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ヴェスタリアンは魔道処の奥にある水晶の館の入り口に突っ立っていた。
「いよう、新入り。」
ぽん、っと肩を叩かれ飛び上がりそうになって、ヴェスタリアンはそれがアシルである事に気がついた。
「ああ、アシル!」
多分今朝からこわばった顔をしていたヴェスタリアンにとって、これが今日初めての笑顔だっただろう。
「相変わらず自信無いんだな、お前。」
「うん…。」
ヴェスタリアンは消え入りそうな声で返事をした。
「俺さ、昨日スラ・マリサナのお使いの方から連絡があって、今日から親と一緒に仕事する事になったんだ。親に弟子入りするってなんか恥ずかしいけどさ。」
いつになく嬉しげに顔を輝かせているアシルを見て、ヴェスタリアンも嬉しくなった。
「よかったね。そんな嬉しそうなお前、初めて見た。」
多分アシルにとってどんな申し出より一番嬉しい事なのだと、ヴェスタリアンは思った。
「だからさ、お前とはしばらく会えなくなるけど、またどこかで会おうな。」
「その時にはもっと腕を磨いておく。」
「俺だって!じゃあな!」
軽やかな足取りでアシルはヴェスタリアンの前から姿を消した。ヴェスタリアンは彼にイアンの魔道士に叙せられた話は切り出せずに、それを見送った。もし、それを話していたら、彼の喜びに水をさしかねないと思ったからだ。
そしてその瞬間ずん、と気持ちが落ち込んだ。
彼にとって両親と過ごす事が長年の望みだった。それが叶って喜んでいる彼は、イアンの魔道士の称号を羨むだろうか?そして自分はそれを一瞬でも鼻に掛けていなかったか?
心の制御は難しい…。自分の心をうまくコントロールする事すら出来ない。大きな称号を持て余しそれを名乗る事を恐れる自分と、それを名乗る事を誇らしく思っている自分がいる。名乗る事によって他の人がどう思うかが誇らしく、それに伴う責任が恐ろしいのだ。
これがアザリアンのような長(スラ・マリシアン)を名乗るような人の負担はどれほどだろう?そう、あのお方、スラ・マリサナ サミュエル様もそうなんだろうか?…まさか…。
ヴェスタリアンは自分の妄想をちょっぴり笑った。そんなはずはないじゃないか。あの偉大なるスラ・マリサナが自分の大いなる力と地位を恐れているなんて…。
「こら、新入り。こんなところで何をしている?早く水晶の館に来んか。」
アザリアンは悪戯っ子の顔でそう言うと、ヴェスタルトの首根っこを捕まえた。
「は、はい!でも、どこに扉があるのか…。」
「ああ、そうか。」
アザリアンはやっと納得した顔をした。
「この前は心だけだったか。一度水晶の館で君を見かけた事があったから。てっきり入り方を知っているとばかり思っていたよ。こちらへどうぞ。」
この前…?
ヴェスタルトは怪訝な顔をした。前に来た事があるんだろうか?心だけ?
思い出そうとすると、何か固いものにかちりと突き当たる気がする。
「記憶が封じられている?」
ヴェスタルトは独り言を言うと、自分の心に入り込んでみた。
それは容易く解く事ができた。もともとさほど強固に封じられていた訳ではなさそうだった。そして、自分が癒しの魔道を行った瞬間、心が身体から離れてイアンの魔道士の集う水晶の館に来てしまった事を思い出した。
「あの時は本当にびっくりしたよ。」
アザリアンは笑った。
「ここはスラ・マリサナが認めた力の持ち主しか入る事が出来ないから。力の弱いものは扉を開ける事すら出来まい。それを魂だけでこじ開けて入ってくるやつがいるとは思っても見なかったからね。」
「す、すみません…。」
「謝る事ではないさ。ただ、本当にびっくりしたんだ。君はきっとまだまだ秘めた力を持っている。それをスラ・マリサナは高く評価されたのさ。」
「はい、がんばります。」
だが本当に自分にはそんな力などあるのだろうか?皆は自分が神の耳付きのアンスの魔道士の長だったというが、そんな証拠はどこにもない。過度な期待をされると、心が潰れそうになったりする。
ほら、また心が弱くなっている…。
ヴェスタリアンは1人で苦笑した。本当にやっていかれるのか不安で不安で仕方ないのだ。
「さ、ここを開けてはいるんだよ。」
アザリアンは水晶の館のまわりを半周も回ったところでヴェスタリアンにそう言った。
「え…?」
戸惑った顔をしたヴェスタリアンはアザリアンの顔を困った様に見つめた。
「開けるって、どうやるんです?」
「好きな様にしていいよ。念さえ強ければここは開くから。さ、やってみてごらん。」
「はい。」
ヴェスタリアンは両手を身体の前に突き出し、組み合わせた。そして手のひらを水晶に向けて、一回自分の方に引き寄せ、押し出す様に念を送る。
「ヒラケ…。」
普通のルーンではない。無意識に口をつく創世期のルーン…。まだ人の子がこの世に現れる前の神の言葉だと言う。これを操れる魔道士など滅多にいるものではない。何故かヴェスタリアンは無意識にこの言葉を紡ぐ事ができた。
かしゃん…
小さな破裂音と共に、あたりはしん、と静まり返った。しかし水晶の館の扉は開かない。
「あはははは…。」
ふいに後ろからバカにするような笑いが沸き起こった。
ヴェスタリアンは真っ赤になった。
「なあんだ、たいした事ねえのな。新入りがいきなりイアンになったって言うから見に来てみたんだけど。」
「こら、ゼルヴリアン。」
たしなめる様にアザリアンが名前を呼んだ。彼もイアンの魔道士なのだ。細く釣り上がった目、銀白色の短い髪、耳は大きく尖っていて、どこか冷たい風貌をしている。
「長、こんなやつイアンの仲間になるなんて、俺は嫌だね。1人で水晶の館にも入れないなんて、お荷物お荷…。」
ゼルヴリアンがバカにした調子で続けようとしたその時、ぴし、という音が聞こえ、ガラガラと大音響をあげて水晶の館の壁が大きく崩れた。
かなりの時間、壁の崩壊が続く。そしてややしばらくしてこれが収まった。もうもうと細かい水晶の煙りをまき散らしている残骸を見つめながら、アザリアンは呆れ果てて言った。
「こんなに徹底的に破壊したのは君が初めてだ。」
ゼルヴリアンも呆れた顔でヴェスタリアンを見た。
「お前、危ねえ野郎だな。」
「あの、すみません…。」
消え入るような声でヴェスタリアンは謝った。
「だから、謝らなくていいって。でも君に平和的な入り方を教えておかねばなるまいね。毎日これを直していたのでは身体が持たないからな。」
「まあ、そんなことがあったの。」
サミュエルはおかしそうにクスクス笑った。ヴェスタリアンは昼間のお務めの後にサミュエルのプライベートルームに来ていた。昨日来ても良いとお許しをもらったばかりの部屋だ。昨日の『黎明の間』からかなり天宮の奥に入ったところにある。
「本当にびっくりしました。」
ヴェスタリアンは部屋を見回した。およそ生活臭の感じられない風変わりな部屋。壁はあってないようなものだ。正面は海に繋がっており、横は大きな木が真中に立っている山の奥の公園のようだ。部屋の中央には大きな貝殻の形をした寝台があり、家具はこれだけだ。
サミュエルはすいっと右手を小さく横に動かした。と、そこに座り心地の良さそうなソファが現れた。
「お掛けなさいな。」
ヴェスタルトは言われるままそこに腰かけた。
「あの…、本当にここに来ても良かったのでしょうか…?」
「もちろん。」
サミュエルはヴェスタルトに優しく微笑んだ。
「お邪魔ではないですか?お忙しい方なのに…。」
ふ、っとサミュエルは笑い、ゆっくりと言い聞かせる様に口を開いた。
「私はスラ・マリサナ。自由にならぬものなど何もない。」
サミュエルの言葉は無機質で、ヴェスタリアンはどきり、とした。それは目の前の美しい人が、自分とは余りにかけ離れた雲の上の人だ、と言うのを思い出させる言葉だった。酷く遠くに行ってしまった気がして、なんとなく泣きたい気持ちになる。昨日のあの浮かれた晴れやかな気持ちが、しおしおと萎んでいく。
そのとき、ふいにサミュエルは立ち上がって、ヴェスタリアンを促した。
「さ、出かけましょう。」
「え…?ど、どこに?」
サミュエルはそれには答えずに言葉を続ける。
「私についていらっしゃい。でも、ついて来れるかしら?」
「ついていきます!」
ヴェスタリアンはすっくと立ち上がった。
サミュエルは右手を天に差し伸べると、小さくルーンを唱えた。その言葉が放たれると同時に、目の前に異空間の入り口がぱっくりと開く。そしてサミュエルはヴェスタリアンを一度も振り返る事無くその中に身を踊らせた。その後をヴェスタリアンは何の迷いもなく追い掛けて飛び込んだ。
どれほどの時間が過ぎたのかヴェスタリアンにはわからなかった。だが気がついてみると真っ暗な闇の中に生まれたての小さな星が浮かんでいる空間のようなところに来ていた。そしてぼんやり眺めた目の前には、黄金の髪をつややかに煌めかせながら、サミュエルが佇んでいる。
声をかける事も憚られるほど、サミュエルは静かにその空間を見つめていた。
ここは神のみ存在が許されている空間ではないだろうか、と思われるほど、生命に満ちあふれ、そして静寂に包まれていた。
サミュエルはヴェスタリアンの事など少しも意に介していないふうに、ただその星を見つめていた。
「ヴェス、ヴェスタリアン。」
ふいにサミュエルはヴェスの名前を呼んだ。
「はい…。おそばに…。」
ヴェスタリアンはその場に思わず跪いた。
「よく、ここまで来られましたね。」
「ここは…?」
「ここは生命の生まれるところ…。星も人も皆ここで生まれます。」
「僕なんかが来て良いのでしょうか?」
「ここは私の唯一私になれる場所…。」
遠くを見つめるような目でサミュエルはヴェスタリアンに背を向けた。
「唯一、サミュエル様になるところ…?」
ヴェスタリアンはただ、サミュエルの言葉を繰り返した。サミュエルは何も言わず黙り込んだ。
あの強いスラ・マリサナが、なんだかか弱げに見えた。ヴェスタリアンは思わず立ち上がり、そっとサミュエルの背後から近づいた。そしてそのまま後ろから抱きつきそうになった瞬間、サミュエルの悲しそうな顔を見た。ヴェスタリアンの手が止まった。
「なぜ、そんな悲しそうな顔をなさっているのです?」
ヴェスタリアンは思わず聞いた。
「悲しくはないわ。」
ぽつりとサミュエルが答えた。
ヴェスタリアンは考える。自分は何をしたら良いのだろう?何をしたらいいのか、考えてもわからない。
もしかして…。ヴェスタリアンの脳裏に言葉が浮かんだ。
〜お寂しいのだろうか?〜
孤独に震える日々をヴェスタリアンは知っている。友達はできたが今まで家族と言うものを持ったためしがない。目覚の儀式で目覚めて以来、ずっと1人で生きて来た。この方も先の闘い以来ずっと1人でたくさんの事を抱えてここまで来たのだ。
自分はまだほんの子供だけど、とヴェスタリアンは考えを巡らせた。もしかしたら、この方をわかる事ができるかも知れない。この方が本当に欲しいものが理解できるかも知れない…。
ヴェスタリアンはサミュエルの背中にそうっと額をつけた。
「ヴェス…?」
「ごめんなさい。少しこうしていたくなりました。」
サミュエルは動かなかった。
「サミュアさん…、いえ、サミュエル様…。」
「サミュアさんでいいわ。」
「いえ、それはだめです。」
「じゃあ、他の呼び方を考えてちょうだい。この空間では『様』をつけて呼ばれたくないわ。」
「う〜ん…。」
ヴェスタリアンはしばらく考えて、言った。
「サミュ、サミュというのは?」
サミュエルは、ふ、っと笑った。
「そう、それでいいわ。」
実はヴェスタリアンもサミュアさんとは呼びたくなかったのだ。恐らく神の耳がこの方を呼んでいたと思われる名前だと思ったからだ。
ヴェスタリアンはサミュエルにそっと額を寄せたまま、しばらくじっとしていた。
「サミュ…。」
しばらくして、そっとヴェスタリアンはサミュエルを新しい名前で呼んでみた。
「ヴェス…?」
「僕は貴方に伝えたい事ができました。」
ヴェスタリアンは振り向く様にして身体をよじったサミュエルを、そうっと抱える様に腕を肩に回した。そうとうにぎこちなかったけれど、体全体から温もりが伝わって来て、なんだか暖かかった。
「僕は、もうこれから貴女をひとりにはしないって事です。」
「!」
「僕は貴女の遣う一つの駒に過ぎないただの魔道士だけど、でも身体が貴女の近くにいられない時でも、心はいつも貴女ともにある。」
「ヴェス…。」
「それが僕の望みでもあります。」
ヴェスは照れくさそうに笑った。
「僕は今、ずっと欲しかったものがなんだかわかりました。僕は一緒にいる事ができる人が欲しかったのです。実際に近くにいる人ではなく、心が近くにいられる人です。貴女は僕だけの方ではないけれど、でも、近くに心を寄せていてもいいでしょう?」
サミュエルは少女のような顔でヴェスタリアンを見た。そして嬉しそうな輝いた顔でにっこりと笑った。
「あ…。」
ヴェスタリアンはちょっぴりうろたえた。サミュエルがはかない少女の顔のまま、その花のような顔をそっと胸に埋めて来たからだ。心臓の音が耳に驚くほど大きな音で届いてくる。顔も真っ赤だろう。耳までが熱い。
ヴェスタリアンは首を少しひねると、花びらのようなサミュエルの唇に自分のそれをそっと重ねた。
「さあ、天宮にもどりましょう。」
静かにサミュエルが言った。ヴェスタリアンはその瞳に今までになかった信頼の光のようなものが浮かんでいるのを見つけた。
「はい。」
なんだか少し大人になったような気持ちで、返事をする。
サミュエルがそっとヴェスタリアンに手を差し出した。それをヴェスタリアンは当たり前の様に取り、手を繋いだ。
行きとは大違いだと嬉しく思いながら、ヴェスタリアンはサミュエルをエスコートする様に異次元の空間に入っていった。
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