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「アンヤラ同盟」

 1788年ロシア戦争時代生まれたスウェーデン軍の一部の将校たちによる平和と身分制議会の召集を希求した秘密同盟。少数の将校たちの尽力でフィンランドをスウェーデンからの分離に成功した。
 8月9日付のロシア皇帝妃への手紙である条件による平和を申し出た時,アンヤラで8月12日,ロシアと一緒にすべきことを支持する宣言を成立させた。ロシアの返答は派閥主義者のグループ問題との注意をひいたが同盟のメンバーはその非難を避けるようにした。しかし彼らは要求を強く求め,議会は召集され,その結果,この同盟の指導者カールレ公爵側は成功した。  しかし徐々にグループの議論は別の方向へ歩み始め,スウェーデン王,グスタフ3世の知るところとなり計画が頓挫した。1789年になって指導者らは投獄され,それぞれの罰を受けた。ハステスコ大佐は処刑された。
(出典:[05])

スプレングトポルテン

 スプレングトポルテン(Göran Magnus Sprengtporten 1740-1819)は,フィンランド最初の国家独立に貢献した人。
 若い兵卒時代はグスタフ3世の心酔者であった。1772年参戦して手柄を立て中尉となり,翌年大佐に昇進した。1775年サボ地方の歩兵隊長を命ぜられた。歩兵の教育に専念し,命令が発せられたときには瞬時に討ち,すばやく動くべきことを第一とした。フィンランド最初の兵学校を開設した人としても知られる。
 彼の駐屯地は,クリスティーナ・カウプンキのブラーヘリンナにあった。彼は経験や貢献度に見合った地位が得られず,随分前からグスタフ3世への忠誠心が失われ,ついに除隊した。1782年ナストラに居を移し,3年住んだ。この時,フィンランドをスウェーデンから切り離すべきことを考えた。1785年からオランダに住み,そこでロシアの大使と親しくなり,フィンランドの解放について意見交換をした。しかしながら彼はフィンランドの完全な独立ではなく,ロシアの庇護の傘の中で半独立の地位が得られるようにとの提案をした。1786年秋,彼はロシアに移るとすぐ陸軍少将に登用された。
 1788年アンヤラ同盟の将校らと会談した。その冬,ロシア軍のフィンランド攻撃を翌年夏と定めた。その夏彼はPorrassalmiで負傷した。数年冷遇の時を過ごし,1808年フィンランド戦争がはじまり,ロシア人らはスプレングトポルテンの昔の戦争計画をそのまま守った。戦争初期スプレングトポルテンは,ロシア指揮官の側近として働いた。皇帝はその年の12月,スプレングトポルテンをフィンランド総督に任命した。しかし彼はフィンランド人側から信頼されることはなく,ポルヴォーにおける第1回大公国議会では隅のほうに立っていただけで1809年6月,余生を過ごすためその任を降りた。
(出典:[06])

スプレングトポルテン

 フィンランド生まれのロシア将軍でフィンランド名を Yrjö Maunus Sprengtporten といった。
 スプレングトポルテンは,時期は熟したのでフィンランドをスウェーデンから奪い取り,フィンランドをロシアとスウェーデンの間の緩衝国として創り上げるべきだと主張した。そしてこの国の統治者としてはロシア皇帝の血縁の者がなるべきだとも進言した。
(出典:[07])


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