天界から失墜、猪八戒と沙悟浄

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2.三蔵、黄風大王に捕らわれる

 西へと進み、ひと月かかって烏斯蔵国<うしぞうこく>の国境を越えた。またひとつの山に対面して一行はその気高き山頂を見上げた。八戒が一歩進み出て三蔵を振り返った。
「難所ではありませんよ。この山は浮屠山<ふとさん>といって、烏巣禅師<うそうぜんじ>が修行しておられるところでございます。わたくしもお会いしたことがあって、修行を勧められたのですが、なにぶん……妻を持つ身でして、修行よりは妻を食わせるだけの仕事をしないことには――」
 悟空は八戒を遮っていった。
「なにいってやがる。女にうつつを抜かしていたくせに」
「なんだと!」
「およしなさい」
 三蔵の一言でふたりは口を閉ざし、山を登った。辺りは青々と草木が生い茂っていたが、トンネルのように一筋の細い道が開かれていた。
 道なりに沿って行くと、際立って大きな檜<ひのき>の木が見えた。近づけば大きく広げた枝には、まるでそこから生えたような瑞々しい草花が巨大な巣となっていた。ひなをかえしている鳥もあれば、木の実をとっているサルもいる。と、そこへ森の中から花をくわえた鹿が現れ、檜へ登っていった。巣に花を挿すとまた森へと消えていく。
「これは……」
 三蔵が呆気にとられていると、その巣から雲に乗った烏巣禅師が降りてきていった。
「これはこれは。気づきませんで」
 三蔵は馬から下りて頓首した。禅師はその後方にいる八戒に目を留め、
「おや、そなたは福陵山の猪剛鬣ではないか。妻の身の上になにかあったのか」
「いえいえ、そうではございません。この方の弟子になり、旅をお助けて善い行いをするよう、観音菩薩が教えを説いてくださいましたので」
「ほう、それは感心。で、そちらは」
 悟空のほうを見やるが、なにもいわないので三蔵が「一番弟子の孫悟空です」といった。
「ふむふむ。なかなか腕っ節の良さそうな者だ」
「ときに禅師さま、西天の大雷音寺はこの道でよろしいのでしょうか?」
「西へ行きなされ。それは遠く難儀なことであるが行けぬ道はない。山に川に谷に、岩に林に洞窟。一国には魔王が君臨し、虎が民を監視する。その下には狼や豹、数知れず。それでも行けぬ道はない。野豚が荷を担ぎ、石ザルが馬をひく。やがては水の妖魔に会うだろう。そなたの旅はまだまだ始まったばかりですぞ」
「それほどに遠いのですか」
「さよう。いつか辿り着く日が来るであろうが、まだそれは考えぬことだ。ひとつ経を教えよう。魔物に出会ったらこれを唱えなさい」
 それを聞くと三蔵はひれ伏して手を合わせた。その頭上で禅師が『般若心経』を唱えた。

  観自在菩薩 行深般若波羅密多時 照見五蘊皆空
  度一切苦厄 舎利子 色不異空 空不異色 色即是空
  受想行識 亦復如是 舎利子 是諸法空相・・・・

 というふうに、五十四句、二百七十字の経を読み上げた。三蔵は一回聞いただけで覚えてしまった。
「さあ、もうお行きなさい」
 禅師は金色の光となって巣に戻っていった。
「なんであのひとはおれのことを石ザルってわかったんだ?」
 悟空が不思議に思っていると、八戒はいった。
「あのお方は過去も未来もみんなお見通しなんだ。水の妖怪ってのに注意しなきゃなんないだろうな」
「ふん。未来ねぇ」
 悟空は半信半疑で檜を見上げた。雲のように草花で出来た巣が浮かんでいる。それはこの世のどこにでもない場所のようにも見えた。
「行きましょう」
 三蔵は馬にまたがった。一行は西へ西へと歩いていった。

 黄風嶺<こうふうれい>という高い山にさしかかった。ここではいつも黄色みを帯びた風が吹き、黄色い霞がかかったようで、遠目から見ても魔物が巣くっているような怪しげな山であった。
「お師匠さん、これはなんだか、妖魔臭い風ですぜ」
 フゴフゴと八戒は鼻を鳴らした。三蔵にはわからなかったが、目には見えない、嫌な気配は感じ取っていた。
「よし。おれが風をつかんでやろう」
「またまた、兄貴。そんなホラを。いくらわしが田舎もんだからって、風をつかめるわけないでしょう」
「見てろって」
 悟空は風の流れに合わせて右から左へと真一文字に空を切って風をつかんだ。すると、三蔵の目の前を黄色い粒子の風が吹き抜け、黒い複数の筋が見えたかと思うと、一匹の猛虎が姿を現した。悟空は妖怪虎の尻尾をつかんでいたのだ。
「ヒヒヒーン」
 白馬が前足を振り上げて驚き、三蔵は振り落とされてしまった。
「うああ」
 三蔵が馬に踏まれそうになっているので、悟空は慌てて助け出した。
「お師匠さんは隅で見ていてください。おれさまが始末してきましょう」
「わしひとりでも充分だ」
 悟空と八戒はこぞって武器を振り上げた。
「まてまてまてまて」
 妖怪虎は尻餅をつきながら両手で待ったをかけた。
「おれは黄風大王の先鋒だ。酒の肴になるような獲物を捕らえに来ただけだ」
「お師匠さんを食べようたってそうはいかないぞ」
 悟空が如意棒を突き出すと、妖怪虎はそれをよけて坂を転がり落ちていった。
「口ほどにもないヤツめ」
 悟空が油断していると、妖怪虎は坂の下の草むらに隠してあった赤銅の刀を手にし、両刀遣いでかかってきた。八戒のまぐわが刀を払い、悟空の如意棒が妖怪の腰を薙ぎ倒した。
「ぐふっ!」
 さすがにふたり相手に戦えないと思った妖怪虎は自分の胸を爪で引き裂き、“こんぜん”(*3漢字表記)脱殻の計をつかい、皮を剥いで手頃な岩にかぶせた。見立てた虎に飛びかかる悟空と八戒。妖怪虎は抜け出して立ち去ろうとした。ところが、うまそうな男がひとりでぶつぶつとなにやら唱えている。妖怪虎は構わずに三蔵をさらい、一陣の風となって大王のところへ逃げ戻った。
 一部始終を見ていた白馬は「ヒヒーン」と声を上げて悟空を呼んだがいっこうに気づかない。白馬はもぬけの殻となっている虎に近づいて後ろ足で蹴り上げた。虎の皮が舞い上がり、その下からただの岩が現れた。悟空は目の前に落ちてきた虎の皮を空中で払って、
「くそっ。謀られた」
「あれ。お師匠さんは?」
 八戒が言い出し、ことの次第を知った悟空はキョロキョロと辺りを見渡した。足跡さえ残っていない。 「どこにいったんだ」
「ヒヒヒーン」
 白馬は三蔵が連れ去られた方へと走り出した。
「おい、行くぞ、八戒」
「あいよ!」
 こうして弟子たちは、連れ去られた三蔵を捜しに山の奥へと入っていった。

 一方、逃げ戻った虎先鋒は三蔵を献上した。
「ふぅん。これが三蔵とな?」
 黄風大王は三蔵の顎をしゃくった。三蔵はこの居心地の悪さに鳥肌を立てた。
「なかなかいい男じゃないか」
 そうはいっても、この黄風大王も鼻筋の通った色男である。着ているものも妖魔らしからぬお洒落な格好だ。
「行く先々でさぞかし豪勢な持てなしをされたであろう? ひっそりと、おなごも抱いたのではないか?」
 三蔵は目をつむってなにも答えなかった。
「たまたま出くわすとは運がいい。なにしろ大唐から経典を取りに行くってんだから、ここはただの通り道に過ぎない。こんなところで骨を埋めることになろうとはな。ところで、この者の弟子には神通広大なサルがいるときいているが。まさか、ひとりで歩いていたわけではあるまい?」
 跪いて聞いていた虎先鋒は答えた。
「その僧にはふたりも弟子がおりました。ひとりは口のとがった黒い男で、もうひとりがそのサルめでございます。鉄の棒とまぐわというちゃちな武器でしたが、腕は確かです。ふたりで飛びかかってくるので脱殻の計でまやかしをかけ、この僧を連れ去ったのです」
「すると、この弟子どもは躍起になって師匠を捜しているだろうな。やっかいだぞ。まもなく攻めてくるだろう。宴はそれからだ」
「しかし、先に食べてしまわれた方がよろしいのでは?」
「馬鹿が。おまえが始末しておかなかったからこういうことになるんだ。やつらがここへ来ることは絶対だ。師匠が死んだと分かれば身をなげうって暴れるだろう。人質がいれば隙が出きるというもんだ」
「さすが大王さま」
「それまでこの男に傷を付けるな。一滴も血を流させてはいけない。もったいないからな。それまで縛っておけ」
「御意」

 さてさて、青ざめた三蔵の弟子たちは師匠の安否を気遣いながら必死に走っていた。白馬はもとは龍であるから、身は軽やかで、天馬が駆け抜けているような美しさで疾走する。悟空も果花山で育っただけあって木々の間を抜けるのはお手の物。八戒は疲れて少し怠け心をおこしながらもついていった。
 やがて洞窟が見えた。門の前まで行ってみると「黄風嶺黄風洞」と書いてある。白馬は入り口の前をうろうろとし、八戒は遅れてやってきて膝から崩れてへたりこんだ。
 悟空は如意棒を自分よりも太い鉄の棒に変えて門番に向かって振り回した。
「やいコラ! さっさとどきやがれ! 師匠はどこだ!」
「だ、だ、大王さま!」
 数人いた門番は恐れをなして皆洞窟に逃げていった。
「よし。おまえたちはここで待っていろ。おれが行って様子を見てこよう。ここから出てくる者があったら打ちのめすんだ」
 悟空は後を追っていった。
 騒ぎを聞きつけた虎先鋒は「大王、わたくしにお任せくださいませ。ここへ進入されるまでに始末しましょう」と、奥の大王の間から飛び出して門へとかけていった。
 かくして因縁の対決と相成った。悟空は振り回しやすい大きさに如意棒を変え、虎先鋒の二本の刀に対抗した。大勢でかかったらどうにかなると思った虎先鋒だったが、手下どもが次々と叩きのめされるのを見て、勝ち目がないと思った。しかし、大王に虚勢を張った手前、今度こそ逃げ戻るわけにもいかず、洞の外へと逃げた。
 門の外では八戒が待っていた。座ってゆっくりとしていたので、待ち伏せとは到底言い難かったが、虎先鋒も逃げるのに気を取られていた。八戒がひょいと出したまぐわで足払いをされると、無様に倒れた。しめたもんだと、八戒はまぐわで後頭部を叩き割ってしまった。
 そこへ悟空がやってきた。
「兄貴。どうだい。わしの腕は」
「死んだのか」
「兄貴が殺せといったんじゃないか」
「まぁいい。こいつを連れてお師匠さんを返してもらう」
 悟空は虎先鋒の死体を引きずって再び洞の中へ入っていこうとした。すると中から黄風大王が飛び出してきた。金ずくめの兜と鎧をまとい、手には三つ又のさすまたを持って凛々しく立ちはだかった。
「よくも私の手下をやってくれたな」
 というが、怒りさえ感じられなかった。
「おまえたちは交渉というのが分かってない。こちらはおまえたちの師匠を殺さずに預かっているというのに、なんということだ。おまえの命をもってその代償を払わせよう」
「よくいうぜ。お師匠さんをくっちまうつもりでいるくせに!」
「弱い犬ほどよく吠えるという。な、小僧よ?」
「馬鹿言え。おまえなんかおれの孫にも及ばぬ」
 悟空はゴリラのように前屈みになると足を六尺伸ばし、身の丈一丈ほどになった。
「ふ〜ん。お手並み拝見といこうか」
 黄風大王はさすまたを握り直して悟空に打ちかかった。「黒龍地を掠めるの法」を使って如意棒でそれを払いのけ、頭上から殴りにかかった。両者は引けを取らず、相手の攻撃を交わしては反撃にでるが勝負がつかない。油断した隙に悟空は鋭いさすまたが頬をかすめ、一筋の血が流れてヒヤリとした。
 悟空は毛を一掴み抜き取り、ふぅと吹いて身外身の術で百十の小猿に変えた。
「かかれ!」
 一度にかかってこられてはたまらないと思った黄風大王もまた狂風の術を使い、巽<たつみ>の方角(東南)を向いて大きく息を吸い、悟空に向かって一気に吐き出した。すると、吹き出た息に誘われるようにどこからともなく風が集まり、砂嵐のような黄色い風が悟空を襲った。
「うわああ。目が!」
 百十の小猿はたちまち悟空の毛に戻り、風の強さに悟空の体は吹き飛ばされてしまった。そばにいた八戒も白馬も同じように転がっていく。一息にどこかの集落へと飛ばされてしまったのだった。

「目が見えねえぞ」
 悟空は赤い目をしばしばとさせた。
「あの砂のせいだな。わしは目をつぶって身をかがめていたからいいようなものを」
 八戒は目をつむって砂をはたいた。そこへひとりの老人が現れた。
「旅の者、どうされた?」
「黄風洞の妖怪にやられたんだ。目の玉をちくちく針で刺されたように痛くてたまらない」
「なんと。あの三昧神風にやられたと? 普通なら生きてはおられぬところだ。わたしのところに『三花九子膏』という薬があるから試してみるといいだろう」
 悟空は八戒の襟足につかまって老人の家にやってきた。玻璃の壺にはいった三花九子膏を、小さなひしゃくですくって目にかけてやるとたちまちにしてよくなった。
「こりゃすごい。日の落ちたあとでもよく見えそうだ」
 しかし、八卦炉で燻された赤い目までは治らなかった。
「よし。今度こそ決着をつけよう」
「兄貴。師匠は生きてるかな。死んでるなら早いところ自分の生活に戻ってしまった方がいいんじゃないのか」
「ふざけたことをいうな。おれが偵察に行って来るから八戒はここで待っていろ」
 悟空は蚊に化けて黄風洞の門をひっそりとくぐっていった。
 奥に行くと地面に突き刺さった風鎮鉄に三蔵がしばられていた。近くでは黄風大王がひとり、三蔵に話しかけている。
「おぬし。本当にいい男だな。弟子たちを破門にさせて、ここで一生を過ごすというのはどうかね」
「わたしの弟子は助けに来てくれたのか?」
「ああ来たとも。死の風で吹き飛ばしてやったがまだしぶとく生きてるだろう。またここにやってくるにちがいない。弟子たちがかわいかったらいうことを聞き入れたらどうだ。命は助けてやってもいいぞ。あのものたちはあまりうまくなさそうだからな」
 三蔵は悩んでいた。でも、自分はお経を取りに行かねばならぬ。
「わたしの弟子は必ずやわたしを救い出してくれるでしょう」
「無駄だ。このわたしの術を封じられるのは霊吉菩薩<れいきつぼさつ>だけだ。あのサルが百匹かかってこようが同じこと。でもまぁ、それを繰り返す間、おぬしはここにいるしかないのだから――フフ、いいとしようか」
 それを聞いた悟空は洞から出ていった。
「霊吉菩薩といったら小須弥山の禅院にいるはず」
 悟空は斛斗雲に乗り、そこから真南に三千里飛んでいった。弟子に事情を話して取り次いでもらった。
「あなたさまが黄風洞の妖怪を捕らえることが出来るときいてきました。どうか師匠を助けてください」
 いきなりそんなことをいわれて面食らった霊吉菩薩だが、思い当たることがあったのですぐに取り直した。
「そうか。私は如来さまから定風丹と飛龍宝杖を賜り、一度はそのものを捕らえたのだが命乞いをするので、もう二度と人を殺めるなといって解放してやったはずだったのだが」
「もう、菩薩と名の付く方は甘すぎますよ」
「そういうおまえも観音菩薩の慈悲で身が自由になったと聞いているが?」
「あの妖怪にも金のわっかをはめりゃあいいんだ」
 と、悟空はひとりごとをいった。
「まぁ、そういう事情であるのなら見過ごすわけにもいきませんね。よろしい。参りましょう」
 悟空は黄風洞に舞い戻り、門番に大王を呼んでこいと言いつけた。黄風大王はすぐさまやってきて悟空と一戦交えた。やはり、勝負はつかない。黄風大王はまた巽の方角を向いて口を大きく開けた。悟空はとっさに目を閉じ、身をかがめた。
 霊吉菩薩はそれを見て飛龍宝杖を握りしめ、呪文を唱えた。すると八つの爪を持つ金の龍と化し、その鋭い爪で妖怪の顔面をつかんだ。黄風大王は口をふさがれ、息も絶え絶えになってもとの貂<てん>の姿へと戻った。
「ああ、もしや、霊吉菩薩さまでは!」
 黄風大王はぶるぶると震えて跪いた。悟空はひょいと立ち上がり、
「おい、色男が台無しだな」
 と、如意棒で突っついて転がした。
「如来さまにご報告せねばならない。そなた、覚悟は出来ているであろうな」
 霊吉菩薩は腰を抜かした貂を連れて如来のもとへと飛び立った。
「やれやれだな」
 悟空は手下どもを薙ぎ倒し、三蔵を助け出した。(*4)

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