いざ、天竺へ

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−3−

 三蔵は馬に乗り、悟空は荷を担いで馬をひいた。蛇盤山<だばんさん>にさしかかり、ますます厳しい冬空の下、三日三晩歩いている。だが、ひもじくなると悟空が鉢を持って、斛斗雲で托鉢へいったので、三蔵の旅が楽になったことは確かであった。
「観音さまはわたしを手助けするものが他にも現れるとおっしゃったが、どこで待っているのだろう。会えるのだろうか」
「きっと、会う運命にありますよ。現にお師匠さんはおれの前を通りかかったんですからね」
「悟空のような暴れ者がまた現れるのかと思うと、気が重くなる。これもわたしに課せられた修行なのだろうか」
 どんなに修行を積んだ高僧とはいえ、三蔵も人間なのだなぁと悟空は思った。人里離れていつたどり着くともわからない長旅に出、唯一の味方といったら妖怪ザル。こんな輩にまで弱音を吐くほどだから、参ってきているに違いない。
「お師匠さん、やっかいだと思ったら、いつでもおれを破門にしてくださいよ」
「そんなことできるか」
「どうしてです」
 三蔵は少し困ったように目を泳がせ、
「それは──お釈迦さまにお考えがあってのこと。わたしはそれに従うだけだ」
 歴然と言い放った。
「素直にお前にいてほしいといったらどうです」
「わたしについてまわり、行を積むのはお前のほうだ」
 上手くはぐらかされたようで納得いかなかったが、谷底からザッバーンと、水しぶきが聞こえ、悟空はそちらに注意を払った。すると、谷間から大きな龍が昇って来るではないか。蛇のように長い身体をくねらせ、鋭い牙の生えそろった口を広げて襲いかかってくる。糸を引いた唾液まで見えた。
「おいおい、なんで龍にまで目の敵にされなくちゃならないんだ」
 悟空は耳から如意棒を取り出して適度な大きさに変えた。懐へ飛び込み、あごの下から突き上げる。下あごが勢いよく閉まり、カツンと歯の鳴る音が山に響いた。
 龍はのけぞりながら短い手で悟空をひっかこうとする。鋭い爪から逃れ、悟空は一回転して斛斗雲に乗った。ところが、龍は悟空の方を見ていない。馬に乗った三蔵めがけて矢のように飛んでいく。
 悟空は瞬時に馬に乗った三蔵に体当たりをし、そのまま肩に担いで小高い丘に飛んだ。龍は勢いづいたまま突進し、大きな口で一息に白馬を呑み込んでしまった。
「くそ。馬がやられた」
「なんだって? 何が起こった」
「龍ですよ。見ていなかったのですか」
 三蔵は悟空に担がれたまま、逆さまで谷間を見た。警戒している龍が川の上を優雅に泳いでいた。
「なんであんなところに龍が。襲ってくるとは一体どういうことなんだ」
「知りませんよ。とにかく、やっつけてきますからお師匠さんはここにいて下さい」
 三蔵を肩からおろして立たせた。如意棒を握りなおし、気合いを入れる。
「覚悟しろよ!」
「待ちなさい」
 三蔵は行こうとする悟空の腰巻きをつかんで離さない。
「なんですか」
「あの恐ろしい龍がお前の不意を付いて、わたしを食べてしまったらどうするのだ」
「そんな情けないことをいわないでくださいよ」
「わたしが死んだら国で待っている国王が悲しむ。わたしたちは精進の酒を飲みかわした、兄弟ともいえる仲なのだぞ」
「おれが報告しておきますよ。玄奘三蔵は龍に喰われましたってね」
「なんと恐ろしいことを」
 言い争っているうちに龍は谷底に戻ってしまった。三蔵は姿を消した敵に脅えた。(*7)
「ほら、どっから襲いかかってくるか、わからなくなってしまったではないか」
「わかりましたよ。ちょっと戻ったところに民家があったから、お師匠さんはそこで休んでいてください。その間におれがガツンとやっつけてやりますよ」
「馬は戻ってくるのか?」
「お師匠さん、常識でものを考えてよ。喰われちゃったものは戻ってこないでしょう」
「馬がなくてどうして天竺へ行けようか……」
「……」
 悟空はほとほとにあきれながらも、三蔵を連れて一軒の民家まで戻ってきた。
 わけを話すと主は快く了承してくれた。細君に精進料理まで用意させる。
「しかし、えらい目にあわれましたねぇ」
 主はとっくりを持って三蔵に酒を勧めた。三蔵は首を振って断った。
「ええ、馬がいなくてどうしたらよいものか」
「あの谷川にはそんな悪さをする者はいなかったんですよ。それはそれは澄み切ってきれいな川でした。カラスやサギなぞ、水面に自分の体が映るのを見て、仲間と勘違いして水に飛び込むほどで。鷹愁潤<おうしゅうかん>という名が付いたのもそのためです。それがどういうわけか、先日あの龍を観音菩薩さまが連れてきたんですよ」
「観音菩薩が?」
 悟空は信じられないといったふうだ。
「どういうお考えがあったのかわからないのですが、あの龍めはひもじくなると、水面から顔を出して獣を襲うのです。──とうとう人まで襲うようになりましたか」
「そういうことなら話は簡単だ。観音のところへ行って文句をいってやる。お師匠さんの馬だってなんとかなりますよ」
「無礼はよさないか。私の立場を考えてものをいいなさい」
 三蔵は憤慨している。
「どっちが無礼なんだか」
「いえ、そうですよ。おサルさんのいうとおり。菩薩さまだってやっていいことと悪いことがあるでしょう。そのうち集落まで襲ってくるかもしれないですしね、手をうつなら早いほうが」
「よし、おれが斛斗雲でひとっ走りいってくるから、お師匠さんを頼みます」
「え? いってくるって……どのくらいの距離があると思ってらっしゃる」
 斛斗雲を知らない主は、一体いつまで三蔵の世話をしなくてはいけないか、心配になった。
「大丈夫、すぐに戻ってきますって」
 悟空は家を飛び出して宙返りをすると、瞬く間に飛び立ってしまった。

 鷹愁潤の上空へ差しかかると、待ちかまえていた龍が行く手を遮った。長い胴体に体当たりして悟空は斛斗雲から落ちてしまった。固い鱗に鼻をすりむき、顔を真っ赤にさせて怒鳴る。
「クソクソクソ。何だっておれの邪魔ばかりする。てめぇは菩薩の使いっ走りじゃないのか」
「山ザルめ。先ほどあごに突き刺した鉄棒は神珍鉄だろう? 父上から得物を取り上げ、玉帝に上奏したことは聞いている。お前は天帝の制裁を受けたのではなかったのか。なぜこんなところにいる」
「ははーん。てめぇは龍王のせがれか」
「そうだ。西海龍王敖閏の息子だ」
「そうか、玉帝に上奏を。それで天界の奴らが、おれを躍起になって捕まえようとしていたわけだ。おれがどうなったか聞いてないのか? 如来との賭に負けて五行山の下敷きになったんだ。五百年もだぞ。やっと出てこられたと思ったらこのざまだ。頭に呪いの輪はつけられるし、とろくさい坊主の命を守ってやらなくちゃならないしで、さんざんな目に遭っているんだ。だいたい龍王から得物を取り上げたとは人聞き悪い。おれはくれるというものをありがたく頂戴したんだよ、すこぶる友好にね」
「そうとは聞いてないぞ」
「とにかく、そんな過去のことをとやかく言われる筋合いはない。おれは天竺へ経を求める唐僧をお守りするという使命が課せられているんだ。菩薩に邪魔をするよういわれたが知らないが、ここを通してもらうよ」
 龍はハッとしたように口ごもった。
「邪魔をしろとはいわれてない。……おれだって天竺へ経を求める唐僧が通りかかったら、お供するように言われたんだ」
「なに? それを早く言わないか。お師匠さんを食おうとしてどうする」
「面目ない」
「ったく。どうすんだ。馬がなくて天竺へ行けるか? お師匠さんは人間なんだから」
 うなだれる龍と話し合いをして、菩薩に助けてもらおうということになった。ふたりは空を飛び、南海の普陀落伽山をめざした。
 悟空は斛斗雲の上にあぐらをかいて龍の飛行にあわせた。
「あんたは何をやった? どうせ罪を犯したかなにかして、刑罰を免じる代わりに唐僧を助けるようにいわれたんだろう?」
「ああ。おれは火事を起こして御殿を焼き、父の大事にしていた珠まで焼いてしまった。父はおれを訴え出て、玉帝は空中につるして三百たたきにしたあと、死刑にすると言い渡した。まもなく死刑というとき、菩薩さまが通りかかって、お慈悲でおれの命を預けさせてもらうよう玉帝に申し出たんだ」
「それはえらいめにあったな。五行山のほうがまだよかったかも。……あ、でも、おれは天の諸神総出で追い回されて、最後には太上老君の八卦炉に放り込まれて、危うく金丹になるところだったんだから、同じようなことか」
 龍は目を見張って悟空を見た。
「あの八卦炉に……よく生きているな」
「延命の秘訣を教えてやろうか」
「なんだ?」
「閻魔のところへいって、生死帳簿を黒く塗りつぶせばいいのさ」
「……」
 龍は唖然となって首を横に振った。自分はそこまで図太く生きられない。
 そうこうしている間に南海へ着き、普陀落伽山の紫竹林に降り立った。弟子の恵岸に取り次いでもらい、菩薩に事情を説明した。
「仕方ないですね。そなたは馬となって玄奘法師の足となりなさい。これからは殺生などせず、心より師をお助けすることで罪をつぐなうのですよ」
「ははっ」
 龍は深々と頭を下げた。
 菩薩は楊柳の枝を甘露に浸して龍の体にふりかけた。すると、龍は立派な白い馬となったのである。
「よいか。いらぬ争いなど起こらぬよう、行く先々でまずは天竺へお経を取りに行くといいなさい。快く迎え入れられるでしょう。他にも玄奘法師に仕えるよう申し渡した者がいるから、帰順させなさい」
「菩薩さま」
 珍しく悟空はうやうやしくひざまずいた。
「この箍を外してくれませんか。こんな物などなくてもお師匠さんをお助けできますよ」
「今までやってきたことを思い出してみなさい。天を欺き、暴れ放題であったそなたが、心より改心したとは思えません。そのような戒めがなければわが瑜珈<ゆが>の門(仏門のこと)に帰依するつもりはないのでしょう」
「わかりましたよ。この金の輪がおれの行動を見張り、天の治安をもたらすのだとするなら、おれにだってお守りをくれたっていいんじゃないですか? この先、どんな難儀が待ちかまえているかわからないっていうのに、ひ弱なお師匠さんを無事に送り届けられるかどうか、自信がないですよ」
「まったく、道術を身につける前は必死になって修行に励んだというのに。そんななまけ心では成就できませんよ」
「それとこれは別です。菩提祖師のところで修行をしていたときは、危険などありませんでした」
 ああいえばこういう悟空に、悟りを開かせることこそ難儀なことなのだが、菩薩は大変慈悲深いお方なので、誰にでも平等に救いの手をさしのべる。
「いいでしょう。さぁ、近くに寄りなさい」
 悟空が菩薩のそばによると、楊柳の葉を三枚つみ取り悟空のうなじに当てた。
「変われ!」
 それはたちまち三本の命の毛に変わった。
「天や神仙の力が借りられず、そなたの神通力ではどうしようもないとき、この毛が災難を救うことでしょう。もう憂うことはありません。しっかりと師匠をお守りするのですよ」
「ありがとうございます」
 このときばかりは悟空も心から感謝したのであった。

 悟空が白馬を連れて戻ると、三蔵は民家を離れて鷹愁潤へ向かうところだった。
「お師匠さん、どうしたんですか」
「悟空、無事であったか。あまりに帰りが遅いから、龍に食われてしまったと思っていたよ」
「それで仕方なくひとりで?」
「ここにとどまっていては経典を手にすることはできない。そうとなれば唐へ帰るわけにもいかない。行くしかないのだよ」
「それほどの決意があるのなら手を焼かせないでくださいよ」
 悟空の気苦労も知らず、三蔵は連れていた馬に目を留めた。
「その馬はどうしたんだい。わたしの連れていた馬にしてはよく肥えて健康そうだが」
「この白馬はお師匠さんの連れていた馬を喰った龍ですよ。きけばこの龍もお師匠さんのお供をするために待っていたとかで。しようがないから菩薩さまのところへ行って、この龍めをお師匠さんの乗用馬に変えてもらったんですよ」
「なんと……」
 三蔵は菩薩の慈悲に感激して言葉を失った。そして我に返ると香を焚く代わりに土をつまんで、菩薩がいらっしゃる南海を望んで拝んだ。
 こうして一難は去り、一行は漁師に頼んで鷹愁潤を渡り、西番の“はみ”(*8漢字表記)国に入っていったのであった。


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(C) Sachiyo Kawana