〜10〜

「ミリエラ…。」
獣王ルディリスは明かに不快な声で鋭くミリエラを呼んだ。
「はい、ここに…。」
そう言い終わらないうちにしゅっと音がして、ミリエラに向けて何かが飛んだ。

ひっ、という小さな叫び声とともに、ミリエラがうずくまった。肩口に鋭い痛みが走る。痛む場所を反対の手で押さえると、生暖かくぐっしょりと濡れている。
「君様…。」
ミリエラが信じられない、と言わんばかりの表情で目を剥いて獣王を見つめた。
「バカめ、つけられおって…。」
獣王は吐き捨てる様にそう言うと、ミカエラから背を向けた。
「どことなりに行くがよい。愛想が尽きたわ。」
「そんな!」
痛みに呻きながらもミリエラは獣王の足下に縋り付いた。
「もうお前に用はない。消え失せるなり生まれ変わるなり好きにするがいい。」
獣王は縋るミリエラを突き放し闇に潜っていった。
「ルディリスさま!!」
闇にミリエラの悲痛な叫びがこだました。

「…勘付かれました。」
残念そうにアザリアンが言った。
「獣王は我々の残した徴に気がついたようです。」
「場所の特定は?」
「おおよそのところは。しかし特定は無理です。」

サミュアは何やら考え込んだ顔をした。
「どうなさいました?」
ミカエルが不思議そうな表情で聞く。
「ミリエラと言う少女、どこかで会った事がある気がしてならないのだ。」
「学びの舎で数年学んでおりましたから…。」
ラファエルが口を挟む。
「いや…。私は学びの舎に足を踏み入れたのは、今回が最初だ。それまではラファエルに任せておったからな。」

「あの…。」
その時、アルフがサミュアの元にゆっくりと近づいて来た。その表情から、サミュアはアルフが自分の事を気がついたのだ、と察した。
「貴女様は…。」

ヴェスタルトはふいにアルフの声が聞こえなくなったのを不思議に思った。口はぱくぱくと動かしているのだが、その声が全く聞こえてこない。不思議に思って、指で耳を軽く触ってみたけれど、特に異常はない。アルフの声以外は、風で木の葉が擦れ合わさる音も、鳥がさえずる声も普通に聞こえているからだ。

「わかりました。そうします。」
ふいにアルフのそんな声が聞こえた。そして何かすっきりとしたような、それでいて悲しそうな顔でアルフはヴェスやサンディの元に帰って来た。
「どうしたんだ?サミュアさんと何を話していたんだよ?」
ヴェスは思わず聞いた。
「なんでもない。」
怒ったような顔でアルフが答えた。

時々あるのだ。アルフがそう言う表情をする事が。大抵はアルフの子供の頃に話が及んだ時にこういう表情をする。何かを隠しているのかとも思うのだが、本人は記憶がないのだと怒った顔で言う。だが、今回今までと違うのは、何か話したそうな表情で、自分達を見回している事だ。

そしてヴェスはサミュアの変貌を予期してたかの様に見た。ただの見習い天使だと思いたかった自分がいる。だが大天使やイアンの長と対等に、いや対等以上の口をきいている姿を見て、ただの見習い下級天使ではないのが明らかだった。

あの人は一体誰なのだろう?大天使様の1人なのだろうか?それとも魔道士なのか?そう言えばアザリアンには許婚者で水の妖精のラゼルアがついているはずだ。

食い入る様に見つめていたからだろうか?サミュアはヴェスの方をくるりと向き直った。
「あ…。」
ヴェスタルトは一瞬その瞳が黄金に輝くのを見、射抜かれた様に立ちすくんだ。ぱちん、と再びサミュアの腕の天使の赤いリングが砕け散った。サミュアはそれに全く気がついていないようだった。
「アザリアン、そなたは昨日ヴェスタルトの力が何者かに封印され、私の力に触れて目覚めたのだと言っておったな。」
「はい。封印したのはミリエラでございましょう。同じ魔道の匂いがいたしました。」
「そうだな。」
再びサミュアは考え込んだ。苦悶するような表情で。

この方はラゼルアではない。ヴェスタルトは思った。アザリアンよりもそして大天使の長ミカエルよりも更に貴い方…。まさか…。ヴェスタルトはそんな方をただ1人しか知らなかった。

スラ・マリサナ…。神の左目、この世を統べる唯一の神、全ての智、全ての愛…。

一度に色々な事が起こり、一度に色々な事がわかり、そして今自分はその中に囚われている。ミリエラの変わり果てた姿、それに自分が操られているのかも知れないと言う事実、心のよりどころにいつのまにかなっていたサミュアがもしかしたら唯一無二のお方かも知れないと言う事実…。ヴェスタルトは気が遠くなるような目眩を感じた。
「アルフ、ヴェス、なに深刻な顔しているんだよっ?」
サンディの元気な声が聞こえて、ヴェスはハッとした。そして取り繕うような笑みを浮かべた。何故かこの能天気な明るい声に救われた気がする。
「なんでもないよ。ありがとう、サンディ。」
ヴェスタルトはサンディに手を差し出した。その手のひらにサンディは自分の手のひらを合わせて笑った。

しゃらん、という音がした。そしてそこから熱くない火花が散った。

「私は一つの仮説を思い付いた。」
サミュアは苦しげにミカエルに言う。
「それはどんな…。」
その表情からそれは軽々しく口にするような事ではないのだと謀り知れる。
「ミリエラは…マリエルではないか、と。」
ミカエルの表情がこわばった。
「まさか!それでは…。」
それが余程恐ろしい事であるかの様に、大天使達とアザリアンは目を剥いた。



この世界は昔大いなる神が創造された。しかしその神は自分が作った世界に飽いて、左目と右耳だけを残しお帰りになってしまった。左目と右目は互いに愛し、互いに憎んだ。愛した数だけ天使が生まれ、憎んだ数だけ魔道士が生まれたとも言われている。半分は左目の味方につき、もう半分は右耳を支持した。

ある日小さな諍いから、大きな闘いになった。左目は自分の分身である右耳を殺し、右耳についていた何人かの天使と魔道士が右耳に殉じ、何人かの天使と魔道士が左目に寝返り、残りの者は行方がわからなくなった。殉じた天使の中でただ1人大天使が混ざっていた。ミカエルと対になるような闘いの剣なる大天使、マリエルだった。
「自ら命を絶つ者は闇に堕ちると言う…。マリエルは自ら命を絶ち、右耳なる神シルヴィルムに殉じた。闇の手先となっておっても何の不思議もない。そしてマリエルなら泉の天使フォンティエルの管理する泉水エリクシールのありかも知っておろうし、盗み出す事もできたかも知れぬ。」
悲しそうな表情のまま、サミュアは続けた。
「もし、あの少女がマリエルなら、かわいそうな事をした…。」

ミリエラは静かに横たわりながら、我が身に起こった事をゆっくりと考えていた。先ほどルディリスに抉られた肩は脈打って、別の生き物の様に感じられる。痛みはもうほとんど感じられない。流れ出ているのは血液ではない。なにかもっと黒くネバネバとした液体。まるで闇がそこからこぼれ落ちている様だ。
自分はいつからあの獣王に仕えて来たのだろう?気がつくと渾沌とした闇の中で、両手と両足を闇に鎖で繋がれていた。それを断ち切ったのがあの獣王だった。この方が主人なのだ、とこの時思った。それ以来何の疑問も持たずに今まで来たのだ。

獣王には何度も捨てられた。その度に自ら命を絶ち、再び蘇っては闇に繋がれ、またやって来た獣王に仕えた。だが、その繰り返しの前の前、自分は一体誰だったのだろう?

あの時から何度目かの転生である今生、素晴らしい獲物を見つけた。あれはいかがわしい露店であったか。どこから盗み出して来たものか、まだ目覚めの儀式を終えていない産まれたばかりの子供が何人か売られていた。目覚める前故、その形は人間の子供とそっくりで、小さく軽いものだ。人間の世界に紛れ込ませる時に、よくビスクドールにまぎれさせる事がある。これにエリクシールと言う泉水をかければ子供は目覚め大人と同じ形態にまで成長する。

その子供の中でひときわ目を惹くものがあった。銀色に近い煙るような髪、開いた瞳は紫に近い青い色、薔薇色の唇、長い睫毛。しかし容姿も整っているが、その身体から発散する気はただ者ではなかった。強い魔道の香り。目覚めてもいない子供から発散するには余りにも強い。
ミリエラは今でも覚えている。その子供を見つけた時、鼓動が早くなり、今すぐにでも連れて帰りたくなったのを。だが踏み止まった。連れて帰ってどうしようと言うのだ。闇にまみれさせ一生奴隷として使うのか?この力を引き出すには自分はあまりに非力だった。誰かに委ねようにも、信頼のおける仲間などいない。闇に巣食う者共は皆互いの足を引っ張りあい、足下を掬いあうのが常と言うものだ。第一、目覚めに必要な泉水エリクシールがない。

そうだ!とそのときミリエラは思った。きちんとした学びの舎で育てればよいのだ。成長するまで何喰わぬ顔でそばで見守り、連れて帰ろう。ミリエラはこっそりとこの子供に支配の魔道をかけた。

計画は順調だった。そばに通りかかった大天使の長ミカエルはこの子供を見いだし、天宮の学びの舎に預けた。自分もその中に紛れ込みそばで見守る事ができた。誰がつけたものか、いつの間にかあの子供はヴェスタルトと名のる様になっていた。

学びの舎で自分も魔道を学んだ。そして隙を見ては新たに服従の魔道をかけ、彼の溢れんばかりの力を封じていった。ただひとり主なる獣王にだけ封印が解ける様に、細工をした。喜んでもらえるかも知れない、ただそれだけを楽しみに…。獣王に呼ばれ、闇に帰る時も後ろ髪をひかれる思いだった。だがこんなに立派になって戻って来た。

「疲れた…。」
ミリエラは横たわったまま、ぼんやりと闇を見つめていた。自分はあの子供、ヴェスタルトを愛していたのだ。自分だけのもの…。仕えて虐げられるだけの日々に虐げる弱いものを見いだした。彼は自分に服従の姿勢を示したではないか。幼いあの日、彼は自分のいう事を何でも聞いた。そう、夕べあの女の心の庭を覗こうと試みるまでは。
自分はこのまま闇に埋もれるだろう。そして転生し、また同じような生を生きるのだ。彼を道連れにしよう。愛おしいヴェスタルト…。

ミリエラは小さな声で歌を歌った。それは闇を震わせるほど冷たく、地を波打たせるほどに哀しかった。


「呼んでいる…。」
ヴェスタルトは怯えた様に言った。目を閉じて聞いていたアザリアンが、ゆっくりと目を開きヴェスのすぐ脇に屈みこんだ。
「聞こえるんだね。あの歌が…。」
ヴェスは小さく頷いた。
「あの歌、聞き覚えがある。」
ミカエルも目を閉じた。哀しげでそれでいて艶かしい切れ切れの歌が地の底から微かに聞こえてくる。
「そうだ、あれは何年か前、逃げ出した火の鳥を捕らえに行った帰りの事だった。剣天使を何人か連れ、いかがわしい露店の前を通り過ぎた時、何かを導く様な微かな歌声を聞いた。それと似ている。あ…。」
ミカエルは気がついた。今怯えているこの少年があの時の…。

ぽろん…、ぽろん…。

その歌声に合わせ、アルフが竪琴をつま弾いた。その音色も哀しく途切れ途切れだった。アルフの目から一筋の涙がこぼれた。何故泣くのかわからない。だが心が張り裂けそうな気がした。この歌、この闇の中に消え入りそうなメロディ。身体の中から滲み出してくるようなこの調べ…。

「皆、どうしたんだ?」
サンディは困ったような顔で皆を見回した。
「なんでもないわ。大丈夫。」
曇りかけたサンディの瞳を覗き込む様にサミュアが言った。サミュアが微笑んだ時、サンディはその瞳の中に青白い炎が燃えるのを見た。そしてそれに呼応する様にサンディの瞳に明々と炎が燃え上がった。
そして胸元のシャツの下に隠れている石がオレンジの光を発した。

「おお、それは私の剣石!」
ミカエルが嬉しそうにそれを見つけた。そしてうっとりとサミュアを見る。剣なる神と剣なる天使。その目に見えない絆が嬉しいのだ。
『サンディ、いえ、今から貴方はサンディリエルとお名のりなさい。』
「貴女は!?い、いえ貴女様は!?」
サンディはようやくサミュアの慈しむ瞳が普通の天使ではない事に気がついた。
『今から貴方は我らの剣なる仲間。さあ、剣をお取りなさい。』
サンディは思わず跪いた。そして、何か身体に熱いものが流れ込んでくるのを感じた。
「主よ…。」
サンディの唇から声にならない声が漏れた。

「ガブリエル。」
サミュアはガブリエルの方を向いた。
「ご足労だが、調べ物をしてくれまいか。」
「貴女様の思し召す様に。」

サミュアはすっと右手を左から右に動かした。ふんわり、と銀白色の光が浮かぶと淡く光る百合の花が現れた。そしてそれを無造作にガブリエルに差し出す。ガブリエルは恭しくそれを受け取り右手に持った。
「直ちに。」
ガブリエルは左手を上にかかげると、何かを断ち切るような仕種で手を下に下ろした。そして手にした百合の花と同じ乳白色の光を放つと姿を消した。

           (続く)