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【1-4】国民教育の充実

 国の力は思想家や政治家など一部の人が優れていればいいというものではない。その国の全ての人の知的水準が高く,それを支える経済がしっかりしていて初めて国力が優れているといえる。進んだヨーロッパの教育をいち早く導入して,普通教育を全国民に押しなべて提供する国民教育の考え方を持ち,義務化するまでの経緯を次に見ていこう。

【1-4-1】国民教育の萌芽

 ロシア皇帝をフィンランド大公とする1809年以降のフィンランドでも始めの頃の教育制度は中世スウェーデン王国のそれとほとんど変わらない状態であった。すなわち最高学府はオーブ・アカデミー( Åbo Akatemia, 王立トゥルク・アカデミー Kuninkaallisen Turun Akatemiaで,ラテン語で教授した)が1つあり,その前段階のラテン語教育を施す中等教育機関として下級中等学校,上級中等学校,ユムナシウムがあった。これらの中等学校は,高等教育機関(即ち大学)が要求する基礎教育(そのほとんどがラテン語教育)を施すのを目的とし,現在の中学校や高等学校とは性格が大きく違っていた。
 一方多くの農民や労働者など一般大衆フィンランド人の教育は,教会学校が担っており,そこでは教理問答の丸暗記や堅信礼準備教育というもので近代学校の教育とは大きく異なってた。都市部の教会学校では数日間,地方では教会牧師が地域有力者の家庭を回って授業する巡回学校が数日開かれたが,国民教育という観点からすれば貧弱な教育体制であった。
 このため国政や地方政治,裁判,経済活動などあらゆる面でスウェーデン系フィンランド人によって握られており,その使用言語はスウェーデン語であった。スウェーデン語を話す者が社会のエリートであり,社会を担う者であり,搾取者であった。一方フィンランド語しか話せないフィンランド人は低層民であり,非搾取者であり,被抑圧民でありこのような社会で教育制度は,金持ち,その多くはスウェーデン系フィンランド人に有利に働くように出来上がっていた。
 そのような社会でウデルト・グリペンベリ(Odert Gripenberg)の活動は特筆に価する。1788年,軍人の子として生まれたグリペンベリは,職業軍人としての道を途中で捨て,教育の道に進んだ。1810年ヨーロッパの進んだ教育理論と実践を自分の目で見て,ペスタロッツィの影響を強く受け,帰国後1812年ハメーンリンナ(Hämeenlinna)に実学を中心とする教科を教える私立中等学校を設立した。学校は以後数回移転し,1822年財政難のため残念ながら閉鎖した。短い期間であり,社会への影響はあまり大きくなかったのだがその先進性は注目に値する。
 また,彼は1834年フィンランド最初の教育新聞「週間教育新聞」を発刊したことでも有名である。

 ヨーロッパ先進国からすればフィンランド人自身が保守的で自らの境遇に甘んじる国民性で,教育に関しては後進国であった。このような国の社会構造を暴力的な手段に拠らず平和裏に転換させるためにどうしたらいいかを考え,企画・立案し,実行したのがスネルマンを初めとする土曜会(Lauantaiseura)のメンバーであった。

【1-4-2】教育制度の充実

 フィンランド語が出来る知識階級を育て上げるには,フィンランド語による学校教育が不可欠であった。ことに小学校とフィンランド語中等学校が必要であった。スネルマンが「社会の指導者階級の知識・教育と一般大衆の教育との間には大きな溝がある。貧困は要するに大衆の無学と無知から来るものである」と言ったように学校のみが社会を富み,国民を一つにまとめる唯一の機関であった。
 教育制度は1860年代,小学校法が公布され,ユヴァスキュラ(Jyväskylä)に師範学校が設立されて大きく飛躍した。教員を闇を歩く人に光をともす「国民のろうそく」となるよう育成した。彼らは地域のリーダーとなり,地域に影響を与える人になるよう期待されていた。小学校教員には農家の子弟や有産階級の女子らに師範学校の就学期間や就学経費の安さなどから丁度手頃なものでった。普通の人が師範学校から新時代の快活な市民として生まれかわり始めた。
 しかし,小学校教育の考え方は一般国民にすぐには受け容れてもらた訳ではない。ほとんどどの家も時間の無駄であるとか間違ったことを教えるとかを理由に子供を就学させなかった。都市部では1870年代に就学を義務づけたが地方では義務化がゆっくり浸透した。また,地方では国庫補助があっても校舎建設や教員給与などの面で地方財政を圧迫した。

 フェンノマン党の功績は,フィンランド語による公立中等学校を作ったことである。1870年代わずか3校だけであったものが19世紀末には56校となり,全体の半数を超えた。これら中等学校を経て大学に進学し,その後公務員となる農家,有産階級,労働者の子女が急増した。このようにヨーロッパの他の国と比べフィンランドでは1900年代初め中等学校生の半数は女子が占めた。しかし,充分教育された国民はそれでもまだ少なかった。読み書きできる人は少数派で,中等学校への進学率は就学年齢の2〜3%であった。それでも学校は,社会の低層民から教育ある国民を作り上げる重要な入り口であった。(出典:[01])

 「教育制度は1860年代,小学校法が公布され,ユヴァスキュラ(Jyväskylä)に師範学校が設立されて大きく飛躍した」とあるが,このことを実際に企画・立案して実行に移したスネルマンとウノ・シュグネウス(Uno Cygnaeus で F.Cygnaeusは別人)を中心に以下に見ていこう。

【1-4-3】小学校法の成立

写真:jussih
ウノ・シュグネウス像

 1856年フィンランド大公,アレクサンドル2世は,ヘルシンキを訪れ,5項目の懸案事項の検討を命じた。その1つに「この国の市町村における初等民衆教育のための学校の組織をいかに容易に行うかについて提案を行うこと」であった。フィンランド政府・元老院(Senaatti)は(この当時教育のほとんどの部分を教会が握っていたため)大聖堂評議会に報告を求めた。評議会は報告書を元老院に提出した。元老院はこの報告書を印刷して意見を公募した。1857年各地から寄せられた意見の中でペテルブルク在住のフィンランド人牧師ウノ・シュグネウス(Uno Cygnaeus)の教育制度改革意見が 元老院の注目を集めた。

 元老院はシュグネウスの意見をいれ,1858年4月「フィンランド大公国における初等民衆教育の組織の基礎に関する告知」を行った。ここでは,
(1) 常設の小学校を国内に設けること
(2) 手工,農業・園芸など実際的な教科も教育すること
(3) 小学校は首府の中央監督官庁の下に置くこと
(4) 教員養成のための師範学校を置くこと
(5) 適当な人物を国内外の初等教育事情について通じさせること
という,国民教育をこれまでのような教会依存ではなく国家の責任で行うことを明確にするとともに,(5)の任務を即座にシュグネウスに委任した。

 シュグネウスは,1858年夏から国費でフィンランド各地の初等教育の現状とスウェーデン,デンマーク,プロイセン,ザクセン,オーストリア,スイスなどヨーロッパの進んだ教育事情を視察して59年10月帰国し,年内に報告書を元老院に提出した。
 元老院は,シュグネウスを「フィンランドにおける小学校教育制度と師範教育についての完全な提案を作成すること」を委嘱した。この委員会はシュグネウス一人だけであったので一人委員会といわれた。
 これと同時に皇帝に対して
(1) シュグネウスをフィンランド全小学校の総督学官に任命すること
(2) シュグネウスが作成する提案を検討する委員会を設置すること
(3) 師範学校の教員候補を国費で海外に派遣すること
の伺いを出した。皇帝の回答は1年近くもかかったがどれも了承された。
 一人委員会で作成した「フィンランドにおける小学校制度に関する提案」を 元老院に提出した後,1861年1月,
(1) シュグネウスを総督学官に任命すること,
(2) 検討委員会を設置すること,が実行され,これと同時に一人委員会の提案書が印刷・公刊された。
 (2)の検討委員会メンバーには,委員長が閣僚のウデルト・グリペンベリ,委員にエリアス・レンロートら大学教員3名,聖職者,農業家,中等学校教員らで,小学校法の原案作りに取り組んだ。
 検討委員会意見は,いくつかの点でシュグネウス提案を修正することを望んだが,これに対して 元老院はシュグネウスに弁護と反論の機会を与えた。シュグネウスの提案や委員会の修正案,また修正案に対するシュグネウスの反論は新聞紙上で報道され,多くの人々によって小学校制度をめぐって活発な論争を巻き起こした。
 1863年 Jyväskylä にフィンランド最初のフィンランド語による師範学校が開校され,3年後の1866年5月1日には小学校法が公布された。
(出典:[19])

 小学校法で特筆すべきことは,普通教員による「手工 käsityö」という教科が行われたことである。「手工」とは日本では大正時代からスロイド slöjd(スウェーデン語)として有名であるが,考え方の元はシュグネウスに拠るものである。
 またシュグネウスは国民皆学の考えをもっていたが,1866年の小学校法にはこれが生かされなかった。が,産業構造の変化や長い平和から蓄えられた富の増加(1800年代半ばになると産業革命の波が遅まきながらフィンランドにも押し寄せてきた。1856年にはサイマー運河完成が完成し,内陸から外海へつながった。1862年にはフィンランド最初の鉄道が Helsinki-Hämeenlinna 間を開通している)によって徐々に就学率は高まって行った。
 とはいっても当時の子供たちはどのような生活をしていたのであろう。次の一文をごらんいただきたい。

子供の労働と学校

 その頃の子供たち,特に低所得層の子供たちの生活は,悲惨なものであった。
 地方では子供が歩き始めるようになると仕事が待っていた。都市部でも同様に親は子が食い扶持を稼ぐよう期待していた。そう考えることがその当時普通のことであった。そういう時代であったので工場で使い走りの仕事にありつけた子供は幸せであった。
 タムペレ Tampere の麻工場の労働者の手記(1862年)には次のようにある。「貧乏で無防備な子供にとって工場の仕事を得ることは幸せだ。そうでない子は冬には寒さと苦しみをこらえて村から村へ物乞いに走って10〜12歳の子にしてみればわずかな金を得,その中から親に小銭をあげている。母親の目に喜びと感謝の涙が光るのを見た子がまたそうするのを誰が止められよう」と。
 1870年代になると工業が発達し,これに伴って子供に適当な雑用を工場が必要とし,就業する子供たちが増加した。工業都市タムペレ Tampere は,「1001人の子供が工場で働く悲しみの童話の都市」と呼ばれた。事実,1870年15歳以下の子供たち1001人が働いていた記録がある。その多くは都市部の低所得層の子供たちであったが10%程度は地方からの流入者で,親戚や工場宿舎に身を寄せた者であった。
 1880年代になると子供の就業が逆に少なくなった。早期の就業は不健康であると医師は指摘し,市民は若者の倫理的堕落を恐れた。ちょうどこのような時期に国民学校が充実した。それまで仕事が国民を教育すると考えられていたが,この頃になると学校が国民を育成するというように考えられるようになった。学校ではウノ シュグネウス(Uno Cygnaeus)が考えていたように「手工」の時間には技巧,勤勉,忍耐を教育した。これは子供の就労を制限する時代の要請にマッチしていた。1889年には12歳以下の子供の就労と家庭における放課後の家業の手伝いを禁止する法律が制定された。
 これは農家など家事労働をする家庭を恐怖に陥れたが,これに対抗して夜間授業や日曜授業などで抜け道を作ってしのぐところもあった。しかしながら子供の工場就労はその後急激に減っていった。それは子供の手を必要としなくなったこと,と同時に子供の就労に頼らなくても充分な程親の生活水準が上昇したことによる。
(出典:[01])

 ウノ シュグネウス Uno Cygnaeus(1810-1888)の簡単な経歴について以下にあげておこう(本ページ内に重複部分があることをお許し願いたい)。

ウノ シュグネウス Uno Cygnaeus(1810-1888)
写真:jussih
Cygnauksen Aukio 広場の
シュグナウス像(Jyväskylä)

 ハメーンリンナの県収入官の家庭に生まれる。11歳から17歳の間中等学校で学び,1827年トゥルク大学に進学するも2ヵ月後に火災にあい,28年ヘルシンキ大学に移って36年哲学と動植物学を修了した。
 続いてヘルシンキ大学で神学を学び,37年にはトゥルクで牧師になり,37-39年には牧師・教師その他刑務所の教戒師としてヴィープリに移った。39-45年にはロシア領アラスカのSitkaに牧師として赴いた。この時南アメリカ南端を経由してアラスカに船旅をしたため,寄港地で珍しい鳥や哺乳動物標本をたくさん収集し,これらをシベリア経由でフィンランドに持ち帰った
(これは今でも Jyväskylä にある)
 46-58年にはセントペテルブルグで聖マリアフィンランド人教区の教会学校の牧師兼教師兼校長の職にあり,この時中欧の進んだ新教育理論の本に親しんだ。58-59年には新教育理論と実践を視察するため,国費でスウェーデン,デンマーク,プロイセン,ザクセン,オーストリア,スイスを巡り,ルーデンシェルドやディースターヴェークの影響を強く受けた。帰国後報告書が公刊され一般に周知された。
 さらに自治政府 元老院は,60年「フィンランドにおける師範学校と小学校の組織について提案すること」をシュグネウスに委嘱し,一人で一人委員会を構成して検討に入ると同時に,シュグネウスをフィンランド全小学校の総督学官に任命すること,シュグネウスの提案を検討する委員会を設置すること,師範学校の教員候補として男子6名,女子2名の教員を国費で海外派遣させることをロシア皇帝に上申した。61年これらの提案は皇帝の同意を得て1月29日「フィンランドにおける小学校制度に関する提案」というシュグネウスの大作が印刷発行され,小学校改革の検討に入った。
 66年5月1日の小学校法の公布までの間,シュグネウスの提案に対する意見は検討委員会
(この中にはカレヴァラを刊行したレンロートもメンバーの一人であった)内部のみならず新聞を通じて多くの人々が意見を寄せ,活発な論争が起こった。元老院はシュグネウスの提案,委員会の報告,シュグネウスの反論をすべてスウェーデン語・フィンランド語で印刷し公刊した。この間に63年ユバスキュラにフィンランド最初の師範学校(フィン語系)が開校し,その後71年 Tammisaari ,73年 Uusikaarlepyy に次々と開校した。 これまでフィンランド人のための教育は,聖餐式準備教育をする教会学校だけであったものが,学校を教会から切り離して国家が管理し,これを義務教育とするという画期的な教育改革を立案し,軌道に乗せた人物,それがシュグネウスである。 (出典:[23])


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