは闇に堕ち、闇の手先になるのだと。」
サミュアはゆっくりと頷いた。
「今回は視察だけのつもりだった。だけど昨日からの出来事で、ルディリスがかなりの力を持って復活していることがわかります。少しでも恐れる気持ちがあるなら、今ここから引き返しなさい。」
サミュアの命令調の口調は今までにないもので、それだけでも威圧感があった。4人は互いに顔を見合わせた。
「僕は帰ります。」
アシルが少し躊躇った後にそう言った。
「ここまで来て何を言ってるんだよっ!」
サンディが非難する様に言いかけた時、サミュアが鋭い口調でたしなめた。
「サンディ、止めてはなりません。」
サミュアはアシルに優しく微笑んだ。
「その決断も勇気のいる事。見送ってはあげられませんが、道中気をつけておかえりなさいな。」
アシルはサミュアにだけ微かに微笑むと、くるりと踵を返した。
サミュアは腕の赤いリングを外すとアシルの背中に向けて指で十字を切った。そして小さな声でぶつぶつと何かを呟いた。ヴェスはそれが守護のルーンである事を、その匂いから感じた。
〜魔道は言葉で紡ぐのではなく、心で紡ぐもの…〜
昨日学んだこの事が、すっかりと自分の中にしみ込んでいる。ヴェスとて恐くない訳ではない。だが夕べあった出来事をどうしてもうやむやにしたくなかったのだ。ミリエラはどうしてしまったのか。あれはただの幻だったのだろうか?昨日からの出来事はどうしても自分を中心に回っている様に思われた。何かが自分を変えようとしている。そんな予感がする。
そして、腕輪を元に戻したサミュアは高らかに宣言した。
「我々についてくるなら、我々は全力であなた方を守るだろう。さあ、行きますよ。」
サミュアはそう言った後、まず最初の一歩を皆に先駆けて踏み出した。そして他の者も後を追おうと前を向いた。
「気をつけて。何かあったらすぐに私の名を呼ぶのですよ。」
言い聞かす様に歩き始めた子供達にラファエルが念を押す。
「できるだけ1人になってはなりません。皆で近くに寄り集まっているのですよ。」
子供達の表情が引き締まった。
「!」
歩き始めたとたん、ミカエルがふいにサミュアの前に立ちふさがり、守る様に片手を広げた。端正なミカエルの顔は、瞬く間に獣を思わせるようなすごい形相になった。そしてその表情にサンディの目が釘付けになった。ラファエルは子供達の前に立ちふさがり、身構える。ガブリエルとアザリアンはミカエルの邪魔をしない様に、サミュアと子供達の間で空間を睨む。アルフはその異様な雰囲気に何があったかわからないまま、すうっと気持ちが落ち着いていくのを感じていた。どこかで見た事ある光景。どこかの記憶はない。ずっと封印して来た幼い頃のどこかで見た事のある景色なのか。
その表情を見て、サミュアはアルフの中に覆い隠そう、包み隠そうとしている重苦しいものが行き場を失って渦巻いているのを見て取った。唯一無二の竪琴弾きミスティリディとなるためには克服しなければならないものを持っている様だ。幼い頃に経験した記憶だろうか?彼は自分を見てもスラ・マリサナと気がつかなかった。記憶から消し去っているかの様に。彼は蓋をする様に忌わしい過去を封じ込めているのだ。
ヴェスはサミュアをある種の畏怖のようなものを持って見つめていた。何かが迫っている。なのに何故あんなに落ち着いた表情で微笑みすら唇に浮かべていられるのだ?恐くないのだろうか?そして日頃は自分に自信が持てないヴェスですら気持ちの余裕を持ててしまう。
「囲まれてしまったようですね。」
アザリアンがぼそり、と抑揚の無い声で言った。
「小物だ。」
ラファエルが学びの舎では見せないようなぞんざいな言い方で答える。
「獣王は見当たらないな。」
ガブリエルは閉じていた目をゆっくりと開いて言った。
「だが、背後にいる。」
ミカエルは形相を崩さず気配を伺っている。
サミュアは何も言わず表情も変えずに立っている。まるで自分の役目など何もないかの様に、他人事の様に。
『ヴェス。』
ふいにヴェスタルトの心にサミュアの声が聞こえた。
『サミュアさん…。』
『恐い?』
『いいえ。』
『それはよかった。』
ヴェスは思いきってきいてみる。
『貴女は?』
『別に。』
返事はそっけなかった。
『見て御覧なさい。私たちの周りを。』
またサミュアの声がした。ヴェスはゆっくりと見回す。緊迫した雰囲気の大天使達とアザリアン、なんだかわからないまま困った顔で青ざめているサンディと、冷静さを保とうとしているアルフ。そしていつもと変わらないサミュア。
『目を閉じて、もう一度見て御覧なさい。』
ヴェスは目を閉じた。
「あ!」
ヴェスは閉じた目で見た。大勢の異形の者共を。異様に痩せ細り眼だけ大きくつき出している餓鬼、でっぷりと太り大きな口からよだれだけ垂れ流している入道。そして下品な赤紫の光に覆われた女。
「ミカエラ…。」
ヴェスの口から声が漏れた。その時、ミカエラが口の端を釣り上げてにっこりと笑った。
「ヴェス、迎えに来たわ。さ、私と一緒にいらっしゃい。貴方はそんな人達と一緒にいるべきではないわ。」
どんなしゃべり方をしているのだろうか?ヴェスの耳に聞こえた言葉ではない。直接語りかけて来たものではあるが、サミュアのような心の中に響く声でもない。
「さあ、ヴェス。ヴェスタルト。私と一緒に…。」
ヴェスがふらふらとミカエラの元に歩き出そうとした瞬間、ふいにミカエラの声が途切れた。気がつくとサミュアが指をぴん、と鳴らしヴェスの顔をじっと見つめていた。
「そう、そういうこと。」
サミュアは妙に納得したような様子で首を振った。そして静かに両腕を前に突き出した。手の指を無造作に組み合わせ、ゆっくりと左右に開く。
ぱちん、と何かが砕ける小さな音が聞こえた。
サミュアの腕にはまっている赤い天使のリングが砕け散ったのだ。その破片がキラキラとゆっくりと落ちていく。それが下に着くまでの間に異形の者共は引き延ばされ、丸められ、リングと同じ様に粉々に砕けてしまった。ミリエラは口元を歪めながら下品に笑った。
「後ほどお会いしましょう、お綺麗な天使様。」
ミリエラは掻き消える様に姿を消した。
ヴェスタルトはその様子を悲しそうな様子で見つめていた。今目の前で起きた事は現実かはたまた…?見回してみるとサンディとアルフには何も見えなかったようだ。だが、大天使様達の間に何となく安堵の表情が伺える。
「皆、大丈夫ですか?」
ラファエルが子供達の無事を確認した。ミカエルも凶暴な表情は引っ込み、いつもの少し仏頂面気味の温和な顔に戻った。
「さすがでございますね。あの短い間に…。」
アザリアンは敬意を持ってサミュアを見つめた。
「これで、あのミリエラと言う少女が獣王の所まで導いてくれる。」
サミュアは再び取り出した天使の赤い輪を右の腕にはめた。
「ミリエラ…?ミリエラってあのミリエラか?昔ヴェスと仲のよかった…。」
サンディは不思議そうに首をかしげる。そしてヴェスタルトが苦しそうな表情で俯くのを見た。
「夕べから僕達の周りにいるんだ。」
ぽつん、とヴェスはそう言った。
「貴方には見えるのですか?」
少し驚いた様子でミカエルがヴェスタルトに聞いた。
「はい。夕べも見えましたし、今も…。」
「これは驚いた。」
ガブリエルは目を丸くしてサミュアを見た。
「驚くには値しない。彼女はヴェスタルトに深く入り込んでいるからな。」
「入り込んでいる?」
その言葉の意味をはかりかねて、ラファエルが問いかけた。
「アザリアンは、誰かが彼の力を稚拙な力で封じ込めていると言っていた。」
皆はいっせいにアザリアンを見る。アザリアンはゆっくりと頷いた。サミュアは続ける。
「彼の力を封じ込めていたのは彼女だ。幼い頃近くにいたのだろう。まだ目覚めて間もない彼に多くの魔道をかけ、力を制御していたようだ。だからいまだに操られる。」
「!」
ヴェスタルトは衝撃を受けてへたへたとその場に座り込んだ。
「僕は操られているのですか?」
「夕べ彼女に誘われて私の心の庭に侵入しただろう?そしてさっきも貴方は彼女に抗えなかった。我々にはわからないどこかに何か絆が結ばれている。」
サミュアは眼を閉じた。
「僕はどうしたらいいのでしょう?」
「貴方が望むならそれを断ち切る事はできる。貴方自身の手で切るのです。」
「僕自身の手で…?」
「望むなら自ずと切れましょう。だが夕べも先ほども貴方は切る事を望まなかった。それだけだ。」
「切る事を…、望まなかった…。」
思い当たる事はあった。昨日黙ってサミュアの心の庭について行ったのはまぎれもない事実だった。行きたかったのだ。
「アザリアン。」
「はい。」
「ご足労だが、ミリエラの眼を通じて様子を探っていてもらえまいか?彼女に徴をつけてある。すぐにでも彼女の視野を映す事が出来よう。」
「さっそく。」
「ミカエル。」
「は。」
「樫の木の村の視察はせぬ。村の浄化は後ほどでよい。どうやら獣王の潜む地下はさほど遠くはなさそうだ。」
「では、さっそく準備を。」
ミカエルは歌を歌う様に天を仰ぎ口を動かした。口からは言葉になっていないルーンがこぼれ落ちた。ヴェスにはそれが何かは聞こえたが、アルフやサンディには言葉としては聞こえない。だが、サンディの瞳が炎の様に再び燃え上がった。
「もしかしたら…。」
アルフはサミュアを見つめた。イアンの長を、大天使の長を自由に操るこの方は…。何故気がつかなかったのか不思議だった。凛とした横顔。それはまぎれもないスラ・マリサナの横顔だった。あの幼いあの日…。雪の降る夜更け…。自分を救ってくれた麗しい…。
思い出すと、同時に激しい頭痛に襲われた。思わず頭を押さえて地面に倒れこむアルフをヴェスが慌てて支えた。
(続く)
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