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【1-1】政治の面から

 スウェーデンがロシアへフィンランドを割譲した経緯をフィンランド戦争(1808-1809年)を中心に以下に見てみよう。

 ヨーロッパの平和がフランス革命で終わり,ナポレオン・ボナパルトが全欧に暴力によって新しい思想を拡散した争いを引き起こした。1807年ナポレオンはロシアの若い皇帝アレクサンドル1世と会い,英国に対する大陸封鎖に同調しなかった場合のスウェーデンへの対応策を結んだ。英国はスウェーデンの通商相手であり,それでなくても北海における強国であった。一方スウェーデンは大国に戦争を仕掛け,戦勝金を巻き上げることを常としていた。1808年2月,ロシアの大群がスウェーデン国フィンランド州に攻め込んできた。スウェーデン軍は準備不十分で戦いを抗し切れなかった。春にはロシア軍はフィンランド南部からヴァーサまで勿論州都トゥルクを含むすべてを占領した。3月28日アレクサンドルはフィンランド国を彼の帝国に「永遠に」併合したと宣言した。
 5月,ヘルシンキの目の前にある広大なスヴェアボリ
(訳者注:Sveaborg=スウェーデン語で「スウェーデンの城」の意,フィンランド語では,ヴィアポリ=Viapori,現スオメンリンナのこと)要塞をロシアに差し出した時,フィンランドの失ったものを(訳者注:小さかったと) 確信した。
 要塞にいた将校たちは賄賂を受け取ることを当然のごとくしてきたため裏切り者のそしりを受けた。戦後彼らの多くは高給の職を得た。スウェーデン海軍は,状況を良くしようとしたが失敗に終わった。一方陸軍はサボ地方,北フィンランド地方で1年に亘り敵(ロシア)と対戦した。晩秋から休戦し,残党は陸路トルニオを経てスウェーデンに逃げ込んだ。アハベナンマー地方,ポホヤンマー地方,サボ地方の農民らは侵入してきたロシア軍に対してゲリラ戦や後方支援部隊への攻撃などで抵抗したが無駄に終わった。1809年春,フィンランドを失ったスウェーデンに平和が訪れ,スウェーデン,ロシア,フィンランドすべてが丸く収まった。3,500人が戦死し,彼らと一緒にいた人々もほぼ同数が病死した。
(出典:[01])

 フィンランド戦争はまだ継続していたがスウェーデンの敗戦色が濃くなり,フィンランドはロシアのものと見たアレクサンドル1世は,ポルヴォーで身分制議会(スウェーデン統治時代からある貴族・僧侶・市民・農民の四身分からなる議会)を開催するよう指示した。その詳細は次のとおりである。

 1808−09年のフィンランド戦争の結果,フィンランドをスウェーデンから分離し,ロシアに併合した。戦争は続いていたがアレクサンドル1世は1809年ポルヴォーで議会を開催する旨指示した。ポルヴォーを選んだのは,大公国首都トゥルクがスウェーデンに近すぎたからである。
 1809年3月25日議員が集まった。3月28日,ポルヴォー教会で開催式典が催され,これに先立ちミサが行われた。この後皇帝が開会を宣言し,これを総督スプレンクト・ポルテンがスウェーデン語に通訳した。
 議会開会のダンスパーティで皇帝は美人でポルヴォーの貴婦人ウッラ・メッレルスヴァルド Ulla Möllersvärd を気に入り,関係が出来た。式後,皇帝はピエタリ
(訳者注:サンクトペテルブルグのこと)に帰国した。翌日総督は皇帝の署名した統治宣言書に1809年3月27日(訳者注:本当は28日)とあるのを発見した。
 皇帝はこれまで奉じてきた宗教や法をこれまで以上に強固にすることを約束した。小さくて貧弱なポルヴォーの町は,皇帝が他の国々に向けてフィンランドを国として高らかに宣言した偉大な時を経験した。  この議会では計134人の議員が集まった。貴族階級議員は77名で団長は陸軍元帥で伯爵の Robert Wilhelm De Geer,僧侶階級議員が8名で団長は司教の Jacob Tengström,市民階級議員が19名で団長は商人Kristian Trapp,農民階級議員が30名で団長は Petter Klockarsあった。議会は1809年7月に終了した。
(出典:[04])

 さて,併合したフィンランドの統治方法をアレクサンドル1世は,
(1) 国際情勢が不安定であること(そのため英国・スウェーデン連合を警戒してスウェーデンとの関係を断ち切り,フィンランドをロシアの味方につけておきたかったこと),
(2) フィンランド人の抵抗勢力(スウェーデンの息のかかった者)の力の強いこと,
(3) 立憲君主制の実験を試みたかったこと,
(4) 大国主義の国際的な批判をかわすことなどを考慮して宥和する(大目に見て仲良くすること)ことを第一義とすることにした。

 (1)と(2)の理由としては,[01]の中で次のように言っている。

 アレクサンドルと側近の将軍は,自由を前面に打ち出しフィンランド人の心をつかむことを意図した。これは程よい幸福をもたらすものであった。戦争が始まってすぐ,ロシアはフィンランドのこれまでのスウェーデン法や慣習の素晴らしさに敬意をはらい,兵器を捨てた将校たちに恩赦や特別の権益を与えることを約束した数々の宣言を発した。このため多くのものは反抗するのはムダだと感じ,武器を捨てた。その上,将校らは1788年のアンヤラ同盟の賛同者でロシアとともにフィンランドのスウェーデンからの切り離し運動を率先していた者たちであった。彼らの一人, スプレングト・ポルテン(Göran Magnus Sprengtporten)はロシア側に立ってフィンランドの教化を策定した。また同様に,自からの立場の保全のみ考えていた有産階級は,すぐロシア人とともに共同事業を開始する者も現れた。トゥルクの大司教は,真の宗教心を誓う沢山の信者が得られるよう新しい行政府に対して積極的に働きかけた。大学においてもアレクサンドルは,ロシア統治を容認する教授陣に対しては新たな利益を約束した。
 より良い未来の約束は,1808年末,ロシア陸軍がフィンランド全土を安定させ,約束どおりになった。積極的な反抗は小規模のものとなり,スウェーデンが昔のようにフィンランド人を支配する時代が再び来るとは誰も信じなくなった。
(出典:[01])

 この中に出てくる「アンヤラ同盟」とスプレングト・ポルテンについてはこちら。

(3)の理由としては,[30] の中で次のように言っている。

 ロシアによるフィンランド併合の非常に重要な点は,その実行の仕方と,その結果フィンランド社会がどういうかたちのものになったか,ということである。
 フィンランドが自前の立法権と独自の社会形態の維持を許されたのは,決して例外ではなかった。なぜなら,バルト諸国も含めて,ロシアに併合された多くの国が自らの統治形態を維持しえたからであり,1815年には,ポーランドもまたロシア帝国内の分離された王国としての地位を保持したからである。フィンランドの地位は,戦争がまだ進行中に,ポルヴォーで開かれた大公国初の(スウェーデンからの)分離議会において確認されたのであって,その際にロシア皇帝は,フィンランドを「国家の地位に引き上げる」と宣言したのであった。ロシアは統一された中央集権国家ではなかったし,民族的あるいは宗教的に統一されているわけでもなかった。従って,ロシアの観点からすれば,フィンランドがルター派の教会に属することは,何ら変わったことでも例外でもなかった。
 だが,ロシアとの関係でいえば,内政についてはフィンランドの地位は相当に独立したものであった。明らかにその理由は,フィンランドが,いくつかの点で,当時アレクサンドル1世の追及していた自由化政策の観点から一つのモデル地域として使われたことにあった。フィンランド農民の自由な地位と国会での代表権は,1812年にナポレオンの攻撃があって中断されはしたものの,帝国全領域で改革を実行しようとするアレクサンドル1世とその計画にとって,特別に重要な意味を持っていた。フィンランドは,ルター派の信仰,公用語としてのスウェーデン語,古くからあるスウェーデン民法・刑法体系を維持したばかりでなく,グスタヴ3世下の政体法の維持をも許された。この政体法をフィンランドの状況下に当てはめたことは,フィンランドがセナーッティを頂点とする自前の中央行政府と四身分からなる自前の議会の原則とを保持した事実とあいまって多国から分離したフィンランド国家の誕生したことを意味した。その昔紋章の上で大公国を名のっていたフィンランドは,今では,自前の制度を持った正真正銘の大公国となった。
 専制君主であるロシア皇帝は,実験の目的で,フィンランドおよびポーランドの立憲君主となることに同意したのであった。両国をふり出しに立憲君主制を全ロシアに広めようと企てたのである。ところが,ヨーロッパの情勢変化によってこのことは実現せず,またポーランドは,1830年および1863年に蜂起を起こした結果,議会と特別の地位を失った。19世紀を通じて君主に忠実であり,保守色の強かったフィンランド人は,列強政治の結果出現し,種族的な一体性は作りあげていないにしても,地理的には成り立っていた国家を発展させるために,全体としてはむしろ好都合な条件に恵まれていたといえる。
(出典:[30])

 宥和政策をとった(4)の理由として,百瀬 宏氏,志摩園子氏,大島美保氏著「環バルト海 地域協力のゆくえ」の中では次のように言っている。

 19世紀は,近代以前からの古い国家体制がゆらぎ,言語文化集団(エスニック・グループ)による国民国家形成をめざすかたちで民衆の自己解放運動が進んだが,民族運動同士の相剋と近代強国間の対立・抗争の影響を免れなかった。それは,バルト海沿岸地域においても同様であった。デンマークは,ドイツ国家連合によってスレースヴィ(ドイツ語名シュレスヴィッヒ)地方を奪われながらも立憲的な国民国家の形成に成功し,ノルウェーは,ナポレオン戦争の結果としてのスウェーデン支配下で独立への伏線を準備し,スウェーデンも漸新的な改革の道を辿ったが,フィンランドをロシアから奪回して北欧諸国の連合体制をつくり出そうとするスウェーデン国王主導の企ては,南のバルカン連邦運動同様,のちの帝国主義体制確立へとつながる列強の自己再編の動きの中で潰えた。  ナポレオン戦争でロシアに帰属させたれたフィンランドでは,スウェーデンによる奪回を恐れるロシア帝国の許容の下に,農民大衆の言語であるフィンランド語を柱とする国民形成が行われたが,そこには,国家再興をもくろむポーランドへの弾圧政策とは対照的に,西欧に向けてロシア皇帝の善政を示すために「ショウウィンドウ化」を図るロシア為政者の意図が,明らかに働いていた。(出典:[12])

アレクサンドル1世の宣言文
写真:jussih
アレクサンドル1世像
ポルヴォー大聖堂
 アレクサンドル1世はフィンランド議会をポルヴォー(Porvoo)で開催(開催期間は,3月25日から7月19日まで)し,1809年3月28日,フィンランド統治の基本方針を示した。この議会で皇帝が述べた宣言文は,後日フィンランド語に翻訳・印刷され,全国の教会に掲示された(左写真は掲示されたもの,右写真はポルヴォー大聖堂のアレクサンドル1世像,下は宣言文とその訳)。

ME ALEXANDER I.,
Jumalan Armosta,

Kejsari ja Itsevaldias yli koko Ryssanmaan

etc. etc. etc.

Suuri Ruhtinas Suomen maasa

etc. etc.

Teemme tiettäväxi: Että sitte kuin ME Sen Korkeim-man edeskatsomisesta olemma ottaneet Suuren Ruhtinan maan Suomen hallituxemme ala, olemma ME tämän kautta tahtoneet vahvistaa ja kiinittää Maasa olevan Christillisen Opin ja perustuslait niin myös niitä vapauxia ja oikeuxia, kuin kukin Sääty nimitetysä Suuresa Ruhtinan maasa erinomattain, ja kaikki sen Asuvaiset yhteisesti, niin ylhäiset kuin alhaiset tähän saakka Constitutionin eli säättämisen jälkeen ovat nautinneet; Lupaamme myös pitää kaikkia niitä etuja ja asetuxia vahvana ja järkähtämättämänä heidän täydellisesti voimasansa. Suuremmaxi visseydexi olemma ME tämän Vakutus-Kirjan MEIDÄN omalla kädellämme ala kirjoittaneet. Annettu Borgåsa sina 15/27* päivänä Maalis-Kuusa 1809.

Pääkirja on korkiammasti omalla kädellä allekirjoitetu

ALEXANDER

全ロシアの皇帝かつ君主,

我 アレクサンドル1世は,

神の恵みにより,

大公国フィンランド国中に知らしめる。

 我は高きより遠望し,我がフィンランド政府に対し,大公国とせり。これを通じてこの国にある既存のキリスト教の信教,既存の基本法とここから派生する自由と権利,そしてまた身分各層誰でもが大公国の中でよりよく生きられるよう,またその目的すべては公共のために,また高き者も低き者も法のもとに楽しく生活できるよう強く団結したいと思う。 これらすべての利益や立法は,皆の強固で,確固とした完璧な力の中に属すことを約す。 これまで以上に大きな関係を期待して我はこの保証書を自らの手で署名する。

於ポルヴォー,1809年3月27日

ALEXANDER

(出典:[08])

    フィンランド統治の具体策としては,
  • フィンランドは,ロシア皇帝が直接統治する。出先機関をフィンランドに置いてその補佐役としての総督を常駐させる。

  • フィンランド側出先機関としてピエタリ(サンクト・ペテルブルグのこと)にフィンランド事務委員会を設ける。

1809〜1825年

アレクサンドル一世

1825〜1855年

ニ コ ラ イ 一 世

1855〜1881年

アレクサンドル二世

1881〜1894年

アレクサンドル三世

1894〜1917年

ニ コ ラ イ 二 世

 上表のように109年に及ぶ歴代ロシア皇帝によるフィンランド統治が始まった。これに対してフィンランド議会は,ロシア皇帝への信任を表明した。信任は一度ならず,1890年代まで何度も目に見える形で表明した。


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