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2.三蔵の回想
父の名は陳光蕊<ちん・こうずい>といった。たいへん教養の高い聡明な者で、長安で行われた科挙(文官)の試験に合格し、状元(首席の者におくられる)となった。ほどなく、宰相殷開山<いんかいざん>の娘、温嬌<おんきょう>に一目惚れをし、婿となった。
太宗皇帝から江州の長官に任命され、温嬌の母、張氏を連れて海州からはるばる赴いた。途中、張氏は病にかかったので療養させ、ふたりだけで行くことになった。
洪江にさしかかり渡し船で対岸へ行くことにした。船頭の劉洪は一目で温嬌を気に入ってしまい、どうしても手に入れたくなった。話を聞くと、江州の長官に任命されたと言うではないか。欲にくらみ、劉洪は光蕊を川へ落として自分は光蕊になりすまして赴任した。
夫を殺された温嬌は自殺を考えるが、お腹には光蕊の子を宿していた。劉洪に隠れて子供を産んだ温嬌は小指を噛んで血で始終をしたためた。板に血書と子をくくり、川に流した。
読み終わった三蔵に法明和尚は「悟りの道はひとつだけではない」といって送り出した。
三蔵にはどういうことかわからなかったが、自然と足が江州へ向いている自分に気がついた。法明和尚は自分を追い出したのではない。三蔵なりの決着をつけさせるために、邪念にもなりうる血書をあえて渡したのだという、深い思いを知った。
母がどんな思いで我が子を川に流したか。
今もなお、父のふりをして長官についている劉洪を心底憎んだ。
僧侶というのは、迷いのある者、過ちを犯した者を正しい道へ教え導くものである。正直言って、三蔵は劉洪に会うのが怖かった。ところが、江州に着くと劉洪はすでに逃げており、皇帝じきじきにおふれが出ていた。
母は年老いて、目が不自由になっていた。三蔵を抱きしめ、顔を撫でると、「私を許しておくれ。このように寂しい人相にしてしまったのは私の責任だ」と、さめざめと泣いた。三蔵はハッとした。今まで自分は笑ったことがあるだろうかと。母親と再会してもなお笑みさえ浮かべない。
心苦しい再会となったが、三蔵はまたすぐ出て行かねばならなかった。托鉢僧の三蔵は各地で有名になっており、説法をするよう太宗皇帝に呼ばれていたのだ。それから天竺へ経を取りに行くことになるとは思いもしなかったが、母は身につけていた耳輪を三蔵に持たせた。
「いいかい。これを私の目だと思いなさい。すべての人の目だと思いなさい。いつでも見られていると、思うのですよ」
それは劉洪のことをいっているのだと三蔵はすぐにわかった。どんな状況であれ、殺生は許されるという戒め――。
三蔵は耳たぶにつけた金の輪に触れた。
――母がここからわたしのしていることを見ている。
三蔵は心を落ち着け、一心不乱に経を唱えた。
悟空たちが、また悪事をしでかそうとしているのも気づかずに。(*5)