いざ、天竺へ

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1.玄奘三蔵法師

 悟空の運命の人とでもいうべき高僧は唐の地にいた。貞観十三年(*1)、太宗皇帝が水陸大会<だいえ>(慰霊祭の一種)を開催するために、選び抜かれた徳のある僧で、法名を玄奘といった。化生寺<けしょうじ>にて各所から集まった名僧の前で説法をしている。
 この若い僧は民衆にもたいへん噂をされた。片方の耳に付けた金のリングが彼の特徴ではあるが(*2)、生まれながらに仏門にふれていた玄奘は、たたずまいからして他の僧とは一線をおく。容姿は端麗でありながら表情はどことなく寂しく、派手さはないものの高貴な印象を与えた。太宗から賜った五綵金襴<ごさいきんらん>の袈裟を羽織り、毘盧帽<びるぼう>をかぶった姿は見る者の目を奪い、ひとたび口を開いて耳を傾ければ心をも奪った。
 釈迦如来の命を受け、南贍部州へ取経者を探しに来た観世音菩薩と弟子の恵岸<えがん>(托塔李天王の第二子でもとの名を木叉という)は、その噂を聞きつけ、ぼろの衣をまとった僧に成り変わって化生寺へ出向いた。
 菩薩は壇上に登っている僧を見て驚いた。かの僧は如来の二番弟子である“こんぜん”(*3漢字表記)長老の生まれ変わりであった。菩薩自らがこの世に転生させたのだから間違えない。これほどまでの適任者はまたとしてなかった。
 菩薩はひとしきり聞き終わると遠くから声をかけた。
「和尚、あなたは小乗の教法だけを講じておるが、どうして大乗を説かぬのですか」(*4)
 集まった僧たちが後ろを振り向く。太宗はその身なりを見て貧乏坊主が紛れ込んだと、出ていくように命じた。しかし、それを玄奘が止める。
「ごもっともです。わたくしをはじめ、諸僧は小乗の教法しか存じ上げません」
 それをきいて菩薩は寺の中に入っていった。ひしめく僧たちが無意識に道をあけた。玄奘は壇を降りて一礼をする。
「小乗の教法では亡き者を救うことはできない。大乗の教法こそ死者を苦しみから救い死生を超越することができるのです」
「ぜひともここで説法を」
「いいえ」
 といって菩薩は姿を現した。一同腰を抜かして驚き、ひれ伏した。
「わたしは如来仏の命を受けて取経者を求めに来たのです。玄奘、あなたに大雷音寺の如来の元へ、三蔵の真経を取りに行ってもらいたいのです。そして再び東土に戻って布教に勤めなさい」
 菩薩は手にした風呂敷を広げた。錦襴<きんらん>の袈裟と九環の錫杖<しゃくじょう>を玄奘に渡す。
「これは如来から賜った宝物。もし善意をもって雷音寺まで取経に来られたとき、これを身につけていれば輪廻に落ちることもないでしょう」
 玄奘は深く叩頭してありがたく受け取った。
 役目を果たした菩薩は祥雲に乗って西天へ帰っていく。太宗は我に返ると大会の中止を申し渡し、玄奘を見送る支度をさせた。通行手形に宝印を押し、乗用の白馬を用意して城門まで送った。
「玄奘、今度の旅はどんなに長く、どんな身の危険にさらされるかわからない。だが、必ずや無事で戻ってくるのだぞ。そして、俗にも服せずこの東土に三蔵をもたらしたまえ」
「もちろん命を投げ出す覚悟でございます。されども、死して真経を手に入れることができなければ、永遠に地獄に堕ちましょう」
 太宗は決意の固さに改めて心を打たれた。
「これは朕からの縁かつぎじゃ。托鉢に使いなさい」
 官僚に合図して持ってこさせたのは、紫金の立派な鉢であった。玄奘は喜んで受け取る。如来から賜った錦襴の袈裟などと一緒に包んで荷を馬に載せた。
「それではそなたに号を与えよう。西天へ三蔵を取りに行くので、三蔵というのはどうだろうか」
「まことに結構でございます」
「よし。祝杯じゃ」
「陛下。せっかくですが、酒は第一の戒めです。口にするわけにはまいりません」
 すると太宗は酒のつがれた杯を受け、かがんで土をつまみ杯へ落とした。三蔵はなんのことかわからぬままその様子を見ている。
「これは精進の酒。決してこの地を忘れてはならぬという戒めだ」
 と、杯を三蔵に渡した。自分の杯にも同じようにひとつまみの土を入れる。
「そして、朕はいつもそなたの無事を願い、いつまでも帰りを待って、戻ればすぐにでも法会ができるよう準備しておこう」
 三蔵は意を汲み取って頭を下げると、一口の酒を一気に飲み干した。
「行って参ります」
 頭を上げた三蔵の表情は凛として、どんな災難が降りかかろうとも、物怖じしないように見えた。
 白馬にまたがって西を目指す。太宗は三蔵が見えなくなるまで見送った。

 折しも冷たい風が吹き荒れる季節であった。野宿をすれば霜がつき、見る間に体力は奪われていった。そばにいるのは痩せた馬が一頭。森が深まるにつれ、身を案じないわけにはいかなかった。
 急斜面を馬から下りて登っているときだった。祥雲に乗った観音菩薩が三蔵の目の前に降りてきた。三蔵は手綱を放ってひれ伏す。
「三蔵や。顔を上げなさい。ひとつ、言い忘れていたことがあったのです」
 三蔵はゆっくり頭を上げて菩薩を見た。
「天竺までは長い道のりです。その途中では幾多の困難が待ち受けているでしょうが、雷音寺から唐へ来る道のりであなたの手伝いをするように言いつけた者がいます。ただ──その中にひとり、やっかいな者がいるのです」
 苦笑いをしてつづける。
「数々の無礼を働き、手を焼くようであればこれが役に立つでしょう」
 菩薩は帽子のついた金の輪を渡した。
「これは緊箍呪<きんこじゅ>(*5)といって、頭につけて呪文を唱えればその者の頭を締め付けるのです。耐えられなくなって許しを請うでしょう。ですが気にすることはありません。如来からの賜物なのですから」
 三蔵はありがたく頂戴して菩薩を見送った。
 金の輪がついた帽子をしげしげと見て、かぶってみようとした。だが、取れなくなっては困るので他の荷物と一緒に馬へ積んだ。
 このような物が必要になるとは、いったいどんな人物であるのだろうと、少々不安にかられたのであった。

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