芭蕉が始めて大垣を訪れました




















1 奥の細道むすびの地
2 芭蕉、木因を来訪
3 川辺の句碑 4 細道むすびの句 
5 芭蕉の大垣来遊大略図

銅版画の拡大写真です


明治16年に船町港へ外輪船(蒸気船)が
来たのを記念して作られた銅版画
当時の大垣水運の歴史を再現しています
大垣・桑名間の物資の運搬、交流で水門川が
賑わっている様子が描かれています





銅版画の全景写真です 銅版画を作られた日を記す写真です


芭蕉を木因と路通が出迎えている人形の写真です
    木因       芭蕉      路通
芭蕉が
大垣を初めて訪れたのは
『野ざらし紀行』の旅のときです
同門(京都の北村季吟)の相弟子
谷木因を訪れました
写真:芭蕉の銅像
1684年(貞享元年)9月
 芭蕉41歳 木因39歳 
死にもせぬ旅寝の果てよ秋の暮れ
水門川を臨む木因亭での再会の場面です
(奥の細道むすびの地記念館)
   芭蕉は江戸深川を出発するにあたり
(野ざらし紀行の)旅先で倒れ
白骨となる事を覚悟して旅立ったのですが

大垣の俳友、木因の邸にたどり着けた事を喜び
安堵の思いを俳句に託しました


  戦災で焼けた道標の写真
元禄元年(1688年)

木因は
芭蕉の2度目の来垣を喜び
『俳句道標』を作りました
(俳句の道しるべは珍しいとの事です)
   南いせく王へ十りさいがうみち
        南伊勢
       桑名へ十里
          在郷道
当時の俳句道標は、戦災にあい、石が焼けています(右側)
奥の細道むすびの地記念館(福祉会館)の中に展示されています
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芭蕉の名前
  宗房(そうぼう)⇒桃青(とうせい)⇒芭蕉 『ばしょう⇒ばせう⇒はせを(者世越)…サイン?』
   
   江戸・深川の芭蕉の庭に門人の李下が芭蕉(多年草)一株を植えたところよく茂り
   『芭蕉の庵』と言われるようになりました。 これが芭蕉という名前のいわれだとか・・・
   
谷木因(ぼくいん)……船町水門川に木因亭を構える船問屋で資産家
              俳人として優れ、書物も著し、全国的立場の文化人でした


『芭蕉』という草花の写真です
芭蕉

模様のライン