〜2〜

「大変な事になったよな、アルフ。」
サンディは小声でアルフに言った。
「うん、みたみた。でもヴェスにはまだ言わない方が良いかも知れないね。」
アルフも小声で答える。

二人は寄宿舎では同室で、すぐ隣にはヴェスタルトの部屋がある。彼は今のところ1人でその部屋を使っているので、寂しくなるといつもサンディやアルフの部屋に来ていた。もちろん今も来ている。
「何が大変なんだ?」
不思議そうな目でアルフを見つめながら、ヴェスが聞く。
「ま、ちょっと待ってなって。」
サンディはアルフに目配せをした。アルフは黙って部屋を出ていった。

寄宿舎のヴェスの部屋の向側には、この数年誰にも使われていない部屋が一つあった。この部屋の住人だった女の子はある日いきなり姿を消したのだ。噂では、この世を儚んで自ら命を断ったのではないかと言われているが、本当のところはわからない。だが、ことが明らかになるまで、とずっと誰にも使われずに来たのだ。

そこに、今日からあのサミュアさんが住む事になった。寄宿舎に住むということは、両親は共に働いているのだろう。スラ・マリサナ付きの仕事にでも従事して留守がちなのかも知れない。ヴァカンスに予定がないなら、誘ってみたらどうだろう?

サミュエルは、天使の身なりのまま寄宿舎の部屋の窓から、外を見ていた。引っ越しの片付けは簡単だ。一言ルーンを唱えるだけで、部屋に必要なものの全ての配置が終わった。サミュエルの目にはヴィヒテス山の黒い影が少しずつ膨れ上がっていくのが映っていた。

宿敵ルディリスが動き始めている前兆だった。

過去何度惜しい所で取り逃がしてきただろう?あの輩は追いつめられると自ら命を断ち、そして復活するのだ。同じ闇を背負った者どもを仲間に従え、以前よりより強力になって再び蘇る。この果てしない闘いの後、そのからくりに気がついた。この手で始末するまでは、この闘いが続くのだろう。

〜エリクシール、ワタシハココヨ〜

突然サミュアの耳にそんな囁きが聞こえた。
「エリクシール?」
それは何年か前、天宮の泉から盗み出された水の名前だ。泉の番人フォンティエルの目を盗み、水瓶ごと持ち出されたものだった。それは目覚めの儀式に使われる水で、以来天宮では目覚めの儀式は他の泉水を使って行われる様になった。

サミュアは静かに目を閉じた。ゆっくりと手を広げると同時に、サミュアの髪を後ろで束ねていたリボンが外れ、黄金に光を増した髪が波打ちながら床まで伸びた。そして腕にはめていた赤いリングが、その大いなる力に耐えきれずにぱちん、と弾けた。
〜エリクシール、アナタハドコ?〜
稲妻のような声でサミュアは問いかけた。
〜エリクシール、ワタシハココヨ〜
再び同じ声がした。サミュアは注意深く辺りを見回すと、自分が配置したものではなく元からこの部屋に置かれていた小さな古ぼけた机が、微かな光を放っているのを見つけた。

サミュアはその机に駆け寄ると、勢い良く引き出しをあけた。

中には何も入っていなかった。だが、引き出しの上のところに、何やら走り書きをしたメモが挟まっているのを見つけた。

〜エリクシール、ワタシハココヨ〜
その走り書きが再び語りかけた。
〜ヴィヒテス山ノフモト、フルイカシノキ、ワタシハ、エリクシール〜
どんなに探していても見つからなかったあのエリクシールが、ここにあると言うのか?

ふいに軽やかなノックの音が響いた。まるで歌を歌っているかのようなリズムで。
「どなた?」
サミュアはぱちん、と指を鳴らした。髪は元に戻り、腕には再び下級の天使の赤いリングがはめられた。と、同時に、扉はゆっくりと開いた。

「突然すみません。アルフォラードです。」
「あら、いらっしゃい。」
サミュアは優しげな微笑みを浮かべるとアルフォラードを迎え入れた。

「あの、僕達、このお部屋の向側に住んでいるのですが、もしよろしければ遊びにいらっしゃいませんか?サンディもヴェスもあなたを歓迎してます。」
サミュアはにっこりと微笑んだ。
「うかがうわ。」

「あっ!」
息を飲むような驚きの声をヴェスタルトがあげた時、アルフはサミュアを伴って部屋に帰ってきた。サミュアは軽い挨拶を済ませると、固まってしまったヴェスタルトの横に座った。
「来てくれてありがとう、サミュアさん。」
サンディが嬉しげに言う。
「お招きくださってありがとう。」
「僕達、いつも3人でここに集まっているんだ。これからもし良ければサミュアさんも来て欲しいなあ。」
アルフも付け加える。

ヴェスはそれに対して一つ一つ深く頷くだけだ。
「相変わらずだらしねえの!」
サンディに小突かれてもヴェスはただ赤くなるばかりだった。

ヴェスには憧れの人がいた。目覚めの儀式がすみ、やっと周りの知覚ができる様になって間もなく、向かいの部屋に来た少し年上の女の子…。いまサミュアがいる部屋の前の住人、ミリエラだった。彼女は天使になる事を夢見ていた。皆はミリエラのことを余り良くは言わないが、それでも信じている。何か事情があったのだ。きっとどこかに生きていて、幸せに暮らしているに違いない。

ミリエラは幼いヴェスにいつも優しかった。魔道も手ほどきをしてくれた。そう、今サミュアに対するこの感情と同じ感情を感じた。

だが、彼女が姿を消してから、ヴェスは女の子と口も聞いてない事に気がついた。昨日サミュアと会話するまでは。とにかく自分に自信がないのだ。アルフの様に竪琴を弾くのが上手ならば吟遊詩人を目指しただろう。サンディのように腕っぷしが強くて、剣を使うのがうまいなら剣天使を目指しただろう。アシルのように魔道が上手なら、魔道士になるのも悪くない。だが、自分には?音楽的な才能はない。腕っぷしもからっきしだ。魔道に至っては花を作るのが精々だ。

だから天使のような笑みを浮かべて、さざめきの様におしゃべりする女の子は、眩しくもあるが、恐い存在でもあった。特に何人かで固まっている所に入っていくのは、全く至難の技だったのだ。

「全く!花を作ろうと思っただけでも誉めてやらなくっちゃね。」
アルフもどうにもしまらないヴェスをみて溜め息まじりに言った。そしてサミュアはクスクス笑い、ヴェスは更に赤くなった。

『ヴェス、ヴェスタルト。聞こえるかしら?』
サミュアの声が耳元で聞こえた。ヴェスはびっくりしてサミュアを見つめた。だが、サミュアはサンディやアルフと会話しているのだ。
『ヴェス、聞こえたら、心で返事をして。念じるだけでいいわ。ルーンなんかいらない。』
ヴェスは途方にくれた瞳をサミュアに向けた。だが、サミュアは気にかけたふうもなく、向こうを向いている。やはり空耳だったのだろうか?
『ヴェス?私の声が聞こえない?』
『ううん、聞こえてる。でもどうしたらいいのかわからないよ。僕は心を飛ばすのが苦手なんだ。』
思わずヴェスは心の中でそう答えた。そして自分でびっくりした。
『そんな事はないわ、ヴェス。あなたの声は聞こえてる。』

『魔道は心で使うもの。ルーンに振り回されてはいけないわ。ルーンなど使わなくても魔道はいくらでも紡げるわ。心から願えば良いのです。』
『心から…願う…。』

ヴェスは考え込んだ。目からウロコが落ちるような気がした。自分は今まで魔道書を一生懸命読み、それを暗記し、その言葉に振り回されながらルーンを紡いできた。だが、今自分はそんな言葉も無しに心だけで会話を紡いだではないか。

「サミュアさん、実はあなたに聞きたい事があるんだ。」
アルフが少し躊躇った表情で切り出した。
「ききたいこと?」
「来週から始まるヴァカンスなんだけど、何か予定がありますか?」
「いえ、特に。」
「ならば俺達と一緒にハイキングに行きませんか?」
サンディがその後を受けて話をすすめる。
「ハイキング…?」
「ほら、俺達皆理由は違うけど帰る家がないから、この期間はどこかに遊びに行く事にしてるんだ。まだどこに行くかも決めてないけど、もし良かったら、サミュアさんも一緒にどうかな、と思って。」
「おもしろそう…。」
サミュアは嬉しそうに笑った。ちょうど良い機会かも知れない。ヴェスタルトに少しずつ魔道を教えるには、一緒にいる時間が必要だ。

サンディは懐から天宮の周りの地図を取り出し、テーブルの上に広げた。

「あ…れっ!?」
その時、ヴェスは目を見開き、そして目をごしごしと擦ってもう一度地図を見た。
「どうしたの?」
やっとヴェスの方を向いて微笑んだサミュアにヴェスは言った。
「一瞬だけど、光ったんだ。ヴィヒテスの山のふもとが!」
今までの緊張はどこへいったのか、自信すら感じられるしっかりした口調だ。

もちろん他の皆もこの地図を見たのではあるが、光って見えたのは彼だけだった。だが、先ほどのメモ書きの件といい、山に立ち篭めている黒いもやといい、偶然の一致とはサミュアには思えなかった。
「よし、そこにしよう!」
サンディが無邪気な表情で提案した。誰も反対する者はいなかった。

「何をしてるんだ!?やめろ、やめるんだ!」
寄宿舎の一画で大天使ラファエルは思わず叫び声をあげた。部屋はおろか廊下まで蒼い薔薇が溢れていたからだ。
「アシル!だめだ、止めるんだ!!」
ラファエルは短いルーンを唱えた。辺りは時が止まったかのように静まり返った。

そして急いで蒼い薔薇をかき分けて、その部屋の中に入っていった。部屋の真中には、精魂を使い果たして肩で息をしているアシルが呆然と立ち尽くしていた。
「せ…先生…。これだけあれば…、これだけあれば一つくらいは弾けない花があるかもしれな…い…。」
「ばかなことを…。」
ラファエルは優しくアシルの肩を叩いた。

「君の気持ちは痛いほどわかる。でも、このままでは命すらも燃やし尽くしてしまう!」
ラファエルは、左手の腕につけている大天使の印である青白いリングを外した。そしてその花の1輪にそっと触れた。

ぱちん…。

その花は、サミュアの時と同じ様に弾けた。
「ああっ!!」
アシルが悲痛な声で叫んだ。

再び青いリングをはめると、ラファエルはもう1輪花に触れた。
「君の魔道はとても美しい。こんなに見事な薔薇を作れる者は、そうそういないだろう。だが、まだ内なる力が不足しているのだ。もっともっと力をつけなくてはならない。」
「内なる…力…。」
「今はこのリングで力を制御しているので、私が触れても壊れないけれど…。制御をしなければ私の力に耐えきれずに弾けてしまうのだ。サミュアさんの時も同じだった。」
「どうすれば!?どうすれば良いのです?」
「私についてきますか?」
「はい!力がつけられるならどこにだって!」
「ならこのヴァカンスに、私は泉の番人のフォンティエルに頼まれて、ヴィヒテス山の向こうにある泉まで水を汲みに行く予定です。」
「御一緒させて下さい!!」
縋るような目でアシルはラファエルを見つめた。
「いいでしょう。」
ラファエルは慈愛に満ちた眼差しをアシルに向け、優しく微笑んだ。

「そろそろ準備にかかるのだ、ミリエラ。」
地の底の方から沸き上がるような低い声が、暗闇の中から聞こえた。
「はい、我が御主人様。」
「余はそろそろ復活の時を迎えておる。今度こそあの高慢な女の息の根を止めてみせようぞ。神の目とやらの鼻っ柱をへし折り、余の足下に平伏させるのだ。」
「はい。必ずや。」

ぴちゃん…。微かな水の音が聞こえた。
「エリクシールの準備はできておるか?」
「もちろんでございます。この日の為に、大変な苦労をしてフォンティエルの元から盗み出したる目覚めの泉水…。全ての生命の源たるこの泉の水を、ここまで隠し通すのは至難の技でございました。」
「泣き言を言うでない。」
怒りの籠った一撃が、暗闇を走った。軽い悲鳴がミリエラから漏れた。
「申し訳ございません。」

「ところで、そなたが余の為に用意したと言う貢ぎ物はどうなっている?」
「はい。魔道を封じ、神の身許ですくすくと成長しております。先ほどここに呼び寄せる事に成功いたしました。もうじきにやってくる事でございましょう。あなた様の魔道に呼応して、その力が目覚める様に仕組んでございます。」
「楽しみにしておるぞ…。」

あたりはしん、と静まり返った。ただ時おり闇の中に小さな水音が聞こえるだけであった。

                  (続く)