〜5〜

「君は誰…?」
ヴェスタルトが心地よくまどろんでいると、ふと自分の下の方から声が聞こえた。正確に言えば声が心に響いてきた、とでも言うのだろうか?

ヴェスタルトはゆっくりと目を開いた。

そこは見たこともない部屋で、透き通った水晶の柱が何本も立っている大きな広間だった。辺りからは微かなハープの音と、鐘の音が優しく響いている。そして、銀の髪をした1人の男が目を閉じたまま自分の方に顔を向けていた。ヴェスはよほど困った顔をしていたのだろう。もう一度この男は聞いた。
「君は誰?どうやってここに来たの?」
「ここはどこですか?」
ヴェスタルトはそう聞こうと口を開いた。だが、口から言葉は出なかった。しかし、代わりにこの部屋に響くような音色で、同じ意味のルーンがこぼれでた。

この男は驚いたような顔で目を開いた。その目は鏡の様な銀色だった。
「君は、実体を伴っていないのか?魂だけ飛ばしてしまったんだね。ここは天宮にある水晶の館。」
「ではここはイアンの魔道士が集う館…?」
ヴェスの声は再びルーンになって辺りに響いた。その言葉はヴェスすら知らないものも含まれている。勝手にルーンとなって紡ぎだされているのだ。
「君のルーンは見事だね。」
この男は優しげな目でヴェスタルトを見つめた。
「ああ、失礼。私はアザリアン。イアンの魔道士の長。」
「僕はヴェスタルト。学びの舎で修行中です。」
「どうやってここまで魂を飛ばしたの?学びの舎はヴァカンスで閉鎖中ではないのかい?それとも熱心なラファエル先生の課外授業かな?」

「わかりません…。」
途方にくれたような顔で、ヴェスタルトはアザリアンを見つめた。
「どうやって来たかも、そしてどうすれば帰れるのかも。」
「帰るのは簡単だ。還元のルーンを唱えるだけ。見た所魂を飛ばすのは不馴れな様だから、早く帰った方がいい。長い事彷徨っていると、帰れなくなってしまうよ。」
「還元のルーン…?」
「そう、魂を飛ばした時のルーンを逆さまに唱えるだけだ。」
「…。」

ますます困った顔になったヴェスタルトの様子を見て、アザリアンはいぶかしげな顔で聞いた。
「もしかして、君はルーン無しで魂を飛ばしてしまったの!?」
底知れない力の持ち主ならば可能なその離れ業を、もしかしてこの少年がやってのけたのか?しかも全く意図すらしていないうちに!?それに答えようとしたヴェスタルトは、とてつもなく自分が疲労している事に気がついた。そして、もはやルーンを紡ぐ事すら出来ないほどのけだるさに身を任せていた。

「いかん!」
アザリアンは手を広げ、ゆっくりとルーンを唱えた。力を消耗し、姿がかすみ始めたからだ。持っている力を使い果たした時、彼は実体を持たないさすらい人になってしまう。
「とにかく君の体を探さないと。私が君を帰してあげるから、ちょっと辛抱してくれ。」
アザリアンは自分の力をゆっくりとヴェスタルトに注ぎながら、愛おしいラゼルアを呼んだ。
「ラゼ、君の瞳を貸してくれ。」
「はい、アズ。」
いつの間にか水色の髪をして、透き通った瞳の少女がアザリアンのすぐ脇に来ていた。

二人の口からは協調のルーンがこぼれでた。そしてラゼルアの瞳がぼうっと光った。この水の妖精であるお嬢さんは、その瞳で魔女達の使う水晶球のように辺りを見渡す事ができるのだ。そしてこの協調のルーンを唱えれば、その視界をアザリアンも共有する事ができる。

「ここにいたか!」
その時、雷の激しさで水晶の館を訪れたサミュエルは、朦朧としながらも無事なヴェスタルトを見て胸をなで下ろした。
「サミュア…さ…ん…。」
ヴェスタルトはサミュアの顔を見て安心したのか、ゆっくりと意識が遠のいていった。

「ああ、貴女様でしたか。スラ・マリサナ。」
「助けてくれて感謝する。今から余が連れて帰る。」
「この少年は…?かなりの力の持ち主とお見受けしましたが。」
サミュエルはにっこり微笑んだ。
「今にそなたたちの仲間になる。そんなに遠い話ではないと思う。」

サミュエルはヴェスタルトを抱えると、再び雷のような勢いで帰っていった。


「…ヴェス、ヴェス。どうしたの?」
ヴェスタルトは、ハッと正気に返った。
「もういいわ。手を離してみて。」
目の前には、何ごともなかったような顔で、美しいサミュアの顔がヴェスタルトを覗き込んでいた。
「あれ…、僕は?」
サミュアはにっこり微笑んだ。
「初めてのルーンで疲れてしまったのね。一瞬意識がなくなっただけ。幻覚を見たでしょう?」
「幻覚…。」

そう言えば何か見た気がした。髪がくるぶしまでのびた神々しいサミュアの姿、見事な銀色の髪をした魔道士の長…。長い時間だった気もするが、ほんの一瞬だったような気もする。

サミュアはゆっくり左手をヴェスの上から離した。そして恐る恐るヴェスも自分の右手を、怪我をしていたウサギから離した。

先ほどまで瀕死の状態でうずくまっていたウサギは、おもむろにくるっと起き上がった。そして振り向き、振り向きしながら、茂みの方に走っていった。そこにはやや体の大きなウサギが待っていた。母親であったかも知れない。

ヴェスは何が起こったのか、良くわからないままそれを見送った。
「す…すげえ…。」
ふいに後ろからサンディの声が聞こえた。それを皮切りに森の音…鳥の声やら木々のざわめきやらがヴェスの耳に戻ってきた。
「おまえ、いつの間にそんなすごい魔道が使える様になったんだよ?」
サンディが興奮して叫んだ。
だが、ヴェスは放心した様に立ち尽くしていた。

「今のは…僕の力じゃないだろう…?」
しばらくして、ぽつん、とヴェスが言った。
「なぜ?」
サミュアが聞き返した。
「今のはあなたの力が僕の手を通してウサギに流れこんだのではないの?」
「いいえ。私はあなたの力の通り道を作っただけ。あれはあなたの体から溢れ出した魔道です。」
ヴェスタルトは自分の手のひらを見つめた。

「アシル、どうした?」
ラファエルはふさぎ込んでしまったアシルを覗き込んだ。
「なんでもありません!」
アシルはラファエルを振り切ると、勢い良く走り出した。
「アシル!」
ラファエルはアシルを追いかけようとした。その瞬間、ラファエルは草に足を取られて転倒した。その草は、もがけばもがくほど絡み付くようで、ラファエルは咄嗟に立ち上がる事が出来なかった。

「だれか!誰かアシルを止めてくれ!」
ラファエルが叫んだ。
サミュアも気がついて振り返った。アシルの後ろ姿に再び赤い蠍の徴が浮かんだ。そして思わず叫んだ。
「いけない!あの子を止めるのです!早く!」

「いったいこれはどうした事だ!」
アシルの目を通して、獣王は再びミリエラとともに彼らの様子をうかがっていた。
「わかりません!」
「お前の貢ぎ物とやらは、あの癒しの魔道を使った子供だろう?」
「は…はい…。」
「力は封印されておらぬではないか!見事なまでの力だ!」
「どうして封印が解けたのかは、全くわからないのでございます。ルディリスさま、あなた様のお力にふれたとたんに目覚める様にしたはずでございます。」
「おおかた、そなたの力などそんな物であろう。」
蔑むような言い方で獣王はつぶやいた。

「だが、あの側についている下等な天使の女。ただの天使ではないな。あの顔はどこかで見たことがある。そう、あの高慢な女にそっくりだ。」
「高慢な…女…?」
「口にするのも汚らわしいわ。だが、あの女がこんなひよっこどもについて歩いているとは思えない。探るのだ。あの女が何者か。そして始末するのだ。」
「分かっております。今晩のうちに必ず。」

「そう、あの少年の側に我らの同胞がいたであろう?その瞳を我々に提供しているあの愛すべき男。」
「は、はい。」
「今すぐここに連れて参れ。ゆっくり話がしたい。」
「かしこまりました。」

サミュアは天に向け手を広げた。そして何やらぶつぶつと天に向けて呟いた。すぐそばにいたヴェスはそれがルーンの一種だと言う事は分かったが、何と言っているのかわからなかった。だが、それが言い終わらないうちに、俄に空がかき曇り、雨が降り始めた。だが、ヴェスは気がついた。自分達のいる所には雨は落ちてきていなかった。まるで何かに守られているかの様に。

サミュアがかっと目を見開き、その手の先から銀白色のオーラが一瞬流れ出たのを見た瞬間、自分達の少し先に、轟音をたてて稲妻が落ちるのを見た。
「アシル!」
その雷が落ちるのと同時に、草の呪縛から解放されたラファエルは、アシルの行ったと思われる方に走り出した。

「おれたちも行こう!」
サンディの後をアルフが追った。ヴェスはサミュアを見つめた。あの稲妻はこの人が起こした物だろうか?天候を操る魔道。それも魔道士達にとっては基本であり、難題でもあった。それをこんなに見事に操るとは…。

ヴェスは何か恐ろしい物でもみているような気持ちになった。この人はいったい何者なのだろう?そう言えば自分はこの人について何も知らないのだ。いつ、どこで生まれたのか、なぜ突然学びの舎に来たのか。こんなに魔道が上手なら、もはや学ぶ必要などないのではないか?

「ヴェス、あなたの癒しの魔道が必要だわ。アシルのところに行って、さっきの様に癒してあげて。」
「今の雷に撃たれたの?」
「いいえ、ちがいます。雷は彼と闇との接触を断っただけ。」
「闇との接触…?」
「彼は操られている。」
「いったいあなたは誰なんだ?」
「私…?」
サミュアは微かに微笑んだ。それはつい今まで見せていた微笑みとは全く異質のものだった。
「さあ、早くアシルのところに行ってちょうだい。」

ヴェスは自分の意志がすでになくなっているような、熱にうかされたような状態で、皆の後を追った。今のサミュアに浮かんでいる微笑みは抗い難い支配者の微笑みのようで、それに逆らう事など出来なかったのだ。

アシルは少し行った所にうつ伏せで倒れていた。そしてそれをラファエルが抱え起こそうとしている所だった。サンディやアルフもそれを助けようと、手を伸ばした。

その時一瞬、ヴェスの目に赤い蠍が映った。
「うわっ!」
思わず叫び声が口からついてでた。アシルの目から1匹の蠍がはい出してきて、こちらに向けて毒ばりを振り上げ威嚇したのだ。

だが、それが見えているのは自分とラファエルだけだ、とヴェスにはすぐに分かった。

ずぅぅーーん…。

鈍い音が聞こえ、目に見えない落雷が再び襲ってきたような衝撃があった。ヴェスタルトは思わず目を閉じた。
「君にも蠍が見えるんだね?もしかして、雷も雨も見えたのか?」
ラファエルがヴェスタルトに囁いた。驚愕を隠せない、と言う表情で。
「はい、見えます。」
気がついてみると、サンディやアルフは、雷の音すら全く気がついてない様子だった。
「それは驚きだ…。」
ラファエルは独り言を言った。

ふいにメラメラ、という音に気がつき、ヴェスタルトは周りを見回した。燃えている!自分達の周りが綺麗な円を描いて銀白色の炎に包まれていた。それはすぐに炎ではなく激しいオーラである事に気がついた。そうだ、さっきも見た。サミュアの指先から、これと同じものが流れ出したのを。

銀白色のオーラ…。もっとも高貴とされるものだ。いったいあの人は…。

ゴォ………!!

そのオーラが荒れ狂い始め、逆巻き燃え上がった。
「うわあ!」
「大丈夫、我々にはなんともないはずだ。よく目を開けて見るんだよ。」
ヴェスは恐る恐る目を開けた。その炎は逆巻きながらジリジリとその円周を狭めて、近づいてきた。もちろん、それが見えているのは自分とラファエルだけらしい。

ふいにその炎は獰猛に蠍に襲いかかった。
『ぎゃああ…!!』
地の底の方から女の叫び声が聞こえた。蠍は天高く舞い上がり、明るい光を放って弾け飛んだ。

そして何ごともなかったかの様に、辺りは静まり返った。
「さあ、ヴェスタルト。癒しの魔道を。」
いつの間に来たのだろうか。ヴェスタルトの後ろにはサミュアが立っていた。

ヴェスタルトは促されるままに、アシルの脇に屈みこんで、額に手を当てた。そして、彼の傷が癒える事を願った。どこに傷があるのかは良くわからなかったが。その瞬間、今まで聞いた事もないルーンが口をついてでた。

心の傷を癒すルーンだと知ったのはずっと後のことだ。

アシルの意識は戻らなかった。
「おれが背負っていくよ。」
サンディはアシルの脇に屈みこんだ。

「サミュア、あなたは誰?」
ヴェスはもう一度聞いた。
「ヴェス。あなたはちょっと知り過ぎてしまったかしら?」
サミュアはそう独り言を言った後、何やら呟いた。ヴェスは蠍のこと、炎のことをすっかり忘れてしまった。
「旅が終わったらあなたの記憶が戻るでしょう。私を恐れてはいけない…。」
サミュアは屈託のない笑みを浮かべた。

                  (続く)