いざ、天竺へ

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−4−

 二ヶ月かけて歩くうち、ハミ国(*8漢字表記)を通り過ぎ、早春の候となった。新緑が芽吹き、穏やかな春の風に小花が踊るように揺れている。日が沈むのも遅くなり、一行の歩く距離も日々長くなっていたが、厳しい冬をしのいだ者たちとあれば、あぜ道でも足どりが軽くなるのであった。
 今日の宿はどこにしようかとあたりを見渡せば、西日に黒く楼閣が浮き彫りになっていた。三蔵はそこを今夜の宿にしようと先を急いだ。
 門の前まで来ると三蔵は馬から下り、様子を見てくると悟空を残して中に入っていった。すると正殿に入ろうとするひとりの若い僧がいた。三蔵が事情を話すと僧は、「ここは観音禅院です。観音様にお仕えする高僧であるなら、長老もお喜びになるでしょう。さ、こちらへ」
 と、招き入れようとすれば、門に立つ悟空に気づいて三蔵に問いかけた。
「あの馬をひいているのは?」
「ああ、あの者はわたしの弟子で、悟空といいます。見ての通りのならず者で、気性が激しいのですが、あれで案外役に立つのです。──くれぐれも、扱いにはお気をつけて」
 若い僧はおっかなびっくりうなずいて案内をした。

 奥の建物で悟空とお茶を頂いていると、杖をつき、若い僧に支えられながら老僧が現れた。頭には猫目の宝石の付いた帽子をかぶり、金で縁取りされた着物を羽織っていた。
「今日はお宿をありがとうございます」
 三蔵はそばによって若い僧の代わりに手を取ってやった。
「唐より経を取りに参られたお方がおるとききまして」
「わざわざすみません。今、お斎を頂いていたところです。器もお茶も、立派なことで」
「なぁに。たいしたことはありませんよ。わしのちょっとした趣味です」
「東土ではお目にかかれないものばかりです」
 悟空はほめるばかりの三蔵にしびれを切らせた。
「お師匠さんだって金ぴかの袈裟を持っているじゃないですか」
「袈裟ですか?」
 老僧と弟子たちはこの田舎者を笑った。
「なにがおかしい」
 悟空が憤慨すると若い僧が答えた。
「袈裟ならわたしでも三十枚は持っています。お師匠さまともなれば、数え切れないほどで、いくつも目を見張る袈裟をお持ちです」
「見たこともないような立派な袈裟を見せてやるというんだ」
「悟空、やめなさい」三蔵は小さく話しかけた。「あれは見せびらかすものではない。欲がわけば人間何をするかわかったものではない」
 老僧は自分が一番の袈裟を持っていると自負しているので、托鉢僧の袈裟など期待していなかったが、格の差を見せつけてやろうと考えて言った。
「ほう。それは拝見したいものですな」
「ああ、今持ってきてやらぁ」
 悟空が袈裟の入った荷の包みを開けると、それだけで光がこもれた。そして肩の部分を持って広げると部屋中に金の光が満ちたのである。
「おおっ!」
 老僧も、弟子たちも食い入るように見てため息をもらした。釈迦から賜った袈裟なのだ。一介の住職に過ぎない老僧が手に入れられるはずのない物だった。
「これはすばらしい。一晩中でも眺めていたいほどです」
 悟空は気をよくして「いいですとも。それが見納めになるんですからご自由にどうぞ」
「これ、悟空」
「いいじゃないですか。お師匠さんこそケチの欲張りですよ」

 結局、三蔵の袈裟は老僧の部屋に一晩飾られることになった。しかし、老僧は一晩だけで手放すのは惜しくなってしまった。そこで、弟子を呼びつけ、
「あの旅の者を庭に埋めろ」
「お師匠さま! なんてことを!」
「この袈裟をどうしても手に入れたくなった。東土から来たと言うが、誰もここへやってきたことは知らない」
「しかし、あの僧侶についている怪物はわたしどもでは……。あのお方も扱いには気をつけるようにとおっしゃっていたほどでして。あのサルはくせ者です」
「仕方ない。あの者たちが寝ている禅堂を焼き払ってしまおう。ひとつぐらい禅堂を失っても、この袈裟には代えられぬ」
 寺にいる二百人ほどの弟子を集めて禅堂の周りに薪を積み上げ、一斉に火を放った。
 そんな災難が降りかかっていようとも知らず、三蔵と悟空は旅に疲れ、寝入っていた。悟空は背中に山が乗っていても寝られるたちであるが、物事に敏感であった。きな臭い匂いと木が燃えるパチパチという音に目を覚まし、白馬がヒヒヒーンと暴れ出すとすっかり脳が冴えて飛び起きた。
 窓の外を見れば禅堂の周りで火がくすぶり、僧が火を大きくしようと風を起こしたり薪をくべたりしている。
「謀られたか!」
 悟空は頭に血が上り、カッと毛を逆立てた。しかし、ここで飛び出て若い僧らを打ち殺してしまえば、どんな事情であれ三蔵は緊箍経を唱えて頭を締め付けるであろう。人間が何百人かかってこようと、悟空の敵ではないが、面倒なことになるのは避けたかった。
 悟空は蜂の姿になってこっそりと禅堂を抜けると、もくもくと空にあがる煙に紛れて斛斗雲に乗り、天界を目指した。ついたところは西天門。守護をする広目天王が立ちながら、うつらうつらと門番をしていた。
「おい! 起きろ!」
 悟空が怒鳴ると広目天王はハッと目を覚まし、黒琵琶を振り上げた。
「よく見ろ。おれだ。斉天大聖だ。残念ながら、今は相手などしている場合じゃねえんだよ」
「なんだ。弼馬温<ひつばおん>か」
「その呼び名はやめろ!」
「おぬしはたしか、三蔵法師に弟子入りし、釈迦如来尊のもとへ経を取りに行くと聞いたが。どうした。破門されたか」
 黒琵琶を胸に抱え、小柄な悟空にかがんで皮肉を浴びせた。
「ああ。一度は破門されかかったさ。このわっかさえなければおれの身は自由なんだが、釈迦の入れ知恵で三蔵法師のおもりをさせられているんだ。で、そのお師匠さんが焼かれそうになってる。ま、焼かれちまってもいいかなと思ったんだけど、釈迦に見つかってまた岩の下敷きになるのもつまらない。なにせ、岩から出てきてからというもの、いろんなことが起こってね。飽きないんだ。まったく、三蔵法師という人は、この世の不幸を全部背負ったような不運な人だよ。――いけないいけない。話が長すぎた。天王さんが持っている火よけ籠を、ちょっくら貸してもらいたいと思ってね。あ、そうそう。居眠りしていたことは玉帝には内緒にしといてやるよ」
 広目天王は歯ぎしりしながら、袖口に手を突っ込み鐘のような形をした籠を悟空に渡した。
「三蔵法師は天から守られる運命にあるんだよ」
 などと、負け惜しみをいいながら。しかし、本当に三蔵は不思議な力で守護を受けていた。もっとも、誰も気づかないのだが……。

 悟空は火よけ籠を手にして観音院まで舞い戻った。誰も傷つけず、奴らに一泡吹かせてやろうとしたのだ。
 火はますます勢いづいていた。
「クソ。欲深いじじいめ。己の同士を始末しようとは不届きな」
 悟空は殺したくなる衝動をどうにか抑え、三蔵の眠る禅堂の上から火よけ籠を落とした。すると籠はみるみるうちに大きくなり、紗がかかったように禅堂をすっぽりと覆い被した。巻きあがる炎と煙で僧らは目をしばしばさせ、火よけ籠が落ちてきたとはつゆ知らず、老僧の言いつけを守ろうと、薪を投げ入れるばかりであった。
 悟空は火よけ籠のてっぺんに立ち、ふぅと吹いて風を起こした。その麓では火と煙に襲いかかられ、てんやわんやの僧たちが逃げまどっている。限度を知らぬ悟空であるから、ついつい面白がってやりすぎてしまい、本殿にまで火の粉が飛び移ってしまった。
 アッと思ったときにはもう遅い。屋根には火の粉が降り注ぎ、下からは薪の火の勢いが本殿を火の海にした。慌てたのは悟空ばかりではない。若い僧たちは悟空がやったなどと知らないから、自分たちがしかられると青ざめながら逃げた。
 東の空が白み始めたころ、ようやく火の気も鎮まり、あとには炭となった本殿が焼け崩れていた。僧たちもどこかへ逃げたのか、ひっそりとした朝だった。
 悟空は火よけ籠を懐にしまうと、なに食わぬ顔で三蔵の隣で横になった。目を覚ました三蔵に騒々しくたたき起こされると、吹き出しそうになるのをこらえて神妙な顔つきをした。
「なにが起こったんでしょうね……」
 三蔵と二人で外へ出ると、いつの間にやら戻った僧らがげっそりとたたずんでいる。そして、炭となるはずだった禅堂から、すすひとつつかぬ三蔵が出て来る姿を見るやいなや、一斉にひれ伏したのだった。
「あなたさまこそ神僧だというのに……」
「なんてことを!」
「お許しくださいませ」
 三蔵は驚いていった。
「これはどういうことなんです。なぜこんなことに。住職はご無事なのですか」
「お師匠さん、そんなことより、袈裟ですよ。おい、袈裟はどこにある」
 ひとりの僧に詰め寄ると、
「ああああそこです。焼け残ったお堂に」
 と、おどおどしながら指さした。
「お師匠さん、ちょっくらいってきます」
 悟空がいってしまうと、三蔵は話の出来そうな僧を捕まえて事情を聞いた。もう、出し抜こうと考えている者などいなかった。すべてを三蔵に話してしまうと、肩に荷が下りたように息をついた。
「お恥ずかしい限りでございます。僧たるもの、この世の欲に執着してはならないというのに……」
「そうやってひとつひとつ悟っていくのです。誰が正しいのか、なにに従うべきなのか、まずは己を探求し、真理を――」
「お師匠さん!」
 悟空に話を折られ不愉快そうに三蔵は振り返った。
「大変ですよ。袈裟がありません。あの老いぼれが盗んで逃げたんだ」
「証拠もなしにそんなこと」
「それしか考えられないじゃないですか。あのよたよた歩きじゃそう遠くへは逃げられないはず。すぐとっつかまえてきますよ」
「大変だ!」
 今度はすすで真っ黒になった僧が駆け寄った。
「大変です。本殿の下から、お師匠さまの亡骸が……」
「まさか!」
 悟空はまだくずぶっている焼け跡に飛び込み、老僧の遺体を発見した。見るも無惨に焼けただれて、誰かも判別がつかぬが、頭部のあたりから猫目の赤い宝石を見つけた。老僧がかぶっていた帽子についていたものだ。
「あのじいさんも財産まではあの世に持っていけなかったか」
 悟空は遺体をひっくり返したり、周辺の焼け残った木材を払ったりしたが、袈裟は見つからなかった。金の糸で織られた袈裟だ。灰になって焼け朽ちてしまうはずがなかった。
「誰が持ち逃げたんだ?」
 立ち上がると風で飛んできた何かが鼻に引っかかり、派手にくしゃみをした。引っかかったものをつかみ取ってみると、黒くて堅い毛のようなものだった。誰だと、周りを見渡せば僧侶ばかり。皆、坊主であった。毛が生えているのは白馬と悟空だけ。白馬は名前の通り白い毛であるし、悟空の毛はこれほど長くはないし、ごわごわもしていない。
「おい」
 悟空は真っ黒の僧に問いかけた。
「この辺で妖魔がうろついているという話を聞いたことがないか?」
「黒風山というところに黒熊怪<こくゆうかい>という熊の精が住んでおります。長老さまと親交がありまして、こちらにはちょくちょく」
「黒熊怪……ヤツだ。ヤツが火事場のどさくさに紛れて袈裟を盗みやがったんだ!」
「悟空、また根も葉もないことを」
 三蔵にたしなめられ、悟空は握っていた黒い毛を見せつけた。
「これが証拠ですよ!」

 悟空が斛斗雲に乗って一筋の糸のように瞬く間に消えてしまうと、僧たちは「雲に乗れるお方であったのか。どうりで無傷であったはず」と、一斉に三蔵を崇めた。
「困ったことになりましたよ」
 と、三蔵は考え込んだ。僧たちも神妙になって頭を下げた。
「もし、見つからないとなると……あの通り荒くれ者ゆえに、どうなることやら」
 三蔵はそのつもりはなかったのだが、脅しともとれるその発言に、僧たちはますます青ざめたのだった。そして、悟空が戻ってくるまで三蔵を丁重に扱った。

 一方悟空は黒風山に降り立ち、妖魔の住処を探していた。すると、笑い声が聞こえたのでそちらの方へいってみると、大きな藤棚の下で3匹の妖怪が酒をくべ交わしていた。
 全身黒ずくめの熊男が上座にふんぞり返って杯を持ち、白い衣を羽織り眼鏡をかけた小さな男がお酌をしている。その向かい側にいる道士は聞き手役になっていた。
「わしの誕生日は覚えているだろうな」
「もちろんですよ」
「珍しい錦襴の袈裟を手に入れたから、お披露目をしようと思うのだが」
「お前だな!」
 悟空は石のテーブルの上に飛び乗り、如意棒を黒熊怪に向けた。
「なんだこいつは!」
 黒熊怪は杯に入っている椰子酒を悟空の顔にぶっかけ、悟空が目をしばしばさせているうちに、一陣の黒い風となって森の木々をすり抜けて消えた。残された道士は口笛を吹いて雲をよんで逃げたが、眼鏡の男は自分が着ている裾の長い衣を踏んづけて転び、腰のあたりにまでのびたタケノコに刺さって死んだ。男はみるみるうちに小さくなって白い縞蛇の死骸となった。
 悟空は赤い目をこすり、
「手が早いってのも考えもんだな。袈裟の在処を探すのが第一だ」
 と、風が吹き抜けた方へと向かって歩き出した。

 2時間ほど森をさまよっていると、それらしき洞の入り口を見つけた。遠くで見ていると、中から口の長い妖怪が飛び出してきた。短い足でちょこまかと走り、なにやら急いでいる様子だ。肩に担いだ棒の先には文箱がついている。飛脚だ。
 悟空は妖怪が目の前を通りかかると、飛びかかって息の根を止めた。中の手紙を読むと、焼け死んだ長老宛のものであるとわかった。例の袈裟をお見せしたいとある。そこから盗んできたくせによく呼べるものだと思いながらも、悟空はしめたとばかりにほくそ笑んだ。あの長老のことなら知っている。右足を軸にして三回転すると、今にも死ぬそうな、かの老和尚に成り変わっていた。
 まんまと門をくぐり、黒熊怪に迎えられた悟空はしばらく様子を見ていた。
(黒熊怪が袈裟を見せるまでの辛抱だ)
 黒熊怪は「今、使いを送ったばかりだというのに」とやや不振そうに悟空を見た。
「ちょうどこちらへ伺おうと思っていたところでして。なんでも、すばらしい袈裟をお持ちとか。わたくしも袈裟は山ほど持っていますが、どればかりのものか拝見したいのですが」
 そこへ山巡回の手下が慌ただしく飛び込んできた。
「大王さま、ご報告申し上げます。洞より離れていないところで飛脚が殺されておりました」
 元のアリクイの姿となった、無惨な妖怪の死体が運び込まれた。手下から「ひっ」と息をのむ声がきかれた。
「大王さまを謀ろうとしている者がいるようで……」
 と、山巡回の手下が悟空に目を配った。黒熊怪は爪楊枝で歯をしごきながらいった。
「わかっておる。いかにも怪しげな輩じゃないか。先刻のサルじゃろ?」
「お師匠さんのいうとおり、死体は埋めときゃよかったぜ!」
 悟空は姿を現した。
「盗んだ袈裟をよこせ……!」
 叫ぶやいなや、黒熊怪の手のひらから飛び出した渦巻き状の突風をまともにくらい、悟空は門の外まで吹き飛ばされてしまった。入り口は瞬時に硬い石の門で閉ざされた。外では突風にあおられた手下が何匹か転がっている。
「おい! 開けろ! 勝負するんだ!」
 悟空は石の門を叩くが、びくともしなかった。中から黒熊怪の声だけが聞こえる。
「昼飯の邪魔だけはしないでくれ」
「なんだと!」
 悟空はそばにいた妖怪の首根っこを引っ張り、
「開けるように頼むんだ」
 と、いった。
「大王さま。ここを開けてください。閉め出しにされてます」
 だが、なにも返事はない。
「おい! 黒熊! 手下をぶっ殺してやるぞ」
「フフフ。好きにするがいい。だが、わしの手下を甘くみるなよ」
 と、笑い声が返ってくるだけだった。
「どうするよ?」
 悟空が妖怪どもに問いかけると、手下はこぞって逃げ出した。
「お前らの相手をしている場合じゃねぇんだよ」
 悟空は門の前であぐらをかいた。
「どうすりゃいいんだ? もう、あの金欲じじいもダシに使えない。本物を連れてくるっていったって、焼け死んじまっているし……そうか! 一番悪いのはあいつじゃないか!」
 斛斗雲に飛び乗って南海の観音菩薩の元へ向かった。

 観音の一番弟子である恵岸<えがん>の制止もふりほどき、ほとんど殴りかかるようにつばを飛ばしていった。
「やいやい。下寺である観音禅院の目と鼻の先に、妖魔を住まわせておくとはどういうこった? こうなったのも元はといえばあなたがいけないんだ。どうにかしてくれよ」
 観音は気が気ではないといったかんじの恵岸にうなずき返し、悟空にいった。
「なにをいうか。本堂を焼き払っておきながら、よくもそんなことがいえたものだ。元はといえば、袈裟を見せびらかしたりするのがいけないのではないか」
「……くそぅ。なんでもかんでも知ってやがる」
「まぁ、三蔵に免じて手を貸しましょう。妖魔もそこへ放置しておくのもいけませんから」
 観音菩薩と悟空はそろって雲に乗り、黒風山の上空へやってきた。すると、道士が雲に乗って黒風洞へ行く姿が目に付いた。
「よぉし」
 悟空は道士に近づいていった。
「これ。むやみに殺すでない」
 悟空は道士の目の前に立ちふさがると、両手に持った玻璃の皿をひったくった。皿の上には一粒の大きな金丹がのっていた。
「あのときのサルめ。返せ。これは黒熊怪大王に献上するために持ってきたもの。手ぶらで参るわけにはいかぬ」
「ほう。そうかい」
 悟空はニヤリと笑うと皿をひっくり返した。金丹は落下し、肉眼では確認できないほど小さくなって、森の中に消えた。
「ああああ! なにをする! わたしの金丹が!」
 道士は急降下して金丹を追ったがすでに見失っている。だが、道士は地面にはいつくばって金丹を探した。
「これで時間が稼げる」
「何を考えているんだね」
「観音さんがあの道士に化けて黒熊怪のところへ行く。この玻璃の皿の上には金丹に化けたおれさまがのって、黒熊怪の胃袋の中へ。ひとあばれすれば降参するだろうよ」
「まったく、悪知恵だけは働くのだから……」
 観音菩薩は黒風山に降り立ち、地に足をつけたかと思えば道士に成り変わっていた。悟空は観音に玻璃の皿を持たせ、観音に向かって宙返りをすると、金丹になって皿の上に転がった。
「うまくやってくださいよ。敵もなかなか勘が鋭い」
「なにをいうか。わたしは容姿だけでなく、その者の精気まで同じになれるのだ」
「それは気づかなかった」
 と、うそぶけば、
「まだ修行が足りぬ証拠だ」
 と、観音は毅然といった。

 観音が洞門まで来ると、門番の方から話しかけてきた。
「これは凌虚<りょうきょ>仙長。お待ちしておりました。中へどうぞ」
 少しも疑われることなく中に入った観音は、洞内を歩きながら少々感心していた。立派な洞門、みごとな赤い壁。瑞気あふれる松竹。
「そなたと違って少しは道心があるようだ」
「おれは人の物を盗んだりはしないさ」
 皿の上の金丹がぶるぶると震えた。
「これ。静かに」
 観音は黒熊怪のそばまで行って玻璃の皿を差し出した。
「ご招待ありがとうございます。ご長寿をお祈り申し上げます」
「うむ。毎年、これを口にするのを楽しみにしているぞ。しかし、凌虚仙長に先立たれてはどうすればよいのだろう」
「まったく、おっしゃるとおりで」
 黒熊怪は愉快そうに笑って、悟空が化けた金丹をつまみ、口へ放り込んだ。酒と一緒に一気にあおる。
「ん……」
 胃の中で金丹が転がると、ちくりと痛んだ。
「ぐはっ! うぐぐ……」
 黒熊怪は何が起こったのかもわからず、もだえた。胃の中ではパチンコ玉のように悟空が暴れている。
 観音は姿を現し黒熊怪に向かっていった。
「盗んだ袈裟を出しなさい」
「な、なぜ、観音さまがここにおられるので……?」
「まだ苦しみたいか?」
「わ、わかりました。なんとかしてください」
「悟空、出てきなさい」
『あいよ』
 胃の中から声がして、黒熊怪が自分の腹を見下ろせば、スイカ大になった悟空が鼻の穴から飛び出てきた。
「ぎゃー!」
 黒熊怪は鼻を押さえて悟空をみた。
「あのときのサルめ。始末しておくんだった」
 飛びかかろうとするので、観音は袖口からわっかを取り出して黒熊怪に向かって投げた。すると、輪は黒熊怪の頭にすっぽりとはまり、観音の唱える真言で頭を締め付けた。釈迦から賜った3つの緊箍呪のうちのひとつだった。
「ぐあああ! お許しを!」
 ぐったりと膝をつくと、黒熊怪の目の前には悟空がいた。よく見れば、悟空の頭にも同じ輪がはまっている。
「よぉ。兄弟。暴れ者のおれさまも黙る、金の輪のつけ心地はどうだい?」
「観音さまのお弟子ならそうといえばいいものを……」
「おれはあの袈裟の持ち主の弟子だ。さっさと返せ」
 黒熊怪は手下に袈裟を持ってこさせた。
「観音さん、まさかこいつも連れていけってんじゃないでしょうね」
「この者はわたくしが連れて帰ります。落伽山の裏山の見回りをさせましょう」
「抜け目ないですね」
「バカが」と黒熊怪はいった。「一介の妖魔にも惜しみない慈悲をもってらっしゃるというんだ」
「いったい、どこをどう間違えてこんな悪党になっちまったんだ?」
「禅院にいる強欲の長老に感化されちまったんだよ」
 黒熊怪は充分に反省し、観音から戒を受けて共に南海へ行った。悟空は薪を積んで洞を焼き払う。洞から真っ赤な炎が吹き出した。
「紅風洞とでも名前を変えた方が良さそうだ」
 悟空は袈裟を持って三蔵のところへ帰っていった。三蔵が何不自由なく時間を過ごしていたことは、いうまでもない。


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(C) Sachiyo Kawana