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−21世紀に語り継ぐ建築・情景−
長岡戦災資料館に常設展示されています。是非、ご覧ください 参考HP 「被爆者の声」 忘れてはいけない被爆者の声を集めた貴重なHPを紹介します。 模型とあわせて戦争の悲惨さを改めて見つめなおし、平和の大切さを伝えていかなければと思います。 |
長 岡 の 空 襲 昭和20年8月1日の夜、長岡のまちは焼夷弾攻撃を受けました。 約1時間40分の空襲で1,460余人の市民の尊い生命が奪われ 長岡全市は火の海と化し焼け野原となりました。 |
長岡空襲後の市街地中心部模型 1/500 |
ここで紹介する模型は平成7年8月に戦災50周年事業「長岡の空襲展」のために製作依頼されたものです。 焦土のまちから56年たった現在、長岡のまちには戦争の名残りはどこにも感じられません。戦争を知らない世代が増え、長岡が空襲にあったことさえ忘れられようとしています。 そんな中、道路拡張工事に伴い、1つの土蔵が姿を現わしました。あの時の猛火を生き残り、空襲から現在までの長岡をずっと見続けた土蔵です。 これを機会に長岡の空襲を振り返り、あらためて犠牲となられた方々のご冥福をお祈りし、平和の大切さを語り継いでゆきたいものです。 |
焼け残った土蔵(本町) |
長岡空襲の開始は昭和20年8月1日22:30から8月2日0:10の約1時間40分にわたり、空襲を行ったB29は125機、投下された焼夷弾の量は924.3トンにも及びました。 | ||
焼夷弾 アメリカは日本の木と紙の建物を焼き払うため、M69集合焼夷弾と呼ばれた油脂を主成分とする爆弾を開発。油脂成分を六角形の鉄の円筒に充填したものが本体で、ナパーム焼夷弾と呼ばれました。このナパーム弾38発を一束にまとめ、1個の焼夷弾とし、B29は1機に最大40個を搭載。投下されると空中で分解し、中身は地上で四方に飛び散り、へばりつきながら燃え、強烈な火災をおこしました。 |
焼夷弾模型(実物大) |
長岡市役所(写真手前建物) |
焼け跡状況 長岡市役所 当時、大手通りにあった長岡市役所は、ドイツ様式の鉄筋コンクリート2階建てで、薄茶色の石模様のタイルで外装を整え、腰回りや入り口には花崗岩を使用するなど、風格のある市役所として市民に親しまれていました。 その市役所も外壁を残すだけで内部はすべて消失。市役所に泊まりこんでいた鶴田市長もすぐそばの炎熱地獄の防空壕の中で殉職しています。 |
焼け跡状況 長岡駅 長岡駅では最初の焼夷弾が操車場詰所に投下されましたが、駅員60余名がそれぞれの部署に就いて防火に尽くしたため、長岡駅は使用できる程度に守られました。それは屈強な若者揃いの職場の賜物で、大動脈防衛の使命を果たす事ができたのです。 |
焼け跡状況 長岡六十九銀行(現北越銀行) 英国ルネッサンス復興式建築で市民に親しまれたモダンな建物も、焼夷弾のすべてが銀行の屋根に投下されたのかと思うほどの猛烈さで、たちまち火炎に包まれ、銀行本店は周りの骨格だけを残して内部は全焼しました。 |
科学博物館戦災資料室 |
焦土となったまち(写真) |
空襲前のまちなみ(写真) |
その後、戦災1周年にあたる昭和21年8月1日に復興のための意義ある記念日として 長岡復興祭が誕生しました。 翌22年には戦争のため中止になっていた長岡名物・大花火大会が復活。 昭和26年からは発展への願いをこめて「長岡まつり」と改称され、現在に至っています。 長岡の空襲は、つらく、悲しい記録ですが 平和の尊さを改めて確認するためにも目をそむけてはいけない歴史だと思います。 なお、これらの模型、資料は長岡戦災資料館に常設展示されていますので この機会に訪れてみてはいかがでしょう。 参考文献/「長岡の空襲」「ふるさと長岡のあゆみ」 長岡市発行 |
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