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【1-3】アイデンティティーの醸成

 スウェーデン時代,フィンランド人たちはことごとく欺かれてきた。大学もまた自由な考えや発言は制限され,息の詰まる時代が長く続いていた。ロシア統治になってようやく自由に発言できるようになり,ロシア皇帝の機嫌を損なわないようにしながらフィンランドの地固めが始まった。

 ロシアの新しい統治者は,新生フィンランドに完全に信頼できるものとしてその姿を現した。ロシア治下になって大学生は自由に考え自由に発言できるようになった。しかし政府はこの自由な考えが政府の転覆や外国からの扇動を引き起こすのではないかと注目していた。トゥルク・アカデミーのヘルシンキへの移転の理由の一つはトゥルクでは危険な「ウプサラの息」の影響を懸念したことにあった。このような状況であったので学生の急進論は次第に国民の共感を得られるようロマン主義的方向に転換していった。例えば全国的な作詩・作詞運動やフィンランドの昔話の収集,フィンランド語を行政用語にするフィンランド語の地位向上運動などを展開した。(出典:01)

 この運動の中心的存在は,若い大学教授,学生,僧侶,役人や市民などから成る土曜会(Lauantaiseura)であった。まず土曜会とはどんなものかを見てみよう。

 

土曜会(Lauantaiseura)

 ヘルシンキ大学(その当時は帝立アレクサンドル大学といっていた)の若い教員や学生達を中心に集まるようになった非公式の談話会のこと。
 1830年春からルーネベリ(J.L.Runeberg),A. ラウレル(A.A.Laurell),G. ラウレル(G.F.Laurell),リッレ(B.O.Lille),ネルヴァンデル(J.J.Nervander),ノルドストレム(J.J.Nordström)らが毎週土曜日毎にメンバーの家を持ち回りの会場にして文学,教育,政治,経済など新生フィンランドの多岐にわたる基本的な問題について活発な提案と実行計画を討議し,また実際に実行した。
 メンバーにはF シュグネウス(F.Cygnaeus),スネルマン(J.V.Snellman),カストレン(M.A.Castren),トペリウス(Z. Topelius)など若い教員,学生が加わり活動は活発化し,1830〜50年代ヘルシンキ・ロマン主義といわれる国民の耳目を集める中心的存在となった。カレヴァラを収集・集大成したレンロート(Elias Lönnrot)もこれに参加した。
 彼らの中から中央や地方の政治に直接関係する者が現れ,アレクサンドル2世のフィンランド政策の転換を促し,フィンランド人の地位と権利の向上に努めた。
 土曜会の大きな成果は,1831年の『フィンランド文学協会』の設立であろう。これは単に文学作品と作家の会というものではなく,フィンランド語で出版刊行されるテキストデータを収集,分類,出版する書誌センター的性格と国民の知的レベルの向上に働きかけた組織であって,現在もその精神を継承している。
 この他に国を席巻していたスウェーデン語系中等学校に対抗してフィンランド語系私立中等学校を設立し,後に国の学校教育制度を転換させ,同時にフィンランド語の地位向上に貢献した。
(出典:[14])

 1831年設立された「フィンランド文学協会」は作家や詩人のクラブばかりでなく,フィンランド語の地位向上に大きな役割を果たした。以下に見てみよう。

 

フィンランド文学協会(Suomen Kirjallisuuden Seura)

写真:jussih
フィンランド文学協会最初の
フィン語出版物となったアレ
クシス・キヴィの「7人兄弟」

 Suomen Kirjallisuuden Seura(SKS)は,1831年フィン語に多大の関心を持ち,フィン語で書き表すことが将来を切り開くと確信していたヘルシンキ大学の土曜会(Lauantaiseura)のメンバーの力で設立されたものである。土曜会メンバーは,トゥルク・アカデミー時代,H.G.ポルトハン(歴史学者)の影響を強く受けていた。
 協会の当初の規約には,”言語は国民であることの基盤である”と書かれていた。協会はただ単に学術的討論の場ではなく,国民感情を醸成する中心的機関であるべきだとされ,所属会員には,公務員,大学生,また啓発された男性市民,また1846年以降は女性市民も参加した。
 初期の長期的計画としては,国民詩の収集や出版であった。協会は,協会最初の事務長エリアス・レンロートの東フィンランド,カレリア地方への詩収集旅行や旅行後の作品「カレヴァラ」(1835年,1849年)や「カンテレタル」(1840年)の出版を支援した。
 国民詩の出版は,それまで少数だったフィン語出版物を急速に増加させ,同時にフィンランド語を国民言語に引き上げた。協会は,学術用語や小説,歴史書,文法書,辞書,自然科学,法律などの一般文書(例えば薬の用法の説明書きやスウェーデン法のフィンランド語訳や解説など),世界の古典文学の翻訳などをフィンランド語で発表した。フィクションや演劇など新人を賞でもって発掘したりもした。最初のフィンランド語小説,アレクシス・キヴィの「7人兄弟」は,1870年協会の出版物として世に出たものである。
(出典:[15])

 1809年のフィンランドのロシア帝国への併合は,フィンランドをスウェーデンから引き離すと言うロシア帝国側の計画とこの機を狙ってフィンランドを独立に向けて準備しようというフィンランド側の思惑があい絡まっていた。このような時に,国民,なかんずくフィン語使用人口の教育水準引き上げにSKSが寄与した功績は大きい。
 上記2つの組織に関係した中心的人物を以下に見てみよう。

切手のルーネベリ
ルーネベリ
(切手)
ストール旗手の物語の一場面
「ストール旗手の物語」の一場面
(切手)
写真:jussih
ルーネベリの「ストール旗手の物語」
フィン語訳1921年版

 

ルーネベリ Johan Ludvig Runeberg(1804-1877)

 貧しい船長の子として生まれ,1822年トゥルク大学に入学して西洋古典文学を学んだ。同期にレンロートやスネルマンがいて,後にこの3人はフィンランド独立の気運を高めた民族意識高揚期の中心的人物となる。
 「サーリヤルビ村のパーボ」「スキーでヘラジカを追う射手」「クリスマスの夜」「ストール旗手の物語」など,詩の代表作がある。「ストール旗手の物語」は,1808-09年のスウェーデン・ロシア戦争を扱い,国民の祖国愛を駆立てた。特にこの詩集の中の「我が祖国(スウェーデン語名:Vårt land,フィンランド語名:Maamme)」は1848年初めて歌われ,現在は国歌となっている。
(出典:[16])

 誕生日の2月5日は「ルーネベリの日」(国旗掲揚日)として今でも親しまれている。

 

レンロート Elias Lönnrot(1802-1884)

写真:jussih
切手になったレンロート
とカレヴァラの最初の一説
 フィンランドの民族詩の編者でフィンランド語学者。ヘルシンキ大学フィンランド語教授(1853-62年)。
 貧しいながら1822年トゥルク大学に進学し,フィンランド民族詩の研究を手がけた。トゥルク大学の火災後,28年ヘルシンキ大学に移り医学を修め,33年医師となってKajaaniに赴任した。医療の傍ら奥カレリア地方の伝承詩を収集し,1835−36年に「カレヴァラ」を出版した(後にこれを古カレヴァラと呼ぶ)。
 この発表はフィンランド知識人に民族の自覚と自信を与え,独立への気運を盛り上げた。さらに調査範囲を広げて新資料を加え「カレヴァラ」を1849年2月28日発表した。またフィンランド語の地位を文化的言語に高めるために貢献した。
(出典:[17])

 2月28日は「カレヴァラの日」(国旗掲揚日)として今でも親しまれている。

 

スネルマン Johan Vilhelm Snellman(1806-1881)

100マルッカ紙幣のスネルマン
 哲学者,政治家,啓蒙家,土曜会メンバー,フェンノマン党員。
 1800年代,政治的啓蒙を試みた実践的ヘーゲル哲学者である。早くから社会の動きに興味を持ち,積極的に学生自治会(Ylioppilaskunta)や土曜会(Lauantaiseura)の運営に参画した。
 1833年,ロシア皇帝でありフィンランド大公であるニコライ1世がフィンランドを訪問した折,スネルマンは学生代表として歓迎の辞を述べた。この中でスウェーデンとの結びつきがフィンランドにとって有害であること,フィンランドの治世は,ロシア帝国内の自治大公国として自立していること,そしてその自立を皇帝によって約束されていることを指摘した。加えてフィンランド語を教育用語,行政用語として採用することを請願した。

 スネルマンは,フィンランドにおいてもいつかはロシア化政策がとられる日が来るであろうことを懸念し,その前にフィンランドをフィンランド人の手でフィンランド化しなければならないと考えていた。標語「Ruotsalaisia emme ole, venäläisiksi emme voi tulla, olkamme siis suomalaisia! 我々はスウェーデン人ではない,ロシア人にもなれない,だからフィンランド人でいよう!」は,スネルマンの思想を端的に表す言葉である。

 1835-43年,ヘルシンキ大学哲学助手在任中に,フィンランドの教育ある階級はフィンランド語を話す真のフィンランド人の教育ある階級にならなければならないとしたスネルマンは,若い学生には学生自治会の組織・運営で強い影響を与えた。例えば自治会の集会案内や議事録はフィンランド語で記す,会議はフィンランド語で行う,などである。このような政治的思想が災いして長く不遇の時代を過ごすことになる。
 教授職が得られないため43-49年クオピオ(Kuopio)の中等学校長として赴任中の44年,フィンランド語の新聞「Maamiehen Ystävä 農民の友」とスウェーデン語の新聞「Saima サイマー」を発刊し,彼の考えを訴えた。発禁処分を受けたりの困難が立ちはだかったがそれはそれなりに社会に影響を与えた。
 スネルマンの影響を受けた人々は次第にフェンノマン党(Fennoman)を形成した。1840年代フィンランド各地でフィンランド語を用いる各種団体が生まれた。家庭でスウェーデン語を用いていたフィンランド人の中にフィンランド語に切り替える家庭も増えていった。 1850年代,スネルマンは社会の批判を浴びながらもフィンランドの経済政策の改善に没頭した。フェンノマン党員としては,フィンランドがロシアとロシア皇帝とともに同じ道を歩む現実路線を推奨した。スネルマンはフェンノマン党運営の外側にいるようにしていたが,経済政策に通じていたため,自治政府経済相に推された。自治政府経済相時代,スネルマンはアレクサンドル2世にフィンランド語を行政用語とすること,フィンランドマルクをルーブルの連動から切り離し銀兌換制とすることを進言した。国内的には,目先の利益を無視して自国に確固たる貨幣改革を実施してマルクの地位と独自性を高めた。
(出典:[19],[20])

 5月12日は「スネルマンの日」(国旗掲揚日)として今でも親しまれている。

 

サカリ・トペリウス Sakari Topelius(1818-1898)
写真:jussih
ヘルシンキ,Koulupuistikko にあるトペリウス像

 作家,詩人,歴史学者,童話作家
 医者で民族詩採集者の父や,国民的大詩人ルーネべリの教育を受け,15歳で大学に入り歴史学を学んだ。詩集<荒野の花>
(ママ),歴史小説<軍医物語>は,美しい自然描写と祖国愛とが溶け合っていて,ルーネべリの<ストール旗手の物語>とともに,ロシア治下のフィンランド国民の祖国愛をかきたて,彼の名を不朽にした。しかし,世界的名声を博したのは,愛と善意と勇気に満ち,幻想的な童話集<子供のための読み物>8巻である。「一度は愛の支配する神の国になるべきだ」と,高い理念を世に問いながら,一方で子供たちには,いつの日か祖国をそのような理想的国家として独立させうる人材となることを期待して童話を書いた。(出典:[18])

ザカリアス(サカリ)・トペリウス Topelius, Zacharias (Sakari)

 詩人,作家,ジャーナリスト,教授。1818年1月14日 Uusikaarlepyy郡Kuddnäs村生まれ。1898年3月12日SipooのKoivuniemiで没。両親は,詩の収集家として知られる地方医の Zacharias Topelius ,母はKatrina Sofia Calamnius,祖父は腕のいい教会絵師であった。

1829 オウル三学学校入学
1832 ルーネベリの学費・生活費全額給付生となる
1833 大学入学
1840 哲学修士取得
1842 「ヘルシンキ新聞」(スウェーデン語紙)を発行
1842-47 自然科学会事務局長
1844 哲学博士取得
1845 エミリー・リンドクヴィスと結婚
1846 ヘルシンキの高校教師となる
1847-69 芸術協会事務局長
1854 ヘルシンキ大学教授(フィンランド史)となる
1863 フィンランド史・ロシア史・北欧史の教授となる
1864-89 芸術家協会会長
1868 賛美歌出版委員会委員
1869-75 全国図書館協会執行部委員
1870-75 古代文化協会会長
1870-79 動物保護協会会長
1872 ヘルシンキ大学副学長となる
1875 ヘルシンキ大学学長となる
1876-79 フィンランド賛美歌編纂委員会会長
1878 退職 内閣府から表彰
1878-79 古代文化協会会長
1879 シポーSipooに移転
1882-83 フィンランド歴史学会会長
1885 妻エミリー死亡
1886 スウェーデンアカデミー賞受賞
1896 スウェーデン国家から褒章
1898 フィンランド国家が80歳の誕生日を祝う
同年永眠

写真:jussih
ヘルシンキ,エスプラナディ公園内のトペリウスのレリーフ
 トペリウスは,2歳年下の妹と2人兄妹で,良い家庭教育を受け,厳しくしつけられた。2人の家庭教師から教育を受けたトペリウスは,11歳でオウル三学学校
(訳者注:ラテン語文法,弁証法,修辞学の三学を中心に教育した学校)第3学年に入学した。オウルではおばの主催する1000冊もの蔵書を擁する図書館を任され,ここでほとんどの本を読破した。学校を卒業したトペリウスはヘルシンキでJ.L. Runebergの学費・生活費全額給付生となり,大学入学に専念した。1日7時間の口述と7時間のヒアリングをし,1835年15歳の6月,大学に入学した。大学では自然科学を主とする医学の道に進んだが11部門全てを修め,哲学の道に進みたいと望み,1840年大学創立200年祭の年,修士号を取った。
 学生生活ではトペリウスは活発な活動をしていたポホヤンマー県人会メンバーのJ.V.スネルマン(J.V.Snellman)の助手として生活の大半を当てた。スネルマン自身も1840年代には同県人会の助手をしていた。
 トペリウスはついに医者にはならなかった。それだけがその理由ではなかったろうが1つには手術室が怖かった。哲学の研究は歴史を主として続け,1847年に哲学博士号を取った。博士論文は,古代フィンランド人の婚約習慣について簡潔にラテン語で書かれたもので,学問的価値の高いものであった。彼のその他の学問的出版物はその後そう多くはない。
 1842〜60年の間,トペリウスは生活のために Helsingfors Tidningar(ヘルシンキ新聞)という新聞を発行した。彼の始めた頃の新聞発行は,フィンランドではたった7紙だけで全てスウェーデン語紙であった。当時の印刷能力はきわめて低く,水・土の週2回発行で発行1日前に校正するため原稿締切りは2日前というスローペースであったので新聞は全く必要とされていなかった。停滞した時代ではトペリウスもスネルマンも政治問題を取りあげる必要もなかった。

 トペリウスは,スネルマンの考えと全ての点で同じという訳ではなかったが,フィンランド精神を高揚させた。スネルマンは,編集者トペリウスを非難した。ほとんど暴力的ともいえるペン戦争を展開したが個人的友情は壊れず続いた。トペリウスは戦闘的性格の人ではなかった。

 トペリウスはフィンランドがロシア化することに反対していた。ツアーについて記事にすることはなかったが,1855年の書簡では次のように書いている。
 「フィンランドは,ロシア国内でロシア人の巨大な力が皇帝を倒し,フィンランドのその時(独立)がくるまで待たねばならない。」
 同年,トペリウスはフィンランド湾,ボスニア湾,バレンツ海,白海(フィン語名:Vienanmeri),オネガ湖(フィン語名:Äänisjärvi),ラトガ湖で囲まれた「充分に準備されたフィンランド」についての大学での講演の中で,次のように言っている。
「境界のない動物学的自然,植物学的自然が一体のものとして感じられ物理的地理学を成しているが,和平条約やその後の国境策定など国家的地理学が物理的地理学をこの何百年にも亘って分断してきた。長い間血族や民族を分けてきたカレリア人たちを我々に統合させようとする考えは重要な考えである。国家的地理学は決して良いことにならないから」と。トペリウスは,フィン族が一つの文化を築き上げ,スオマライネン Suomalainen がその中心的指導者となるという空想を現実のものとしようと呼びかけ,政治的ではない汎フィンランド主義を掲げていた。

 トペリウスは「フィンランドの旗(1863年)」という詩の中でその生い立ちを謳っているがそれ以前1854年「Urholinna」の中で「白と青はフィンランドの色である。白は冬の雪を,青は湖の青を象徴している」と言っている。トペリウスは若い時から先鋭的な思想の持ち主で1844年の宣伝文の中で「一国,一民族,一言語」と言ったり,翌年自分の発行する新聞の中でレンロート Lönrot やキャストレン Castren に対して「フィンランドからゲルマンの金クソを一掃しなければならない」と言っている。

 トペリウスの最初の詩集は1843年刊行されたがこれより早く1834年から詩を発表し,終生作り続けた。トペリウスの3大詩選集は,次のとおり。
Kanervankukkia(ヒースの花) 1845, 1850, 1854
Uusia lehtiä(新緑) 1870
Kanervia(ヒース) 1889

 このほか,ヘルシンキから故郷へ帰京する青年が中部フィンランドの農村の旅籠の娘クレータとの恋を描いた「旅する学生(1845)」,フランス二月革命を扱った「春 1848(1848)」,学生の春の祭典を描写した「フィンランドという名(1848)」,アレクサンドル2世戴冠時フィンランド政府のロシアからの分離を予言した政治的色彩の濃い詩「オウル川の融氷(1856)」,理想主義的詩「学生歌(1852)」,超現実世界のロマンスを歌った「天の川(1852)」,信仰と祖国愛を歌った「カンガスアラの夏の日(1853)」と「ヴァーサの行列(1853)」,同様の「朝の歌(1875)」,数ある詩の中で最も美しく母の死を歌った「私の母(1868)」,瀕死の兵士を歌った「30年戦争のフィンランド騎兵の行進(1872)」などの詩,賛美歌(144番,449番,475番)の作詩,オペラ「カール王の狩(1852)」や演劇「軍医物語(1854)」の台本,子供向けの祈祷書やキリスト教的理想主義の生活指導書,動植物を扱った子供向けのシリーズ本「自然の書(1856)」や「私達の国(1875)」など数多くの作品がある。(出典:[21],[22])

 これらの作品(詩や芝居台本,物語など)を通して育ったフィンランド人がやがてはロシア皇帝に立ち向かい,独立を勝ち取る,その下地をトペリウスは作った。これまで日本ではトペリウスはあまり紹介されてこなかったが,同時代の思想家,ルーネベリ,レンロート,スネルマンらに強い影響を与え,彼らに匹敵するフィンランド独立の父といっても過言ではない。

 


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