天界から失墜、猪八戒と沙悟浄

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3.八戒の意地、水妖怪との戦い

 魔物がいなくなった黄風嶺<こうふうれい>は徐々にほこりっぽさが晴れてきているようだった。もともとここの山岳は乾燥しているので、風使いの魔物に占領されては付近の住民もさぞかし迷惑をしていたことだろう。
 一行は1日かかってその黄風嶺を越え、西へと向かった。平地へ出てからというのは平坦な旅で、蜃気楼を追いかけるようにひたすら道を行くと、夏が終わり、紅葉の季節となった。
 広い大地の前方に大きな川が見えてきた。水の流れがなければ川とは気づかなかっただろう。見たところ、どこにも橋が架かっておらず、迂回して西へ行くことも無理なようであった。近くへ来てみると思った以上に流れが速く、泳いで渡るというわけにもいかなかった。
「舟もないのか。弱ったな。おれなら斛斗雲でひとっ飛びなのだが」
「それが可能ならとうの昔に天竺へ着いてますぜ」
 と、八戒がもらした。
「それにしても、向こう岸が見えないほどの川幅をどうこえたらよいものか」
 三蔵は白馬に乗ったまま遥か向こうを見渡したが、海と見間違うほど大きかった。
「師匠、これはなんでしょう」
 八戒はぽつんと立っている石碑の前で三蔵を手招きした。三蔵は馬から下りて石碑を見た。
「ふむ」
「なんて書いてあるんです?」
「流砂河……この川の名前のようだな。幅は八百里。深さ三千丈。鳥の羽も、散った花びらも川底に沈む……弱水か」
 三蔵が読み上げると悟空は問い返した。
「じゃくすい? なんだそれ」
「底なし沼のような水のことだよ。舟を浮かべようとしても沈んでしまう」
「ふーん。それで渡し船もないってわけか」
 人ごとみたいに悟空はいう。
 その時、川の中から溶岩が吹き出すように水がわき上がった。
「兄貴、なんか嫌な予感が」
「お前の六感など聞いてない」
 悟空は耳から如意棒を取り出して構えた。
「忘れちまったのか。烏巣禅師<うそうぜんじ>という予言師のことを。水の怪に気をつけろっていってたじゃないか」
「ああ、そんなことか。おれさまはいつ何時だって妖怪の相手をしてやるさ。出てこい! 水の怪!」
 あらゆる物を沈めてしまうという川から妖怪が飛び出てきた。己が吹き上げた水しぶきをかぶり、その姿をあらわにした。数珠繋ぎにした九つの髑髏<しゃれこうべ>を首に下げ、手には宝杖持ち、今にも襲いかかろうという勢いだ。もう何年も伸ばしっぱなしの髪の毛が青黒い顔にへばりつき、醜い顔を一層醜悪なものにしていた。生気のない目で悟空に一瞥くべると、形相が変わった。
「おぬし、弼馬温か!」
 その名を呼ばれ、悟空は頭に血が上った。
「てめえは誰だ! その名で呼ぶからには天人のはず。こんなところでなにしていやがんだ!」
「よくもぬけぬけと。おぬしがひょうひょうと大地を歩き、みどもがこの有様とはどいうことだ」
「なんの話しをしてるんだ。さっぱりとわかんねえ」
「私は捲簾<けんれん>大将だ。霊霄殿<れいしょうでん>で玉帝に使えていた者。忘れたとはいわせぬ。蟠桃大会のとき、私の格好をして宝閣へ行き、酒や料理を飲み食いしたあげく、玻璃<はり>の器まで割ってしまったではないか。おかげで身に覚えのない罪を着せられ、私は下界に落とされたのだ。七日に一度は剣が飛んできてわたしを刺した。それが玉帝の制裁だ(*5脚色について)
「それは濡れ衣ってもんだ。玻璃の器を割ったのはおれじゃない。どさくさに紛れて誰かがあんたに罪を押しつけたんだろう」
「元はといえばおぬしが!」
 宝杖を振り上げ、悟空にかかってこようとしたが、不意に進路を変えた。
「なに!」
 その先にいたのは三蔵だった。驚き身がすくんで三蔵は一歩も動けない。
「くそったれ!」
 悟空は大地を蹴り、印を結ぶと矢のごとく空を切って水の怪を追い越し、三蔵を抱えて岸から離れた。あまりの早さに立ち止まって行く先を目視していた水の怪に、すかさず八戒がまぐわでアキレス腱を狙うが、水の怪は後方宙返りでそれをかわした。やたらとまぐわを振り回す八戒をあざ笑うかのように宝杖も使わずよける。一呼吸も置かず攻撃を繰り返す八戒の体力は瞬く間に落ち、足がよろけた。その瞬間、水の怪は飛び上がってまぐわの柄の上に乗り、思いっ切り踏みつけた。
「あっ!」
 八戒が叫んだときには手が滑り、まぐわが落ちていた。水の怪が宝杖の先を八戒に向ける。
「うまくはなさそうだが、腹の足しにはなるだろう」
「兄貴!」
 為すすべもなく八戒は叫んだ。
「そんな大声を出さなくても聞こえてるぜ」
 悟空は八戒の背後に迫り、脇の下から水の怪へ向けて如意棒を突き立てた。
「ぐふっ」
 胃をえぐられた水の怪は黄色い胃液のような物を吐き出した。
「もたもたするな! まぐわを拾え!」
 八戒は一歩後ずさった水の怪からまぐわを奪い返し、悟空と共に打ちかかった。しかし、水の怪の動きは素早い。あまり力もないし、打たれ弱いが、水のような浮力のない地上戦では身が軽くなり、術を使わなくとも機敏さでは負けていなかった。勝機がないと悟った水の怪はあっさりと川に戻った。
「待て!」
 悟空は閉水の法を使い、川に飛び込んだ。
「駄目だ! 兄貴!」
 印を結べば濁流だろうが深海だろうが悟空を守ってくれるはずだった。ところが悟空は激流に呑まれ、いくらもがいても浮上しない。
 ――術がきかねぇ!
「ゴボゴボ……」
「兄貴!」
 流される悟空を追って八戒が岸を駈けていた。悟空は八戒に向けて如意棒を差し出した。岸までの距離はかなりあって届かない。
「伸びろ! 如意棒!」
 如意棒の先端はぐんぐん伸び、八戒の手元まで届いた。
「引き上げるんだ!」
 八戒は如意棒を両手でつかんで足を踏ん張った。十メートルぐらい引きずられたがなんとか持ちこたえた。
 その間にも悟空の体はどんどん沈んでいく。八戒にとってそれは計り知れない重さだった。その時だ。また八戒の体が引きずられた。水の怪が川の中で悟空の足を引っ張ったのだ。悟空は如意棒をしっかりとつかんだまま足で水の怪を蹴った。だが、思うように体が動かない。がむしゃらに足をもがくと、ふと水の怪の首に下がった髑髏が足に引っかかった。ふわっと思いがけず体が軽くなる。
 ――なんだ、これは。
 水の怪は悟空を離し、慌ててそれを奪い返した。
「今だ、縮め! 如意棒!」
 悟空が唱えると如意棒は縮み、悟空は如意棒に引っ張られるようにして川の外へ出てきた。岸では八戒が悟空を引き上げている。みるみるうちに短くなり、八戒と悟空は勢い余って頭突きをしてしまった。
「いてっ!」
 ふたりはひっくり返って河原にのびた。悟空はクラクラする頭を振って身を起こした。水の怪が襲ってくる様子はなかった。
 八戒は大の字になったままいった。
「まったく、兄貴は無茶をしやがる。弱水だっていってるじゃないか」
「術がきかないとは思ってなかった」
 八戒はまぐわを杖にして「よっこらせ」と立ち上がった。
「ここはわしにまかせるんだ。さっきは油断したが、水の中じゃ、こっちだってそれなりの経験がある」
「どういうことだ」
「わしが天蓬水神だってことを忘れたわけじゃあるまい? わしは天にある川という川、すべてを統治し、八万もの水軍を率いていた将軍だ。弱水にも心得がある」
「なんだよ。それなら飛び込んで助けてくれればよかったものを」
「心得のない者は弱水の中では重りも同然。わしが溺れることはないが、引き上げることはさすがにできない。兄貴が重りとなって川底に沈んでいくだけだ。地上から引き上げるしかなかったんだ。どっちにしても……師匠を向こう岸まで連れて行くことはできないわけだが」
「いや……とにかく、あの水の怪をとっつかまえるんだ」

 八戒は意気揚々と川に飛び込んだ。兄貴は術を得意としているが、空を自由に飛ぶ鳥が水の中ではその翼も役に立たぬように、兄貴にだって不得手なことはあるのだと、ほくそ笑んだ。
 大口叩くだけあって、八戒は水の怪を瞬く間に追いつめ、まぐわで渡り合った。驚いたのは水の怪だ。弱水の中で魚よりも機敏に動く豚を恐れおののいた。
「おぬし、何奴?」
「わしは元は天蓬水神。貴様も天人なら知っているだろう」
「天蓬水神がどうしてそのような姿であのサルと共にしているのだ」
「色々あってな。今ではあの弼馬温がわしの兄貴分だ。さすが天界を騒がせた妖獣。頭も切れるし、腕っ節もいい。仲間になれば頼もしいものだ」
「ほざけ! 私がどのようなめにあったかも知らぬくせに!」
 水の怪は宝杖を振り回し、やり合うが、水神の力には及ばなかった。水の中でも逃げ場を失い岸へと飛び出した。そこでは悟空が待ちかまえていて如意棒を振り回す。そしてまた川に逃げるを繰り返した。
 再び水の怪が水面から顔を出したとき、逃げることに必至になっている水の怪の隙をついて、伸ばした如意棒の先で髑髏を引っかけて首から外した。ハッとなった水の怪は手を伸ばして髑髏をつかんだ。悟空が如意棒を引き上げると髑髏と水の怪は弧を描いて空を切る。髑髏は如意棒を伝ってするすると滑り落ち、悟空の手に渡った。しがみついている水の怪に蹴りを入れてはたき落とす。
 八戒も川からあがってきて、水の怪の背中にまぐわを振り落として動きを押さえつけた。
「観念しろ、元捲簾大将」八戒は上からこき下ろした。「どうやって弱水を泳ぐ術を身につけたか知らぬが、貴様なら師匠を向こう岸へ渡すことも可能なんじゃないか。協力するなら命だけは助けてやってもいいぞ」
「八戒、その必要はない」
 悟空は手にした髑髏の首輪を身につけた。
「どうやらこの頭蓋骨が弱水に浮く秘密らしい。これがなければただの妖怪。そうだろう?」
 水の怪はうなだれるだけだった。
「川に放り込め」
 悟空がいうと、後ろから「お待ちなさい」と三蔵が声をかけた。
「お師匠さん、甘過ぎますよ。こいつは妖怪ですぜ」
「得物を失って、心を入れ替えることでしょう。これで顔をお拭きなさい。身を清めればそなたにも新しい道が開けるはずです」
 三蔵は八戒を後ろに下がらせ、木綿の手ぬぐいを渡した。水の怪は「かたじけない」と声を震わせた。顔についたヘドロや苔を落とすと、想像もつかぬほど凛々しい素顔が現れた。捲簾大将は非凡な人間となって下界に落とされたのかもしれなかった。
「私がここへ来てからというもの、何人の人間を食い殺したかしれません」
 水の怪は自分の身の上について静かに語り始めた。
「ひもじくて仕方なかったのです。でも、人肉をむさぼったあと、どうしても良心が痛みました。いたたまれず、二度と浮かぶことのない弱水に遺体を沈めていたのですが、浮かび上がってくる骸骨があることに気づいたのです。初めは死者の亡霊だと思いました。でもそれは経を取りに行く僧侶の骨で、死してもなおその強い思いが宿っているようでした」
 三蔵は表情を変えることなくそれに聞き入っている。
「ある時、観音菩薩がこの地を訪れたのです。殺生はおやめなさい。今までの悪事を悔い改め、天竺へ経典を取りに行く僧侶をお助けするよう教え導かれました」
「なに、おまえもか」
 悟空は呆れたようにいった。
「と、いうと?」
 水の怪が問うと八戒がいった。
「わしも、兄貴も、あそこで草を食ってる馬だって、観音菩薩のお慈悲で救われたんだ。そして、お師匠さまのお供をするようにおっしゃられた」
「そなたも法名を受けているだろう」
 三蔵が聞く。
「沙悟浄と申します」
「帰依しながらなんたることを……。悟空、荷から剃刀を出しなさい」
「お師匠さんもようやくその気になりましたか」
 悟空は荷物から剃刀を出すと三蔵の前に出した。ところが三蔵は頭を横に振る。
「悟空がおやりなさい」
「おれはこんなものなくたって」
「髪を剃って仏の道に帰順するのです」
 沙悟浄は姿勢を正し、和尚のように手を合わせて拝んだ。
「ナニ? 髪だって?」
 悟空は小さくぼやきながらも弟分の頭を丸めた。悟浄は律儀にも悟空と八戒に頭を下げてその関係を明確にした。

 師弟たちは三蔵のために筏<いかだ>を作り、沈まぬよう周りに髑髏をつけた。水の中では八戒が筏を支え、岸辺では悟空と沙悟浄が支えているが、この急な流れに耐えられるか不安だった。(*6脚色について)
 しかし、三蔵は躊躇することなく筏に乗った。すると、三蔵と髑髏が共鳴するように金色に光ったかと思うと、ごうごうと唸りをあげる川の流れがぴたりと鎮まり、まるで森の中の湖のように静まりかえった。
「これは!」
 何年もこの川を見てきた悟浄は驚いて声を上げた。
「もしかすると……」三蔵はいった。「この者たちはわたしの前世かもしれぬ」
「なんですって!」
「わたしは経を取りに行く運命にあるのでしょう。何度命を落としても、魂がわたしをそうさせるのです。この旅も幾多の多難がありましょう。けれども、わたしは命など惜しくないのです」
「なにをおっしゃる、お師匠さん。おれさまがついているからには、もう、しくじりはありませんよ」
 悟空はそういうと、筏に飛び乗り、弟分たちにも乗るよう命じた。八百里ある川を穏やかに渡っていく。
「それにしても悟浄、なんだってこんなに汚い川の中に棲んでいたんだ」
 悟空が聞くと悟浄はうつむき加減に答えた。
「観音菩薩に帰依した以上、人を殺<あや>めることはできません。でも、私はその衝動に勝てそうにありませんでした。だから弱水に浮かぶ髑髏を集めて数珠繋ぎにし、首に付けて川の中に潜んでいたんです。しかし、菩薩のおっしゃる僧侶がなかなか現れず、とうとうひもじくなってまた襲おうとしてしまいました」
「これも仏の導きです」
 と、三蔵はいう。
「もう少し我慢できねば他の人間をあやめていたでしょうし、もう少し我慢していたのなら、わたしたちは待ちぼうけすることになったでしょうから」
 誰にでも過去はある。過<あやま>ちは過ぎ去りしもの。悔い改める心もまた誰にでもあると三蔵は思っていた。
 しかし、三蔵の心にも癒えないわだかまりがあった。それは三蔵の出生に関わることで、一家に不幸をもたらした男は追っ手から逃れて今もどこかで生きながらえているという。
 その男に直面したとき、三蔵は感情的にならずに諭すことができるのか、自信がなかった。

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