いざ、天竺へ

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−2−

 グガズズズズ──。
 先ほどから澄んだ空気に奇妙な音が響いていた。獣が寝息を立てているような、獲物を狙って舌鼓を打っているような、不気味で恐ろしい声だった。
 進まないわけには行かないので、三蔵は恐怖心にあおられながらも手綱を強く握りしめて山を登った。
 さらに険しい岩山にぶつかり、ため息とともに歩みも止まった。野獣の声が近づいているようだ。ふと、岩山の麓を見ると、茶色い毛皮の獣が下敷きになっていた。空洞を巣にしているようでもなく、信じられないことに地面と山に直接挟まれていたのだった。ところがその獣ときたらのんきに居眠りをしている。奇妙な声の持ち主とはこの獣であるとわかった。
 三蔵はこの岩山を超えなければ進めないと思ったので、気が向かないが登ることにした。中腹あたりまで来ると、獣は息を詰まらせて目を覚ました。そして、岩山の方を見上げた。
「なんだ。重いと思ったら」
 まさか、岩山が乗っていることに気がつかなかったのかと、三蔵は驚いた。
「お坊さんにお馬さん。重いんで降りてもらえませんかね」
 岩山に比べたら蚊みたいなものなのに、獣は神経質に耳の裏をかきむしっていった。
「申し訳ない。だが、わたくしもこの山を越えて西方へ行かねばならないのです」
「そう。なら、ついでだからお札を取ってもらえないだろうか」
「お札……?」
 三蔵は岩山を見渡して、頂上付近に貼られた金字の札を見つけた。
「あれは、釈尊が貼られたものではないですか」
「ああ、そうだよ。釈迦が貼ったんだ。おかげで五百年も身動きがとれなくて参っている」
「それなら、わたくしが剥がすわけにはいきません」
「いいじゃないか。どうせもう少ししたら、釈迦の元へ経を取りに行く坊主がやってきておれを自由の身にするんだ。というか、実際には坊主の手助けをする事になっているんだが」
「釈尊の元へ……それはわたくしのことでは?」
「ええ? あんたがそうかい。こりゃ失礼した。もっと年寄りが来るとばかり思っていたもんだから。お師匠さん、お札を剥がしてお供させてください」
 菩薩がいっていた手助けしてくれるものとは、このサルのことだと思い当たった。人里放れたサルが、唐から釈迦如来の元へ取経する僧がいると知っているはずがないので、間違いなく菩薩から言付けされたのだろう。
 三蔵は馬を置いて頂にある札を剥がした。
「さ、お師匠さん、どいてください。岩ごと吹き飛ばされてもしらないですよ」
 なんて無謀者だと肝をつぶしつつ、三蔵は馬を引いて山を下りた。
「いきますよ!」
 サルは外に出た腕をついて上体を起こした。岩山が後ろに傾いて岩石が転がる。
「ハァッー!」
 と、サルが立ち上がれば強い光があたりを包んで、岩山は跡形もなく消えてしまった。
「ふぅ。やっと呪いが解けた」
「なぜ釈尊がこのような岩を?」
「賭けに負けたんですよ」
 しごく簡単な説明に三蔵は理解できるよしもなかったが、「お師匠さんは馬に乗ってください。おれが手綱を引きますから」というので、そう悪い奴ではなかろうと、過去のことは問いたださないことにした。
 馬にまたがってサルに引かれる。顔は恐ろしいが、見れば見るほど小さくて、馬が暴走でもしたら蹴られて死んでしまうのではないかと思った。
 呼ぼうとして名前を知らなかったことに気づく。
「そうだ。わたしの弟子になるのなら、あなたに法名を授けましょう」
「ああ、それならもうありますよ。孫悟空といいます」
「どなたかの門に入ったことでも?」
「ええ。そこで変化の術を学びました。武術にも長けてますから、おれは護衛にはもってこいですよ。いい弟子を持ちましたね」
 三蔵は少々閉口しながら「そのお方の元に帰らなくてよいのか」と尋ねた。
「いいんです、いいんです。破門されましたので」
 あっけらかんという悟空に、何となく三蔵にもこのサルの前歴が見えてきたのだった。
「どうかされました?」
「あ、いや。わたしがもしも悟空を破門したくなったら、どうしたらよいのだろうと考えたのだよ。菩薩さまのお言いつけで弟子にしたのだからそう簡単には破門にできない」
「なにいってるんですか。お師匠さんがおれを破門にするはずないですよ。だって、おれがいなかったら天竺へ行くまでに、何十回と死ななくちゃなりませんからね」
「たいした自信だ」
「お見せしましょうか──」
 悟空は手綱を放し、耳から如意棒を取り出すと手頃な大きさに変えた。そして草むらに飛び込んで棒を振り下ろしたのだった。鈍い音がして、悟空は虎を引きずって出てきた。
「ね、おれがいなかったら虎に食われちまって、ここでお陀仏でしたよ」
 悟空は如意棒をナイフに変え、死んだ虎の皮を剥がし始めた。如意棒は太さや長さだけでなく、意のままなんにでも変えることができるのだった。
「なにをしているんだね」
 眉をひそめて三蔵はいった。
「寒いので、腰巻きを」
 悟空はきれいに剥いだ虎の毛皮を腰に巻き付けた。
「どうです?」
 生臭を絶っている三蔵は、真っ赤な屍に気分が悪くなって「いきましょう」と青ざめた顔を袖で覆った。
 悟空も獣肉を口にしなかったが、血の匂いには慣れていた。
「あら、お師匠さん。意外にナイーブ」
 腰巻きをひらひらさせて手綱を引いたのだった。
 血の匂いが薄れると、
「悟空、そんなに寒いのなら荷物に帽子が入っているから、それをかぶりなさい」
 と、声をかけた。帽子とは菩薩から賜った緊箍呪のことである。やっかいな弟子とはこのサルに他ならないと、策略をはかったのだ。悟空はその金の輪がどういうものかもつゆ知らず、喜んで帽子をかぶった。
「これも大層なものだけど、龍王から頂戴した鳳凰の冠はすごかったなぁ。どこにやったんだっけ……?」
 と、何年も前のことを思い出して懐かしさにふけった。
 騙して帽子をかぶらせはしたけれど、三蔵は育ちの良い輩ゆえ、緊箍呪をむやみに試したりはしなかった。

 峠を越すとそこはもう唐の領地ではなく、韃靼<だつたん>(モンゴルの民族タタール)の地であった。狼や虎の住処が多くある森で、緊張を強いられていた悟空は少し苛立っていた。
 そんなとき、ざわざわと木立が揺れ、数人の男たちが飛び出して三蔵らを囲んだ。リーダーとおぼしき男が大声を張り上げた。
「貴様ら、のこのこと何してやがる。命が惜しかったら馬と荷物を置いて消え失せな」
 三蔵はすべてあげてしまう覚悟で馬から下りた。ところが、悟空ときたら山賊に喰ってかかったのである。
「ほざけ悪党ども。お前らこそ死にたくなかったら、さっさとうせろ!」
「これ悟空。挑発するでない。命が救われるだけでも御の字だ」
「お師匠さんは黙っててください。この孫悟空が山賊の言いなりになるわけにはいきません」
 ケタケタと笑って頭は三日月型の大きな剣を振りかざした。
「おサルちゃん、威勢だけでは世の中やっていけないんだよ。よく見なさい、大の男が六人、大剣もって囲んでいる。どこに勝ち目があるというんだ?」
「ごちゃごちゃとうるさいな。こっちは疲れてるんだ。早いところ荷物を置いて、かあちゃんのところへ帰んなよ。そのほうがお互い余計な体力を使わなくてすむだろ」
 天下の大盗賊なるもの、命乞いされずに鬱陶しそうにあしらわれては、黙っていられない。頭は狂ったように裏返った声をあげた。
「僧を殺すのは忍びないと思ったが、もう容赦はせぬ。野郎ども、かかれ!」
 六人がそろって悟空に打ちかかる。頭上で六本の剣が交錯したが、鋼のように刃が立たない。痛くもかゆくもなかったが、悟空は無性に腹が立って如意棒を振り回した。ひ弱な人間に加減もせず叩きのめし、あっという間に皆殺しにしてしまった。
「悟空! やめなさい!」
 虎の死骸を見たときよりも、もっと血色の悪い顔をして、山賊のひとりをかばったが遅かった。頭から脳漿の混じった血液が流れ、白目をむいて痙攣し、三蔵の腕の中で命を絶った。息を詰まらせながらも瞼を閉じてやる。
「なぜこのようなひどいことをするのだ。この者たちがつかまったところで、死罪になるほどの悪事を働いたわけでもなかろうに」
 悲しみというよりはむしろ怒りを込めて、悟空を責める。言われた方は心外だった。
「そんなの、わからないですよ。絶対、どこかでひとりやふたり、殺してますって。こっちだってやられるところだったんですから、やられる前にやってしまったって恨まれるはずがありません。それに、逃してしまえば、調子に乗ってまた窃盗をするにきまってます。これでよかったんですよ。お師匠さんは人助けしたとは思わないんですか」
「なんてことをいうか。わたしひとりの命のために六人の人間を殺して、どこが道理にかなっているというのだ。わたしは仏門に帰依した者。弟子であるなら今後一切暴力を振るってはならぬ。わたしの目の前で殺生することは断じて許さない。よいな」
「冗談じゃないですよ。おれはお師匠さんのことを思って──」
「少しでもわたしの気持ちを思うのなら、この者たちを埋葬しましょう」
 悟空は理不尽な扱いに我慢ならず、
「ああ、わかったよ。そんなこというなら、弟子をやめてやるよ。お札を取ってくれたのだから、天竺まではついていってやろうと思ったけど、ここでお別れだ。のたれ死んで骨までしゃぶられろ」
 と、三蔵からもらった帽子を脱ぎ捨てようとした。ところが、どんなに引っ張っても外れなかったのである。
「なんだこれ」
 そのとき、三蔵がなにやら口の中でつぶやいた。
「ぐわぁあああ!」
 頭が締め付けられ、不死身の悟空もさすがに耐えかねた。必死にもがき、帽子を取ろうとした。だが、根を生やしたように抜けない。むしるうちに帽子の布の部分がちぎれ、頭に金の輪だけが残った。ぐいぐいと頭蓋骨を圧迫する。顔が真っ赤になり、目玉が飛び出んばかりだ。三蔵が術を唱えているなど考える余裕もない。
「死ぬー! ああああっ! 助けてくれ! わっかがぁ……!」
 突然ばたりと倒れて、失神しそうになったので、三蔵はやりすぎたかと心配になって口をつぐんだ。
「悟空?」
 膝をついて肩を揺さぶった。悟空は放心状態で金の輪に触れた。
「……あんだよこれ。呪われてるぞ。──そっか、前の持ち主が悔いの残る死に方をして、怨念が取り憑いているんだ」
 悟空はハッとして起きあがると三蔵の目の前に正座をし、頭を地面に押しつけた。
「今までのご無礼をお許し下さい。お師匠さんに最後までお供します。どうか、念仏を唱えて成仏させてやって下さい」
 三蔵は吹き出しそうになるのを堪えて立ち上がった。
「悟空。顔をあげなさい。その金の輪は呪われているのではない。緊箍呪といって観音菩薩さまから授かった真言だ」
「観音?」
 悟空はいぶかしげに三蔵を見上げた。
「菩薩さまも危惧されたのでしょう。弟子になるよう申しつけたはいいが、暴れ者のサルゆえ私には手に余るであろうと。緊箍呪はお釈迦様のありがたいお心遣いだ」
「くそ。あいつも一枚噛んでいたのか……」
 悟空は険しい表情でつぶやいた。
「そこまでしてそなたを天竺の共にさせるからには、何か意味があるのでしょう。私ごときが破門にするわけにはいかんのだよ」
 わかっていながら、悟空は金の輪にもう一度触れた。身体の一部になったように、ピクリとも動かない。この細い輪が悟空の身を拘束している。
「岩山から解放され、自由に動けるようになったかもしれないが、所詮釈迦如来の手の内で遊ばされているだけってことだ」
 五百年前の悪行はまだ許されていなかったのだ。観音から天竺へ向かう坊主を手助けするよういわれたときは、簡単なことだと思っていたが、どうやら本気で天竺まで見届けないと故郷へは帰れないようだ。
 悟空は如意棒を指先で回し鍬に変えた。
「はやいとこ、やっちまいましょう」
 道の脇を掘りはじめると、三蔵は手を合わせてお経をあげた。
 その無防備な姿を見ていると、一緒に埋めてしまおうかという考えがよぎった。三蔵がいなくなれば役目も終わるだろう。スコップを握る手に力が入った。刃先を三蔵に向ける。
 三蔵は不乱に経を唱えている。
 と、突然頭に痛みが走った。三蔵が緊箍呪をつぶやいたのだった。悟空の露骨な邪推など、修行を積んだ三蔵に見抜けないわけがなかった。
「うわー。どうして。いたたたた。ごめんなさい。もうしませんから!」
 三蔵は真言をやめ、ため息をつく。
「こんなことをしても無駄だというのがわからないのか。私が死んでもまた代わりの者が天竺へ向かうだけ。おまえの頭に付いた金の輪は外れないのだぞ。釈尊の逆鱗に触れ、厳しい罰を受けることになってもよいのか」
「わかってますよ。ちょっとヘンな気を起こしただけじゃないですか」
 再び穴を掘る悟空をみながら三蔵はまたため息をつく。
「そんなことで殺されたらかなわん」
 悟空も内心思っていた。
「くそ。こいつも手強い……」
 『金の輪』でつながれた師弟は、お互い腹に不満を抱えつつ、盗賊を埋葬した。(*6)


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(C) Sachiyo Kawana