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【1-2】社会の面から

 ロシア皇帝のフィンランド宥和政策に対してフィンランド自治政府(Senaatti)は国家的規模で信任を表明した。その信任の証として今でも目に出来るものは,

(1) 首都のメインストリート(日本でいえば銀座通り)にアレクサンドル1世を称えて「アレクサンドル通り(Aleksanterinkatu)」という名を残した。
(2) 現在の大統領官邸前広場(マーケット広場)にアレクサンドラ皇后(ニコライ1世の皇后)の訪フィン(1833年5月29日〜6月10日)記念碑を建て顕彰した,
(3) アレクサンドル2世のフィンランドに対する寛容な治世の感謝のしるしとして元老院広場(Senaatintori )に銅像を建立した(1894),
などがある。
 特にアレクサンドル2世は,フィンランド人のためにいろいろと尽力した。今なおフィンランドの中心,大聖堂広場に立っている銅像はアレクサンドル2世を称えて建てられたものである。

(1) の通り名はアレクサンドル何世の名から取ったものかヘルシンキ市立博物館に尋ねたところ,館長Hilkka Vallisaariさんの答(e-メール)は次のようなものであった。

こんにちは
 ご質問いただきありがとうございます。
 1808年11月,ヘルシンキ大火がありました。その後,1812年皇命で首都となり,都市計画下に置かれ,古い通りを拡幅したり新道を作ったりしました。それまでのSuurkatu(大通り),現アレクサンドル通り(Aleksanterinkatu)には数棟の1700年代の石造建築が手つかずに残ったまま元老院広場周辺の現在の風景が生まれました。
 1819年夏,アレクサンドル1世はフィンランドへ行幸しました。市内の多くの古い通り名はこの時改名しました。皇帝はUnioninkatu(ユニオン通り)と改名したLänsikirkkokatu(西教会通り)へ到着しました。Liisankatu(エリザベス通り)はこの時代からあります。首都となる前からあったSuurkatu(大通り)別名Kuninkaankatu(王様通り)は,Rauhankatu(平和通り)となり,ついで1835年(アレクサンドル1世の名をとって)アレクサンドル通り(Aleksanterinkatu)と名づけられました。

 このメールの中では触れていないが,「ユニオン通り」はロシアとフィンランドとの「連合」を意味し,「エリザベス通り」はアレクサンドル1世の夫人の名前,エリザヴェータである。

 またアレクサンドル通りの基点にある元老院広場とその周辺の建物は,皇命によって作られたものであるが,以下にはロシア皇帝がこれらの建築にいかに深くかかわっていたかが想像できる。

−元老院広場の誕生−

 18世紀初め,元老院広場全体を建設し始めた時,計画はヨーロッパの耳目を集めた。ヘルシンキの中心街に芸術的な・調和の取れた・北欧には2つとない,全く同じ様式の建物で広場全体が出来上がった。建築といえば低層木造建築が普通であったその頃にあって石造建築を取り入れた都市作りはこの後に強い影響を与えた。円柱で飾られた記念建築物は,白い王冠のように都市の上に輝いた。

写真:jussih
EhrenströmとEngelの碑
後ろは大聖堂
 1809年,ロシアはスウェーデンからフィンランドを奪い取り,その譲渡したフィンランドを大公国とした。
 皇帝アレクサンドル1世は,思想的に自由主義者であり,フィンランド人の利益はまた自国や自国政府にも利益になると見ていた。フィンランド大公国には自治を認め,フィンランドは古い
(スウェーデン時代の)法を継承使用することを許された。セントペテルブルグに近い大公国は,最初からナポレオン戦争後,沸き立つヨーロッパの中で皇帝の静かな領地となることを期待されていた。
 1809年暫定的にトゥルクを首都としていたが地理的にも思想的にもスウェーデンに近すぎるという理由でフィンランドに新しい首都を定める必要があった。位置や強固な Viapori 要塞
(現スオメンリンナ)があることなどから寒村ヘルシンキが大公国の新首都として選ばれた。
 1812年,皇帝は首都の移転やこれと同時に新都建設委員会(議長にはエーレンストレム(Ehrenström))の設置を決定した。委員会のすべきことは,皇国の権力の表出として計画することであった。この考えのもとには住人の今の生活や将来の必要性からではなく,軍事的政治的観点から計画することであった。この委員会に課された課題は,ほかの建物が建つ前に公共の建物を建て,幅広い道や空間,都市全体としての広さや大きさを決定することであった。

 ヘルシンキの新都心は旧都(現 Kruununhaka の当り)に建てることが決定された。エーレンストレムのやり方ではシックな巨大な記念碑的建物を中心に集めることであった。その裏ではアンティックなギリシャ風な建物にするかアメリカ風の建物にするか揺れ動き,中央の空間は理性的で啓蒙的な象徴としてあるべきだと考えられた。この「皇帝のギリシャ風建築物」は,知識や科学,倫理的重要性,信仰の光や集中する権力の理性の象徴を表出するものであった。これら大学,教会,元老院の建物は,元老院広場を中心に具現化した。
 中央広場の建設が着手された時そこには全く障害がなかった。ヘルシンキは1808年,大火に遭い大部分の家屋が焼失した。当時の建築家は徹底的に片付けて古い残滓を一掃し,碁盤の目状に再開発し,新しい建築スペースを作るよう要求した。ただ,広場の南側にあった資産階級の建物のみ残された。
 エーレンストレムは,建物と広場全体の計画をベルリンの建築家, エンゲル(Carl Ludvig Engel:(1778-1840))に委託した。エンゲルは,計画前にセントペテルブルグを参考にした。皇帝一族は,元老院広場周辺をゴチック建築,ロマン主義建築,保守的な新古典主義建築など当時の新しい建築の流れを排してエムパイア建築で形作ることを好んだ。

 皇帝は準備段階から積極的に計画に加わった。図面はいつも了解を取るためセントペテルブルグの皇帝の元に送られた。ヘルシンキやその中心となる広場の建設は皇帝一族の最大の関心事であった。建設費用は湯水のごとく注入し,それに伴い建設期間は短縮された。
 計画はロシアにとっても巨大なものであった。皇帝らは,進捗状況を見るためしばしばフィンランドを訪れた。アレクサンドル1世は,1819年訪フィンし,速やかにエーレンストレムやエンゲルに謝辞を述べた。同様にニコライ1世は,1830年代初め首都を訪れ,エンゲルに感謝し,激励した。訪問は政策の重要部分を占め,フィンランド側も皇帝を国を上げて歓迎した。
 元老院広場は完成までに30年の歳月を要した。労働者は主としてロシア人を使い,細かな仕事もロシア商人に下請けさせた。建築計画はヘルシンキへ多くの高技能労働者,職人,商人,その他新しい職業人を流入させ,首都やその周辺に商業を発達させた。1700年代 Viapori 要塞建設の時と同じようにヘルシンキ最大のエムパイア様式建築の最初の建物である元老院は1822年に,2番目の大学は1832年に,続いて大学図書館が1840年に,最後のニコライ教会
(現大聖堂(Tuomiokirkko)のこと)は1852年に完成した。(出典:[10])

写真:jussih
マーケット広場のアレク
サンドラ皇后行啓記念碑
写真:jussih
碑面の文字
(2) ニコライ1世の皇后,アレクサンドラ妃の訪フィン(1833年5月29日〜6月10日)記念碑の文面は以下の通りである。

KEISARINNA
ALEKSANDRALLE
SUOMEN PÄÄ-KAUPUNGISSA
ensikerran käyneelle
XXIX.p:Touko- X.P:kesä- kuussa
MDCCCXXXIII
皇后
アレクサンドラの
フィンランド首都への
5月29日から6月10日の
初行啓に対して
1833年

(3) アレクサンドル2世のフィンランド治世を顕彰して1894年元老院広場にアレクサンドル2世銅像を建立した。その経緯は次のとおりである。

元老院広場のアレクサンドル2世像

 自治大公国時代,フィンランド人らはロシア皇帝でフィンランド大公,アレクサンドル2世を開明的な統治者となるよう仕向けた。統治者の死(1881年)後,1884年身分制議会は彼の記念碑建設のためのコンペを計画した。コンペにはフィンランドを代表する多くの芸術家が参加した。ヨハンネス・タカネン(Johannes Takanen)が優勝し,ワルター・ルーネベリ(Walter Runeberg (J.L.Runebergの息子))が2位であった。二人の考えるところは議会の意向と合致していたので両者が一緒に作ることになった。

写真:jussih
大聖堂前のアレクサンドル2世像

 J.タカネンが1885年に亡くなり,記念碑はルーネベリ一人の制作するところとなった。タカネンの感謝すべきヒントに特に統治者の姿があった。一方コンクール委員会ではルーネベリが持っていた台座付属彫刻の形について議論が沸騰していた。ルーネベリはタカネンのヒントをもとに,法,光(科学と芸術),平和,労働(Lex, Lux, Pax, Labor)を暗示した象徴を台座側面に表現したいという自分の考えで制作することとした。法を現すものとして熊の侵入を防ごうとするフィンランドの乙女像を据えた。エスプラナディ公園の国民詩人J.L.ルーネベリ J.L.Runeberg の像の台座にも同様の乙女像がW.ルーネベリの作品としてある。

 記念碑は1894年4月29日除幕された。アレクサンドル2世は,近衛将校の服を着,1863年のポルボー議会での演説姿を現している。タカネンの考えでは権力を思わせる何ものもない背広姿で,というものであったがこの将校服はルーネベリのアイディアであった。政治的状況で締め付けのきつい時代はもとより,アレクサンドル2世像は政治的特質を最初からもっていた。反ロシアのデモ隊が記念碑脇に集合した時も,アレクサンドル2世像を「フィンランドに自由を与えた開明的皇帝」の象徴だと指摘して手出しをしなかった。

 アレクサンドル2世像は,ルーネベリの冷めた理想主義的な現実主義の作品であり,またフィンランド1800年代彫像芸術の流れの中で代表的な作品である。この彫像はブロンズで台座は赤御影石である。アレクサンドルの像部分は3.23メートル,付属彫刻は2.3メートル,全体の高さは10.67メートルある。(出典:[09])

 この他にも現大聖堂(ルター派プロテスタント教会)は「ニコライ教会」として出来たものであるし,Bulevardi通り 23-27番地の「アレクサンドル劇場」は現存し,南港の朝市広場の現大統領官邸は「皇帝宮殿」と言われていた,また現ヘルシンキ大学は「帝立アレクサンドル大学」と言われていた。このようにアレクサンドル1世や歴代皇帝を過剰なぐらい持ち上げたのである。

人口

対前期比

1800年

899,000人

1850年

1,624,000人

180%増

1900年

2,656,000人

163%増

 待ち望んだ平和がやってきて生活が安定し,各種の産業が盛んになり生産が増え,そして上表のとおり人口も急激に増えた。
 スウェーデンのしがらみから解き放たれるとフィンランド人によるフィンランド国建設の力強い動きが始まる。

 19世紀初めロシア統治になったフィンランドの首都はスウェーデン時代からのトゥルク(Turku)だった。ヘルシンキは元々陶器で有名な「アラビア」や工芸大学がある旧都(Vanhakaupunki)あたりに出来た小さな寒村であったが,1640年にヘルシンキ半島にある現在のクルーヌンハカ(Kruununhaka)あたりに移転した。
 1800年代初めにはそれでもまだ3,000人ほどの小さな町で,石造建築は数棟だけだった。多くの木造家屋は1808年のヘルシンキ大火で焼けたため都市復興に中欧風の手法を取り入れ再建された。 http://www.hel.fi/hel2/kaumuseo/kavely/puutalot/puukavel.html (フィンランド語)参照。
 1827年のトゥルク大火を機にヘルシンキへ遷都し,翌28年には多くの人口移動を伴う大学の移転を決定した。都市計画と首都としての主要な建築物の建築をベルリン生まれの建築家,エンゲル(Carl Ludvig Engel:(1778-1840)) に設計させたのは前述したとおりである。

写真:jussih
フィンランド銀行発行の5ルーブル紙幣(1855年のもの)
 1811年,フィンランド銀行が創設された。この時はロシアと同じ貨幣単位ルーブルを発行したが1860年からはフィンランドマルクMarkkaの発行が承認されている。

 当時の交通の主流は船であり,大きな都市に港は不可欠のものであった。ヘルシンキもその例に漏れず港を作ったが最初は,現在北港(Pohjoissatama)といわれる場所に出来た。この絵は C.L. Engel が1816年に描いたカタヤノッカ(Katajanokka)から見た北港(Pohjoissatama)(フィンランド語)である。

写真:jussih
サイマー運河のマルキア閘門
上流がサイマー,下流がフィンランド湾
運河めぐりの詳細はこちら!

 また,内陸の1次産物(船建材,建築木材,植物性タール)の輸出やスウェーデンから輸入した鉄鉱石から銑鉄を産出してロシアに輸出するという重工業が内陸に生まれ,物資の運搬に運河を利用した。このため各地で早くから運河を作られたが,有名なのはラッペーンランタ(Lappeenranta)・ヴィープリ(Viipuri,現 Vyborg のこと)間に28の閘門を持つサイマー運河(Saimaan Kanava,1856年完成)(フィンランド語)や身近なところではヘルシンキのマーケット広場とカタヤノッカの間の運河であろう。

 1851年にロシアではサンクト・ペテルブルグ−モスクワ間の鉄道が敷設された。これに11年遅れた1862年,フィンランドでは最初の鉄道がヘルシンキ−ハメーンリンナ(Hämeenlinna)間に敷設されてその後順次西へ,北へ延長されていった (フィンランド鉄道の軌道はロシアと同じ幅であって,スウェーデン以西ヨーロッパへは直接乗り入れできない)。フィンランド西部の町々はボスニア湾を隔てたスウェーデンに,フィンランド東の町々はロシア,サンクト・ペテルブルクに目が向いていたが鉄道の開通によってフィンランドの中央集権化が進んだ。

 1868年の大飢饉では10万人以上の餓死者(当時の人口の5〜6%に当る)を出し,これを機会に産業構造を第1次産業の充実,第1次産業から第2次産業・第3次産業への変換を促進させた。農業ではバターの(英国への)輸出,造船などの沿海重工業や内陸では時代遅れとなったタール採取工業から製紙業に変換したり,刃物工業,ガラス工芸,ゴム工業,繊維工業, 木材・合板工業など,各種の産業が生まれた。
 また,急増する人口を国内産業だけでは吸収しきれず,そのはけ口としてアメリカ・カナダへの移民を促進させ,1900年ごろにはその数が最大となった。

 アレクサンドル2世は1863年,身分制議会を半世紀ぶり召集して山積した国内問題の処理を促進させた(議会法,教会法,学校教育法,地方行政法,刑法などを時代に沿うよう新しくした)。また,スネルマンのアドバイスを受け入れ,フィンランド語の地位をスウェーデン語と対等に置く命令も下した。
 1808年から1899年までの約90年間のうち,はじめの50年間はゆっくりと,アレクサンドル2世が身分制議会を召集した後は急激にフィンランド人のアイデンティティーを醸成していったのである。

 1880年代,1890年代には国内産業が目覚しく発展し,国民経済が豊かになった。経済的豊かさが手伝って教育水準が飛躍的に高くなった。ゆとりの出来た国民は趣味などを通して生活を楽しむようになり国民全体の知的レベルが飛躍的に向上した。


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