芭蕉が始めて大垣を訪れました |
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明治16年に船町港へ外輪船(蒸気船)が 来たのを記念して作られた銅版画 当時の大垣水運の歴史を再現しています 大垣・桑名間の物資の運搬、交流で水門川が 賑わっている様子が描かれています |
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木因 芭蕉 路通 |
芭蕉が 大垣を初めて訪れたのは 『野ざらし紀行』の旅のときです 同門(京都の北村季吟)の相弟子 谷木因を訪れました |
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1684年(貞享元年)9月 芭蕉41歳 木因39歳 |
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水門川を臨む木因亭での再会の場面です (奥の細道むすびの地記念館) |
芭蕉は江戸深川を出発するにあたり (野ざらし紀行の)旅先で倒れ 白骨となる事を覚悟して旅立ったのですが 大垣の俳友、木因の邸にたどり着けた事を喜び 安堵の思いを俳句に託しました |
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元禄元年(1688年) 木因は 芭蕉の2度目の来垣を喜び 『俳句道標』を作りました (俳句の道しるべは珍しいとの事です) |
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南伊勢 桑名へ十里 在郷道 |
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当時の俳句道標は、戦災にあい、石が焼けています(右側) 奥の細道むすびの地記念館(福祉会館)の中に展示されています |
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芭蕉の名前 宗房(そうぼう)⇒桃青(とうせい)⇒芭蕉 『ばしょう⇒ばせう⇒はせを(者世越)…サイン?』 江戸・深川の芭蕉の庭に門人の李下が芭蕉(多年草)一株を植えたところよく茂り 『芭蕉の庵』と言われるようになりました。 これが芭蕉という名前のいわれだとか・・・ 谷木因(ぼくいん)……船町水門川に木因亭を構える船問屋で資産家 俳人として優れ、書物も著し、全国的立場の文化人でした |
芭蕉 |