天界から失墜、猪八戒と沙悟浄

(*)をクリックすると、小窓で解説を表示します。
上手く表示できないときはここをクリックして別ウィンドウを開いて参照してください。

−1−

 幾日か過ぎ、一行は烏斯蔵国<うしぞうこく>(チベット)の国境まで来ていた。ぽつりぽつりと人家が現れ、村の中心部まで来たときだった。中でも大きな屋敷からひとりの若者が飛び出してきた。包みを背負い、裾をまくり上げ、脚絆をつけて、ひどく慌てた様子で悟空にぶつかった。よろめいた悟空は白馬の足を踏み、白馬は痛さにヒヒーンとのけぞり、上に乗った三蔵は振り落とされそうになった。
 若者は一瞬たじろいだが、何事もなかったように立ち去ろうとするので、悟空は背負った風呂敷をグイッと引っ張った。
「おいこら。挨拶なしかい」
「悟空、やめなさい。いざこざを自ら持ちかけるとは何事です」
「おれからじゃない。こいつからぶつかってきたんだ」
 悟空は若者に詰め寄った。若者の額や頬には新しい傷がついていた。
「何をそんなに慌てている。盗みでもはたらいたか?」
「まさか! おいらはこの高太公の家にお仕えしている高才という者だ。旦那様のいいつけで、妖怪を捕らえるため、法師を探しに行くところだ。邪魔しないでくれ」
「それならうちのお師匠さんに頼むといい」
「ふん。今までどれだけの法師に頼んできたかわかるか。どいつも腑抜けで頼りにならん。この辺の法師ではだめなんだ。唐の国までゆかねば」
「頼りにならないのはお前だ。見る目がないからバカをみているんじゃないか。坊主といったって金に目がくらんでいるヤツもいる。どんなに質素な格好をしていても、誠心誠意尽くしてくれる人もいるんだ。目の前にいるうちのお師匠さんを見てどう思う? このお方は三蔵法師といって唐の地より参られたのだ。ここまで旅をして無傷でいるのだぞ。それのどこが頼りにならないというんだ?」
 ハッとなる高才を尻目に、三蔵は悟空に耳打ちをした。
「わたしをそこまで褒めあげるとは珍しいじゃないか」
「今のはちょっと遠回しにいっただけですよ。お師匠さんが無事なのも、このおれさまがいるからじゃないですか」
 シッシッシと笑う悟空に三蔵は呆れ顔だった。
 高才は通りかかった人の目も気にせず、ひれ伏した。
「どうかご無礼をお許しください。翠蘭さまのことを思うといても立ってもいられないというのに、自分では何も出来ないという不甲斐なさで毎日苛立っているのです。どうか、旦那様のお話を聞いてあげてくださいませ」
 三蔵は馬を下りてかがんだ。荒れた手が地面の上で震えている。
「翠蘭……意地でもおいらが止めていれば……」
「どういうことですか」
「旦那様には3人のお嬢様がいらっしゃるのですが、末娘の翠蘭さまに婿養子が来たのです。土地や財産も持っていて働き者でした。旦那様に気に入られてトントン拍子で結婚されたのですが、その男は豚の妖怪だったのです。今ではその醜い姿を隠しもせずにほっつき歩き、翠蘭を……翠蘭さまを自分の家に閉じこめて一歩も外へ出しません。翠蘭がどんなに恐ろしい生活をしていることか。妖怪だとわかっていたなら、おいらだって、高太公に追い出されようとも……」
「誰しも人は一目では見抜けません。翠蘭さんもそれは重々わかっているでしょう」
 高才は顔を上げて三蔵を見つめた。
「馬を縛っておくところはありますか。宿を一晩お借りしたいのですが」
「三蔵法師さま……」
「そこでお話をしましょう。この口の悪いサルは悟空といってわたしの弟子です。自意識過剰ですが、なかなか頼りになります。妖怪は悟空に捕らえさせましょう」
「おいおい。勝手にきめんなよ」
「無理矢理話を聞きだしたのはそなたであろう」
 悟空は納得のいかぬ様子で高才の案内で馬をひいていった。

「だいたいのお話は高才さんから聞きました」
 高太公にもてなしをされ、三蔵はお茶を飲んでいた。
「あの、ひとつ……この方はお弟子さんで?」
 太公は木の実を食っている悟空を恐る恐る見やった。
「ええ。怖い顔をしておりますが、わたくしの旅を助けてくれています」
「そうですか。ならば、あなた様に託しましょう」
 太公は三蔵の目の前に鍵を差し出した。
「末娘と婿養子に新しい家を与えました。ゆくゆくはこの家を継いでもらおうと考えてのことだったのですが、あの妖怪は娘を閉じこめたまま顔も見せてくれないのです。近づこうとすれば牙のようなまぐわを振りかざして、追い払われてしまいます。村人の手を借りて、大勢で押し掛ければ砂煙を立てて、村を砂埃で覆い尽くしたこともあります。今では誰も手を貸そうとはしません。娘も生きているんだか……」
「なにをおっしゃいますか。娘さんは希望を捨てずに待っているはずです。助けに行きましょう」
 太公は三蔵の膝に泣きすがり、結局、新居に向かったのは高才と悟空だけだった。
「ここがヤツの住処か」
「気をつけて。夜だからって油断は出来ない」
「おれさまを誰だと思ってんだ。いいからここを開けろ」
 悟空はドンドンと扉を叩いた。
「おい。正気か? 寝込みをひっそりと連れ去るって計画だろ?」
「早く鍵を出せ」
「まったく……」
 高才は太公から預かった鍵を鍵穴に入れようとした。だが、その穴は木の枝が詰まっていて入らなかった。
「用心深いヤツだな」
 悟空は耳から如意棒を取り出してドアをたたき壊した。
 部屋の奥の方に小さな人影がある。
「だれ……」
「翠蘭、翠蘭なのか!」
 高才が叫ぶと人影が駆け寄ってきた。
「気をつけろ。妖怪か化けてるのかもしれねぇぞ」
 悟空は如意棒を構えた。
「違う! 翠蘭だ」
 高才は如意棒をつかんで離さない。
「高才!」
 可愛らしい女の声で人影は呼びかけた。月明かりにてらされた彼女は髪が乱れ、やつれていた。
「翠蘭。助けに来た。妖怪はどこにいるんだ」
「外に出てるわ。早くしないと帰ってくる」
「お前が妖怪なんだろ。娘はとっくの昔に食べちまったんじゃないのか?」
「違うわ! あの男、どういうわけか肉は口にしないの。わたしは翠蘭よ。ねぇ。高才!」
「ああ、わかっている。あの化け物が下男の名前を知るはずはないし、翠蘭だけは一目で見抜けるよ」
 高才は部屋に上がり込んで翠蘭を抱きしめた。
「逢いたかった……」
 悟空は如意棒を構えたまましばらくふたりを見ていたが、いつまで経っても抱き合ったままだった。
「わかったよ。ラブストーリーはこの辺にしておいてくれ」
 悟空は馬鹿馬鹿しくなって如意棒を下ろした。すると、どこからともなく嫌な風が吹き抜けていった。
「あの男だわ」
 翠蘭がドアの外に目をやると、月が昇っている空に黒い薄気味悪い雲が見えた。
「よし。あとは任せてくれ。ふたりは屋敷に戻ってろ」
「あなたは?」
「おまえさんに成り変わって待ち伏せしてやる」
 悟空は見事に翠蘭に化けた。

 すすのような雲に乗って戻った豚の妖怪は玄関先に降り立った。浅黒くいやしい顔つきで目を光らせた。
「おい。帰ったぞ。翠蘭? どうした、どうしてドアが……」
 妖怪は壊れたドアから飛び込んできた。
「翠蘭!」
 翠蘭に化けた悟空は布団の上に座って待ちかまえていた。妖怪の姿を見るなり、慌てて乱れた着物の前を合わせて恥じらった。
「どうしたというのだ、翠蘭」
「あなたの帰りが遅いからこんなことに」
「誰がやったんだ。よくも人の女房を!」
 妖怪のたてがみが静電気を起こしたようにざわめいた。
「あなたが悪いのよ。あなたがみんな……」
 さめざめと泣く翠蘭を「よしよし」と、頭をなでる妖怪。
 悟空は不意をついて顔面にひじ鉄を喰らわせた。
「ぐわっ!」
 妖怪は顔を押さえたまま、開いたドアから屋敷の外まで飛んでいった。悟空は着物をひるがえして外へ出ると、妖怪はわけがわからないといった様子で翠蘭の格好をした悟空を見上げた。
「翠蘭……?」
「やってることはあくどいが、どうやら女房には心底惚れていたようだな」
「翠蘭じゃないな……誰だ、貴様は!」
 悟空は着物をつかんで、バッと脱ぎ捨てた。すると、元の悟空に戻っていたのである。
「妖怪ザル! 翠蘭はどこへやった」
「居るべき場所に戻った。どれだけ体<てい>のいい青年を装っても、妖怪は妖怪でしかない。翠蘭の心がお前になびくはずもない」
「余計なことを!」
「世直しの旅人を気取るつもりはないけれど、関わってしまった以上、仕方ねぇ。それに、妖怪となりゃ殺してしまっても、お師匠さんを不機嫌にさせることもないだろう……悪いが、片づけさせてもらうぜ」
「口だけは達者の青二才が。ただの妖怪豚だと思ったら大間違いだぞ」
 妖怪は背中にあるまぐわを手に取った。九つの歯がついた大きなまぐわだ。柄の反対側には金の輪がふたつついている。山奥の妖怪が持つ武器にしては立派である。
「それは……」悟空はまぐわを見て驚いた。「太上老君が自ら鍛え上げたという武器ではないか? どうして妖怪がそんなものを」
「ほぅ……このまぐわを知っていると……あっ。貴様は……弼馬温<ひつばおん>か?」
「またその呼び名を。おまえも天界人だっていうのか?」
「やっかいなヤツが来たな……」
 妖怪はしぶしぶと、だがなぜか誇らしげにいった。
「わしは天蓬水神だ。見くびるとひどいめにあうぞ」
「天蓬水神だって? なにを理由に豚の格好なぞしている」
「ちょっと酒によって嫦娥<じょうが>(*1)と戯れたら玉帝に下界へ落とされた」
「女にだらしないと聞いていたが、今も変わらないな」
「そのとき間違って豚の腹の中に入ってしまったんだ」
「間違って? 違うだろ。わざとだよ。そこが玉帝の怖いところだ」
 妖怪は一つ咳払いをしていった。
「とにかく、決着をつけなくちゃいけないようだな。貴様が負ければ翠蘭は永久にわしのものだ。それで高大公もあきらめがつくだろう」
 妖怪は両方の手でまぐわを握りしめた。柄についた二つの輪がチャリンと音を立てる。女のことで躍起になるのはなにも人間だけではない。神も妖怪も同じこと。
 ただ、悟空だけは「戦い」そのものでも奮起することができる、武将そのものだった。翠蘭を取りかえそうだとか、善人ぶった考えはとうに忘れていた。
 耳から如意棒を取り出し、「伸びろ!」と叫ぶやいなや、黒豚のまぐわが悟空の頭に突き刺さった。と、同時に如意棒の先が豚の喉につきささる。
「ぐああ。ゲホゲホ……。なんだぁ、そいつは」
 いきなり目の前に現れた棒に目を丸くした。
「意のままに操れる、海のお宝。天蓬水神がそんなことも知らないのか」
「なに……神珍鉄のことか。よくそんなものを振り回せるな」
 悟空は頭をかき、
「さすが、太上老君が鍛えた武器だ。今のは痛かったぞ」
「この、石頭が!」
 ブンと、まぐわを振り上げたとき、悟空は如意棒の先を黒豚の腹にあて、
「天まで伸びろ!」
 と叫んだ。如意棒は見る見る伸び、豚は星ほどに小さくなって雲を突き抜けた。転げ落ちたところはなんと観音菩薩がいる南海だった。
 観音のそばに侍っていた一番弟子の恵岸は、突き出た棒をとっさにつかんだ。悟空は地上で棒を引っ張ってみたが、何か引っかかっているものだと思い、棒を握ったまま「縮め!」と叫んでそのまま上空に昇っていった。
 雲から顔を出すと観音と恵岸がそろって悟空を迎えた。
「こりゃおどろいた。なにもこんなところへこなくてもいいものを」
 と、ばつが悪そうに正座をしている妖怪豚の大きな耳を引っ張った。
「これ、悟空。その者は三蔵を手助けするよう申し渡した者のひとりで、猪悟能という法名を与えました」
「なんだって? 道士じゃあるまいし、嫁なんかもらって。そんなの、気づくかっていうんだ」
 うなだれる黒豚。
「でもまぁ、それならそれで話しは早い。翠蘭とは離縁するってことで、一件落着だ。いくぞ」
 悟空はそのまま斛斗雲に乗って高老僧に帰っていった。

 三蔵と高大公に事情を話すと、三蔵は申し訳なさそうに頭を下げた。
「弟子となる者が不始末を……」
「なあに。あなたのように慈悲深いお方でなければ、この地を通り過ぎていたところ。それもこれもあなたさまのおかげです。どうかこれをお受け取りください」
 高大公は金銀200両を三蔵の前に差し出した。
「いいえ。行脚の僧がこのような物を受け取るわけには参りません。どうかおしまいください」
 と、三蔵が丁重に断っているのに、悟空は身を乗り出し、金を一握りつかんだ。
「――悟空」
 三蔵は顔を赤らめて、子供のような悟空をたしなめた。
「一度もらったものです。どう使おうといいじゃないですか」
 そういうと、悟空は隅で見ていた高才の目の前につかんだ金をおいた。
「これはうちの弟分が世話かけたお礼だ。この豚は出家した身分。嫁はとらない。翠蘭と末永く幸せにな」
 高才はドキッとした表情を見せ、主人を振り返った。高大公はなにもいわず小さくうなずいた。
「ありがとうございます!」
 高才は畳に額をこすりつけて頭を下げた。

「しっかし――いい度胸しているよ。猪悟能という名前をもらっておきながら」
 三蔵一行は高老僧を出てまた旅を続けていた。馬をひきながら悟空がぼやくと、妖怪豚はいいわけをした。
「だけど、わしは五葷三厭<ごくんさんえん>(*2)を絶っていたんだ。だから、人間も食わなかった。でももう、嫁もいなくなったことだし、物忌みをやめることにします」
 すると三蔵が馬の上からいった。
「やめることはない。続けなさい。そなたは八つの物忌みをしてきたので八戒という名を与えましょう。もう二度とその名を汚さぬように」
「はぁ……ありがとうございます」
 ありがた迷惑だと思いながらも、要領のいい八戒は口答えもせずに素直にしたがった。


西遊記表紙  前のページ  次のページ

(C) Sachiyo Kawana