天下無敵の石ザル誕生

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2.斛斗雲の術を会得して妖魔を倒す

 水簾洞のサルは唄って飲んで食ってと、毎日遊びほうけていた。
 ある時石ザルは支配下のサルたちを集めていった。
「ちょっくら修行にいってこようと思う」
「待ってください。大王がいなくなって、我々はどうしたらよいのですか」
 いつの間にか石ザルの側近のひとりとなっていたヤォは、慌てて止めに入った。他のサルも驚きを隠せない。
「このまま誰の干渉も受けず、のんびり暮らすも悪くないが、何となく年をとって死んでいくのも寂しい。それならいっそうのこと不老長生の法を学び取ってこようと思うのだが」
「大王、そんなことが本当に可能なのでしょうか」
「いやいや、それは妙案ですぞ」
 水簾洞一番の知恵者、サイショウはいった。
「この世には閻魔の干渉を受けない者がおります。仏と仙と神聖の三者で、輪廻をのがれ、天地と齢を等しくするのです。その者たちならきっと大王さまに長寿を授けてくれることでしょう。さすればこの地も安泰。大王さま一代で花果山を征することも可能です」
「その者はどこにいる?」
「海の向こう、閻浮<えんぶ>世界(*8)の古洞仙山に住まってると聞きます」
「よし、皆の者、いかだを作れ。明日出発する」
「おいらも連れて行ってください」
 ヤォは一歩進み出て頭を下げた。
「誰かをひいきして連れて行くわけには行かない。おまえたちはここで洞を守っていろ。それが修行のひとつになる。いいな、ヤォ。あとはお前に任せたぞ」
「はっ」
 ヤォは喜んで受け入れた。そして先頭に立っていかだを作り始めたのである。
 石ザルはこっそりとサイショウに近づき、「頼んだぞ」と耳打ちした。サイショウも心得たもので黙ってうなずき、ヤォを見守ることとなった。

 翌朝早くにいかだを出し、石ザルはひとり海を渡った。うまく風に乗って数日で南贍部州へやってきた。沖では人間どもが漁をし、海岸では貝を掘っている。
 石ザルがひとりの男に近づくと、「化け物だ」と腰を抜かすので着ているものをはぎ取って身にまとった。町を歩きながら、店先の果物を盗んだりして追いかけられながらも、人間の仕草や言葉を覚え、人の集まる小さな茶屋に入った。
 金は後払いとわかっていたのでゆっくりとお茶をすする。周りをきょろきょろしながら、隣にいる男に思い切って話しかけた。すると、男は阿呆かと、いうのだった。
「不老不死だって? そんなこと考えてるなら財を蓄えることを考えなよ。長生きは一文の得にもならない。息子だって親父の長生きより金を望んでいるさ」
「だったらこんなところでのんびりしてないで働きなよ」
 女将に野次られ「へいへい」と男は出ていった。石ザルは落胆しながらも、女将の目を盗んで店を出て長寿の法を求め回ったのだが、誰も知る者はない。町を渡り歩いてとうとう大陸を横断し、反対側の海岸まで出てきてしまった。
 きっと、向こうの大陸に神仙がいるに違いない。
 思いを胸に石ザルはひとりでいかだを組んで海を渡り、西牛貨州(※西牛賀州と書く文献もみられます。情報提供 冬眠様→HPにやってきた。ひたすらに聞き込みをしたが、情報は集まらない。ここにもいないのだろうかと、落ち込みも激しくなったときだ。目の前に花果山のように美麗な山が現れた。この地こそ神仙の住まいにふさわしいと、石ザルは獣たちの手荒い歓迎をものともせず駆け上っていった。
 林を抜け、大きな道に出た。目と鼻の先にひとつの洞府がある。門はぴったりと閉じていて石碑には『霊台方寸山 斜月三星洞<れいだいほうすんざん しゃげつさんせいどう>』と大きく刻んであった。
 いきなり尋ねて追い出されやしないだろうかと、門の前をうろうろしていると、中から仙童が出てきて石ザルを見やった。
「何をしている!」
 石ザルは肝をつぶして膝をつき、頭を地面にこすりつけて誠意を尽くした。
「拙者は仙を学ぼうとします者、けっして怪しいものではございません」
「修行の者か?」
「はい。そうでございます」
「さすがお師匠さま」
 と、仙童は笑った。石ザルは顔を上げて聞く。
「と、いいますと?」
「我が師である須菩提祖師<すぼだいそし>が、外に修行の者が来ているので、迎え出て案内するようにおっしゃったのです」
「さすが神仙さま。その修行の者とはわたくしめのことです」
「では、ついてきなさい」
 石ザルはすくっと立ち上がり、やや緊張の面もちでついていく。中の様子は水簾洞とは格が違った。楼閣はまことに立派で、ため息が漏れるばかり。いくつかの門をくぐって、ようやく祖師のいる壇の前にやってきた。三十人ほどの弟子が侍っている。
 大法師を目の前に何を申してよいのかもわからず、とりあえずひれ伏した。
「そなたはどこの者じゃ?」
「はい。拙者は東勝神州、傲来国の花果山水簾洞より──」
 言い終わらぬうちに祖師は怒りだした。
「東勝神州だと? 嘘もたいがいにせい」
「本当でごさいます」
「この地からどれほどあると思っている?」
「拙者は二つの大海を臨み南贍部州を横断して参ったのです。嘘ではありません。祖師にあいたく、何年もかけてきたのです」
 祖師は石ザルを上から見下ろしていった。
「立ってみなさい」
「はい」
 石ザルが立ち上がると祖師はその姿を凝視した。顔や手足は泥まみれ、衣は薄汚れて、襟元がぼろぼろになっていた。
「よくわかった。それほど遠方よりわたしを訪ねてきた者はなかったので、まさかと疑ったのじゃ」
 祖師はすこぶる機嫌がよくなった。
「して、そなたの姓は」
「花果山の仙石から生まれたので姓はありません。自ら美猴王と名のっていました」
「ほほう。天地の申し子とでもいおうか、珍しい姿をしておるはずじゃ」
 またしげしげと石ザルの姿を見る。
「おぬしは“さる”(*9漢字表記)に似ておるのう。その格好にちなんで姓を授けよう。“獣偏に古と月”は獣偏を取ると古と月になる。それぞれ老と陰を表すのでよくない。“獣偏に孫”の字は獣偏を取ると子と系。男児と女児を表すので末代まで栄えるであろう。姓は孫と名のるとよい」
「ありがとうございます。名前も付けていただきたいのですが」
「よしよし。弟子には順番に十二の文字を当てて名前を付けておるのじゃ。広・大・智・慧・真・如・性・海・穎・悟・円・覚で、お前の順番はちょうど悟の字に当たる。悟空という名前はどうじゃ?」
「けっこうでございます」
 石ザルは喜んでひれ伏した。
「よかろう。そちに孫悟空という名を授けよう」

 石ザルは名前ももらい、門下生として修行をすることになった。赤い胴着を渡され、黄色い帯で締める。着てみればいっぱしの気分になってはしゃいだ。
「うかれているでないぞ」
 悟空は兄弟子たちに礼儀作法を教わり、拭き掃除や畑を育てたりと来る日も修行にいそしみながら、道を教わる機会をうかがった。
 ある日、祖師がいつものように禅を講じて戻られようとしていた。悟空は呼び止めて「そろそろ道を学びたいのですが」といった。
「よかろう。夜中に裏門から来なさい」
 祖師は悟空が兄弟子たちとは少し違うと感じ取っていたので、すぐに引き受けた。
 悟空は皆が就寝しても寝付かず、真夜中になってからそっと抜け出した。細く開いていた裏門から入って、祖師の寝台の前でひざまずいた。
「悟空か?」
「さようです」
 祖師は起きあがると上着を肩に掛けた。
「おまえは遠方はるばるわたしを訪ね、何を学びたいというのだね」
「長寿の道を学びたいのです」
「修行は自分との戦いじゃ。精気を養い、邪欲を排し、己を見つめ直して根源を強固なものにしていかねばならぬ。よくよく口訣を守り自ら修練できるかな」
「もちろんです。法を授けてくださればご恩は一生忘れません」
 悟空は再度叩頭した。
「おまえならそれほど難しいことでもないだろう。厄災を避ける方法はふたつある。ひとつは“てんこうすう”(*10漢字表記)といい、三十六般の変化がある。ひとつは“ちさつすう”(*11漢字表記)といい、七十二般の変化がある。どちらを学びたいか」
「それはもう、多い方がいいにきまってます。“ちさつ”の変化を教えてください」
「では近う寄れ。口訣を伝えよう」
 悟空は“ちさつ”の法を伝授してもらい、こっそりと修行に励んだ。悟空は一事に通ずれば万事に通ずる。あっという間に七十二の変化を修得してしまったのである。
 またいつものように説法を聞き、洞を離れて修練しようとすると、祖師が「どうだね、調子は」と、話しかけてきた。
「はい、“ちさつ”の法を使いこなし、雲にのって飛ぶことができるまでになりました」
「うむ。それでは見せてみなさい」
 悟空は得意になって空高く飛び上がった。雲霞を捕まえ祖師の上空を浮遊する。すると祖師は悟空を見て笑うのだった。
「そんなのでは、這っているのと変わりない。空を飛ぶというのは一日にして四つの大海を一遊することをいうのじゃ」
「お師匠さま、どうすればできるのでしょうか」
「斛斗雲の術を教えてやろう。印を結んで(*12)飛び上がり、とんぼ返りをして雲にのると、ひとたび十万八千里飛ぶことができる」
 悟空はその晩から鍛錬し瞬く間に会得した。しかし、空を飛んでいるところを兄弟子に見られてしまい、大騒ぎとなった。
「お師匠さま、どうして悟空にだけあのような法を授けるのです」
 それを聞いた祖師はすっかり勘違いして、悟空がいい気になって兄弟子たちに修得した術を見せびらかしているものと思った。
「悟空、術というには見せびらかすためにあるのではない。お前が修得したのであれば、それを見た者も身につけたくなる。お前が教えぬというのならまたそこで争いが起こるであろう」
「しかし、お師匠さま、わたくしは──」
 悟空はそのつもりではなかったといおうとしたが、血が上っている祖師には届かなかった。ましてやひいきしていたとわかってしまい、弟子たちに示しがつかないのにも腹を立てていた。
「言い訳は無用。おまえは破門じゃ。今すぐ出て行きなさい」
「わたしにどこへ行けと?」
「花果山から来たのであろう。もとの場所へ帰りなさい」
 悟空は渋々洞を出ていった。
 山間に落ちていく夕日を見ながらここへ来るまでの道のりを考え、ため息をついた。
 まぁ、いいじゃないか。目的は果たせたのだ──と自分に言い聞かせ、来た道を戻り始めた。
 そうだ、なにも地上を行かなくとも、おれには斛斗雲があるじゃないか。
 悟空は空高く飛び上がって宙返りした。雲霞に乗るとものすごいスピードで空を駆け抜ける。やがて懐かしい花果山が目に入り、早く修行の成果を洞の者たちに見せてやりたいと思った。悟空にとっての故郷とは、この花果山なのだ。案外、帰るにはよいきっかけであったのかもしれない。

 心弾ませ帰ってきた悟空に、思いがけない事態が待っていた。水簾洞付近を低空飛行をしていても、獣たちに出会わなかった。あのヤンクゥ率いるサルの群も顔を出さない。
 悟空は雲にのったまま滝につっこんで「ものども! いま戻った!」と叫べば数匹のサルが決死の形相で飛びかかってこようとした。
「待て! おれだ。美猴王だ。覚えていないのか!」
「大王!」
 一匹が叫べば皆我に返って「大王のお帰りをお持ちしていました」と口々に叫んだのだった。
「いったい何があったんだ。花果山はもぬけの殻じゃないか」
「それが、妖怪がこの洞府を乗っ取ろうとしているのです。この近辺を荒らし回り、多くの子ザルたちが捕らわれてしまいました」
「ヤンクゥたちも巻き添えを喰ったということか……」
「それなんですが……」
 歯切れ悪く続けた。
「ヤンクゥが洞府のことを教えて、そそのかしたらしいのです」
「あの性悪。どこまで腐ってるんだ」
「ところが裏切られてしまい、混世魔王<こんせいまおう>と名のるその妖怪は誰かれかまわず打ち殺していったのです。ヤンクゥは頭に来て手下を連れて乗り込むことを決めました。こちらはこちらでパォたち子供が連れ去られて、血が昇ったヤォがひとりで妖怪のところへ向かったものですから、サイショウも慌ててヤンクゥの群れと手を組み、攻め入ったところです」
 悟空は不在の間に起こった悪事にいきりだって毛を逆立てた。
「よくわかった。そのクソ野郎はどこにいる。叩きのめさねば気が済まん」
「北の方角に住んでいます」
「よし、それじゃおれが探してくる。あとは頼んだ」
 滝に向かって飛び出していく王を見ながら、サルたちは内心不安だった。追いつくころには全滅しているかもしれないと思ったからだ。
 しかし、今の悟空に憂いはない。斛斗雲で北へ飛び、ヤォよりも早くたどり着いたのだった。
 草花も生えぬ険しい高山の崖の下に『坎源山水臓洞<かんげんざんすいぞうどう>』があった。門前には小さな下っ端の妖怪がぼんやりと門番をしていた。悟空が雲から飛び降りると、いきなりサルが降ってきたので、小妖は驚いて腰を抜かし、門の中へ逃げようとした。
「待て待て。言付けぐらいできなきゃ門番じゃないぞ」
 小妖は悟空が武器も持たず、鎧甲も身にまとっていないのを見て、立ち上がって細い槍を握りしめ身構えた。
「混世とやらに伝えろ。おれは花果山水簾洞の主、美猴王こと孫悟空だ。子分たちのかたきを討ちに来たから勝負しろ。ついでに、連れ去った子ザルも返してもらう、とな」
 小妖は駆け込んで洞にいる魔王にその旨を伝えた。
「大王さま! 花果山水簾洞の主と名のる者が一匹で責めに来ました。勝負しろと叫んでいます」
「ああ。あれだな。ヤンクゥがいっていた修行僧。ヤツが戻ってきたのか。ものども! 支度せい!」
 家来たちは魔王の巨大な鎧や甲を用意した。魔王は身につけながら聞く。
「ヤツはどんな格好をしていた?」
「薄っぺらい赤い上着をまとい、黒い長靴を履いているだけです。手にはなにも持たず、とても大王さまに戦いを挑むものとは思えません。背丈だってわたしより低いのです」
 魔王は低く笑って一振りの刀を手に取った。
「おれさまの姿を見れば降伏するだろうよ」
 魔王は手下を連れて洞の外へ出てきた。
「水簾洞のちびザルはどこだ」
 悟空は足下で魔王を見上げる。頭から手の甲まで黒鉄の甲羅をまとい、一寸の隙もない。腰回りは十抱えほどで、身の丈は三丈はある。大きさの違いなどはお構いなしに悟空はどなった。
「妖怪、おれさまはここだ!」
「おお。危うく踏みつぶして勝負がついてしまうところだったわい」
 手下共々大口で笑う。
「そっちこそ、あっけなくぶっ倒れるなよ!」
 悟空は顔面めがけて拳を突き上げた。魔王は蠅でも払うように左手ではたき落とした。赤鞠のように転がるがひょいと立ち上がった。
「イノブタめ!」
「けっ。さっさと勝負をつけたいところだが、このおれさまがちびザル相手に刀を使ったといったら名が廃る。こちらも素手でやってやろうじゃないか」
 大刀を放り投げ、大かぶりで長い腕を突き出す。悟空は軽い身のこなしでよけた。魔王の拳が大地を揺るがしている間に懐へ飛び込んだ。悟空の体当たりで魔王はひっくり返る。剣で刺されようものなら分厚い鎧で遮られるのだが、逆にその重々しい黒鉄で腹に鉛を喰らったような衝撃を受けたのだった。
「勝負に名誉や情けはいらぬ!」
 悟空は身外身の法を使い、自分の毛をひとつまみ抜いてぷっと息を吹きかけた。
「変われ!」
 と、悟空が叫べばたちまちにして何百もの小猿に成り変わり、魔王ひとりに束となって群がった。これは悟空が会得した術のひとつで、身体に生えた八万四千本の毛が意のままに、なんにでも化けることができるのだった。
 小猿たちはすばしっこくて払っても払っても飛びかかっていった。毛をむしったり、鼻をほじくったり、瞼をひんむいたり、やりたい放題いたずらをしでかす。鎧のしたに入り込んでノミのようにぴょんぴょん飛び跳ねる者もいた。
「こりゃたまらん。おい、野郎ども! ガキを連れてきてこやつの目の前で首を切ってやれ!」
 手下の妖怪たちは、洞の中から縛り上げた子ザルを連れてきた。
「勝負に情けはいらぬ。そうだったな?」
 悟空は歯ぎしりして睨み返した。
「早く小猿を引き上げさせろ」
 しかたなく身体をブルッと震って、小猿を元の通り身体にくっつけた。
「こんな足手まといの戦力にならぬガキどものために。バカなヤツだ。勝つためには味方の犠牲もいとわない。戦いとはそういうものだ。おぬしは王には向いてない。とっとと洞をあけ渡せ」
 魔王はひょうひょうとぬかした。悟空が何かいい手はないかと思案しているときだ。
「大王!」
 と、後ろから呼びかける者がいた。丸裸の小さなサルだ。
「ヤォ!」
「大王、なぜここに」
 ヤォはやっとのことでたどり着いた地に、我が大王が乗り込んでいるのを信じられない思いで見ていた。
「話しはあとだ。おまえは下がっていろ」
「しかし、大王。子供たちはどうなるんです。かたを付けてください」
「そうだぞ、悟空」すでに家来にしてやったかのように名前で呼んだ。「かたを付けよう」
 魔王は一本の毛を抜いて息を吹きかけた。鋼の小さな針に変わる。
「降伏しろ!」
 子ザルに向かってぷっと針を吹き飛ばした。針は風を受けるごとに大きくなり、鋼矢のようになって飛んでいった。その先には縄で縛られたまま身動きできないパォがいた。目をつむり、自分の運命に身を任せた。
「パォ!」
 叫ぶが早いか、ヤォは夢中で走っていた。鋼の矢よりも速くパォをかばうことができたが、逃げるのが遅れた。ヤォの背に巨大化した針が刺さり、腹まで貫通した。その先端がパォの太ももに傷を負わせた。
「グフゥッ!」
 ヤォは口から血を吐き出し、死んだように動かない。パォはちくりとした腿の痛みに目を開け、顛末を知った。
「にいちゃん! 死んじゃヤダよぉ!」
 パォは縛られた不自由な体ですり寄った。
「おまえの判断が遅いからだぞ、悟空」
 冷淡に言い放つ魔王に心底怒りを覚えた。悟空の毛が逆立ち、パチパチと青白い放電が身体のあちこちに起こったかと思うと、全身の毛が瞬間的に黄金に輝いた。
「許さねぇ!」
 末恐ろしいほどの殺気に誰もがたじろいだ。崖の中腹あたりを行くサイショウやヤンクゥも歩みを止めるほどだった。それが美猴王だともつゆ知らず、気まずい空気が流れる。
「急げ!」
 ヤンクゥの掛け声に我に返り、皆はかけだした。
 一方、悟空は魔王が手放した大刀に手をかけた。
「ウォオオオオ!」
 身の丈数倍ほどある刀を振り上げ、魔王の脳天めがけてたたき下ろした。あれだけの重さの刀なのに、ツバメのような速さで襲いかかり、魔王は逃げるまもなくまっぷたつに割れてしまった。
 何日も修練して成せた業ではない。純粋な怒りと悲しみがそうさせたのだった。
 引き裂かれた半身は左右に倒れ、魔王は息絶えた。
 そこへヤンクゥたちが駆けつけ、むごたらしい血の海に唖然とした。
「なにしてる。雑魚を仕留めろ!」
 命令されたサルたちは、赤い衣をはおい、形相を変えた悟空を、どこのサルだと思いながら、自分の敵だけを叩きのめしていった。
「サイショウ! サイショウはいるか!」
 混乱の中、悟空が叫ぶとサイショウが駆けつけた。目の前まで来てようやく美猴王だと気づく。
「大王さま? なぜここに」
「ヤォが危ない。助けてやってくれ」
 ヤォの腹に貫通した矢が刺さっているのを見て、息を呑んだ。
「大王、これは──」
「なんとかしてくれ!」
「は、はい」
 サイショウは鋼の矢を握りしめ、一気に抜いた。
「ぐはっ」
 ヤォから声が漏れた。
「まだ生きてるぞ」
 悟空は上着を脱いで、噴き出す血を押さえた。
「止血薬がなければ……」
 サイショウも一緒になって押さえるが、その姿は頼りなげだった。パォはハッと思い出していった。
「洞に薬品庫がありました!」
「よし、おれが取ってくる。サイショウ、最後まで諦めないでくれ」
 悟空は洞に入り、もどかしい気持ちで妖怪をなぎ倒し、両手いっぱいにありったけの薬を抱えてきた。サイショウは中から乾燥した草を取り出し、手揉みして傷口に当てた。悟空の上着を巻き付けて帯で締めた。
 助かるのかどうか、閻魔大王以外には知り得なかった。
 その頃には妖魔を全滅させ、サルたちが勝利を収めていた。
「洞を焼き払え」
 ヤンクゥの指示によって火が放たれ、捕らわれていた子ザルたちの縄をほどいた。
「よし、みなのもの! 帰るぞ!」
 悟空が叫ぶとサイショウは残るといった。
「ヤォは安静でないといけません。険しい道のりを担いで移動させれば傷口が広がって──」
「気に病むな」
 悟空はヤォを抱えて「集まって目を閉じろ」といった。
 何をしようとしているのかわからず、ヤォを弔うのだとひざまずいて念仏を唱える者もいた。
 すると悟空は一陣の狂風を巻き起こした。砂埃が舞い、目を開けていられなくなった。それもほんの瞬間的なことで、風がやんで目を開けるとそこは美しい花果山だった。
「ほう! すごいすごい」
「道士が現れた!」
 口々に悟空をたたえ、混世魔王を倒した力を誰もが認めた。母ザルと子ザルは抱き合って再会を喜んでいる。
 雨降って地固まるとはこのことで、ヤンクゥの悪事は水に流し、かくして、花果山のサルは孫悟空下に統一され、ヤンクゥは武力将軍に、サイショウはその知恵を生かして補佐に当たらせた。もともと前に出ることが苦手なサイショウは、不服を申し立てず、陰ながらによい働きをした。

 ところで──ヤォはどうなったかというと、一命を取り留めることができたのである。
 目覚めて悟空の顔を見るやいなや、飛び起きて「パォは!」と叫んだ。自分が生きているなら、弟が生きているはずはないと思ったのだ。
「心配するな。パォはかすり傷を負っただけだ。そこで疲れて眠っている」
 寝息を立てているパォを見て、ようやく生きた心地になった。安心したのか急に腹が痛み、突き刺さった矢を思い出した。体内にまだ残っているように腹が重い。
「当分は安静にしてもらうとサイショウがいっていた。おまえももう少し寝ていろ」
 ヤォは腹を押さえて横になった。
「大王。……あのヤローはどうなったんですか」
「おれがまっぷたつにぶった切ってやった」
「よかった。おいら、なにも考えずに飛び込んでいったから──」
「考えるバカがいるか。おまえのおかげでパォは助かったんだ。……いや、パォひとりじゃ済まされなかったかもしれない。おまえがみんなを助けたんだ。もっと誇りを持て」
「でも、おいらは結局なにもできなかった」
「そういうのはな、名誉の負傷っていうんだ。覚えておけ」
 サイショウを呼んでくると、美猴王は出ていった。「サイショウはどこにいる。ヤォが目を覚ましたと伝えてくれ」と誰かに言付けているのが聞こえる。
 若いサルには悟空の言葉が耳に入らず、自分のふがいなさに涙した。任された洞天を守ることができす、子供たちを連れ去られ、魔王に敵討ちもできなかった。自分のしたことといったらパォの身代わりになったこと。ただ、それだけ──。主の留守を護る者が、身内の命を救っただけとはあまりにも情けなかった。
 サイショウの気配を感じ、ヤォは慌てて涙を拭った。
「どうだ、調子は? 痛いってのはなしだぞ。それは正常な反応だ」
 冗談を言うサイショウに笑いを返した。目にたまった涙を見てサイショウはいった。
「痛むのか?」
「痛いにきまってるじゃんか。あんなに太い鋼が貫通したんだもん」
 サイショウは泣いている理由を尋ねはしなかった。様々な術を手にした強靱な悟空ならわかりもしないだろうが、サイショウには思うところがあった。それに、あのことに気づいたのかもしれないとも思った。
「ヤォ、おまえに教えたいことがある」
 初め、ヤォにはいってることが理解できなかった。なぜ治癒の法を教え込まれるのだろう。病に伏して暇をもてあましているからだろうか。
 だが、回復して動けるようになるにつれ、いやが上にもわかってしまった。魔王から受けた矢が重大な筋を切ってしまい、障害をおってしまったのだ。もう、実戦に加わることは不可能だ。はっきりとサイショウに通告されると、ヤォは毎晩泣き、すべてのことにおいてやる気を失っていた。
 涙もかれるころ、サイショウは再びヤォのところへやってきていったのである。
「確かに、おまえは敵をあやめることはできないかもしれない。だが、味方の命を救うことはできる。それでは物足りぬか? おまえは命を救ったわたしを尊敬できないというのか」
 ヤォはハッとなって、忘れていた何かを取り戻した。
 パォは自分のために命を投げ出した兄をいたく尊敬したし、そのために兄の身体を負傷させてしまった弱い自分を呪ったが、いつまでも嘆いてばかりはいなかった。毎日武道にいそしみ、何かあったら今度は自分が兄を助けるのだと、今ではヤンクゥと剣を交えるまでになっている。
 ところが自分ときたらどうだろう。せっかく助けてもらったこの命、ただ無駄に毎日を過ごしてはいないか? 今の自分にできることといったら、サイショウの技術を受け継ぐことではないのだろうか──。
 目に輝きを取り戻したヤォを見て、サイショウはホッと一息ついた。なにしろ、心の治癒法は諸師先輩方々誰も教えてくれなかったから。
 それからというもの、すっかり心を入れ替え、誰の目から見てもヤォは元気を取り戻したようにみえた。本来、一本筋な奴である。、不自由な足でしつこいほどにサイショウにくっついて歩き、ことごとく技術を盗んだ。やがては立派な僧侶になっていくのだが、それはさておくとしよう。(*13)

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