■7
 白虎の通った形跡を見逃さないように気遣いながら、春枇は木々をすり抜け坂を上る。沓杷の姿はとっくに見えなくなっていた。後ろは振り返らない。柚が、空蝉ごときに後れをとることなど考えられない。
 あれが、白虎。ちらりと見えた姿を思い出す。悪食、と柚は言っていた。けれど、玄武が話していたのはちょっと違う。思い出す。白虎は、魔神を喰らうのだ。自らよりも大きな魂を好んで喰らう。それだけ攻撃的で、手強い。
「来るな」
 はっきりとした制止と、低いうなり声。ほぼ正面だ、わずかに右。何本か木の向こう、白い影が見えた。
「沓杷」
 白い着物の後ろ姿の向こうに、白い大きな虎の姿。
「抜かったわ」
 ぐちゃぐちゃと、肉を租借する音が響く。白虎の口に白い棒きれがくわえられていた。
「白虎は儂の相手じゃ、手を出すなよ」
 沓杷は左腕を水平に上げ、制止してくる。赤色の滲む右の袖は風にされるがままに揺れていた。
「沓杷、おまえ」
 白虎がくわえているものは、棒きれではない。先が五つに割れているのは指で、それは沓杷の右腕だ。
「気にするな。取り返せばまだ生える」
「取り返すって、喰われてるぞ」
「儂も喰う」
 沓杷が飛ぶ。ほぼ同時に白虎も大地を蹴った。空中で交差する。位置はわずかに沓杷が上。攻撃は白虎が先んじた。右の爪。沓杷の右足が蹴上げて爪の軌道を変える。沓杷の左手から細い糸、交差しざまに糸を巻き付けるが、白虎の左の爪が引きちぎった。
 空中で身をひねり、着地する。白虎も後ろ足を滑らせ向き直った。
「オトナシク クワレルノヲ マテヌノカ」
 堅いものをかみ砕く音。骨だ。肉のひとかけらも残さず沓杷の右腕を平らげて、白虎がうなる。体を震わせ、絡みついた糸をほどいた。
「むう、やりにくいな」
 不満げに唇をとがらせ、沓杷はゆれる右の袖を左手で弄ぶ。体に巻き付けようとしたり結ぼうとしたりしていたが、結局帯の間に押し込んだ。
「オイ ヒトノハナシヲキカヌカ」
「うるさい。弱肉強食なら儂が喰うほうじゃ」
 ぴしりと指を突きつけて沓杷。
「クワレテオイテ ドノクチガイウノカ」
 傍目から見ても、沓杷が喰う方で間違いないと、春枇も思う。けれど右手がないのは致命的だ。攻撃も防御も、片腕では十分にこなせない。
「オマエヲクッタラ ソコノコゾウモ クッテヤル」
 白虎が振り返る。赤い視線が春枇をなめた。口が大きく裂けて、笑みを作る。
「コノマエハ ジャマガハイッテ ハンブンシカクエナカッタガ ニンゲンモウマイカラナ」
 どくん、と。心臓が一度、強く打つ。ひどく恐怖に似ていて、けれど恐れは感じない。
「余計なことを」
 小さな声で、沓杷が舌打ちするのがはっきりと聞こえた。自分の中でなにかが組みあがっていく。白虎に喰われる恐怖ではない。あと薄皮一枚はげれば、自分の知りたかったことが見える、ような。
 春枇の内の答えを待たず、沓杷が地面を蹴った。左手から伸ばした糸を口にくわえ、白虎に向かう。白虎は後ろ足を曲げ、力をためた。
 沓杷が懐に飛び込もうとすると、白虎が後ろ足の力を解放して沓杷の左横へと飛び込むように回り込む。同時に左の爪。沓杷はためらわすそのまま沈み込むよう前進。白虎の爪が黄金色の髪を数本千切った。糸が白虎の後ろ足に絡む。どう、と白い巨体が倒れた。
「余計な口じゃ」
 起きあがろうとした白虎の腕を沓杷の下駄が踏みつける。糸が白虎の口を開かぬように縛り付けた。
 もがく白虎、さらに糸を繰り出す沓杷。あとは前足を縛ってしまえば白虎は身動きとれなくなる。
 白虎が仰向けに転がる。足下をすくわれ沓杷がよろめいた。白虎はそのまま転がり前足で大地を掴むと、縛られた後ろ足で立ち上がった。前足が、爪が沓杷の肩をとらえ、なだれ込むように地面に押し倒す。
 白虎の右の爪が沓杷の左腕を押さえる。左の爪が口を縛る糸を掻ききった。
「クウノニ クチガナクテハ ハジマラン」
 咆吼。腕を押さえる必要のない左の爪が沓杷の胸を踏みつけた。沓杷が顔をゆがめる。
「喰われる側に口はいらぬ」
 短い呼吸を繰り返し沓杷が言いつける。強がりと思ったか、白虎が顔を近づけた。
「コノママヒダリノウデモクッテヤロウカ リョウノアシモ クイチギッテヤロウ ソウスレバ ニドトツヨガリモイエマイ」
 鼻先がつくほどの距離で、にたり、笑う。赤色の薄くなったよだれが口からこぼれる。
「この」
 ぎり、と奥歯をかみしめる。沓杷は黙ったまま目だけを鋭くしてよだれをうける。
「いい加減にしろ!」
 白虎の体が横に吹き飛んだ。
 後ろから飛び込んだ春枇が、握りしめた魔神狩りで白虎を横殴りにしたのだ。
「春枇」
 殴り飛ばしたそのままの姿勢で固まっている春枇を見上げ、あっけにとられた様子で沓杷がつぶやく。肩で息をして、たった数十歩分駆けてきただけとは思えないほどの汗だ。
「馬鹿者、遅いぞ」
「手を出すなって言っただろうが」
 春枇が怒鳴り返すと、沓杷は地面に転がったまま脱力して笑った。
「なぜ手を出した」
「馬鹿はおまえだ」
 黙ってみていられるかとか、なんで追ってきたと思っているとか。いろいろ言いたいことはあったが、言えたのはそれだけだった。腰が砕けたように膝をついて、少々乱暴に着物の袖で沓杷のべたべたの顔を拭いてやる。
「儂は喰われるのは好かぬ」
「当たり前だ」
 魚の腐ったようなにおいは白虎の唾液だろう。肉ばっかり喰うからだ、と春枇は内心毒づきながら、立ち上がるのに手を貸そうとして、そのまま沓杷の体を抱えて飛び退く。
 白虎の一撃。
 先ほどまで二人がいた場所を、白虎の鋭い爪がえぐる。後ろ足に絡みついた糸はそのままに、片足で跳んだようだ。しぶとい奴じゃ、と片腕で春枇の首にしがみついたまま沓杷がつぶやく。
「ユルサヌ」
 ひしゃげた顔。赤い瞳から憤怒の色があふれ出す。自分の餌に噛みつかれた怒りだ。
「それはこっちの言うことだ」
 春枇の声が怒鳴り返す。声が、体が震えるのを押さえられない。
「おまえが梅治を喰ったんだな」
 そうでなければ物の怪が狩人の名前など覚えているものか。
「おまえが梅治を」
 死に追いやったのだ。白虎が梅治の半身を食い千切ったのだ。すべて合点がいく。玄武の態度も、違和感も、柚の行動もすべて合点がいく。
「春枇!」
 こめかみに衝撃。
 よろけ、踏みとどまる。目の前がちかちかする。
「駄目じゃ、そんな顔をしては」
 声。腕の中を見ると、せっぱ詰まった形相で沓杷が叫んでいた。そんな顔もするのか、と状況を忘れて思う。
「おぬしは怨んだり憎んだりしては駄目なのじゃ」
「なんでだ。仇だぞ」
 梅治に頼まれた自分でなくて、他の誰が討つというのだ。
「儂がやる。儂にやらせてくれ」
 突き出された手に竜胆が握られている。ずっと沓杷が持ち歩いていた青い花がふとかすんで、本当の姿を現す。
「その、刀、梅の」
 白鞘に収められた刀。
「それで満足してくれ」
 黄金色の瞳がまっすぐ春枇を見上げる。
 ああ、と。なんとはなしにすべてがつながったような感覚を覚える。不思議な安堵感、意識しないまま頬がゆるんで、まだ事が済んでいないこともあって苦笑のようになる。
「おまえ、ひどいな。売ったんじゃなかったのか」
 そんな堅いもので叩かれて、下手をすれば昏倒するところだ。春枇の表情につられて沓杷も少しだけ口の端をつり上げて見せた。
「終わったら、すべて説明する」
 手伝ってくれ、と。刀が差し出される。沓杷を下ろすと、春枇は刀を抜いた。直刃。銘のないそれは譲り受けたときと同じでくもり一つない。
「こやつを喰うのだけは譲れぬのでな」
 刀を受け取ると左腕一本で構える。舌なめずり。喰えば生える。喰うには自ら圧伏するしかないし、喰わなければ沓杷の右腕は永劫そのままだ。
「わかったよ」
 春枇も妖刀を構えた。
 二人が同時に駆ける。先に春枇、構えて走る狩人の後ろに物の怪沓杷はまるで舞うようにつき走る。
 白虎の咆吼。けれど玄武に比べれば衝撃波はないに等しい。身をかがめ、そのまま突進する。春枇は左足で地面を蹴って白虎の右へと回り込む。白虎は糸が絡みついたままの後ろ足で地面を踏み、左へと体を曲げる。襲い来る右の爪を妖刀で受け止める。
 はじかれないように重心を前にずらすと脇腹に痛みが走った。ぴりと裂ける感触。長くはこらえられそうにない。春枇は奥歯をかみしめる。
「ヨワイナコゾウ アラガウナ」
 つば競り合いする春枇と白虎に影が落ちた。沓杷が白虎の背中に舞い降りた。振り落とそうと身震いするのをものともせず背に立ち、逆手に持った刀を振り下ろす。
 白虎の絶叫。
 刀が白虎の喉を差し貫いた。しめった悲鳴は長く続かず、吐血が白虎の口を塞ぐ。
「おぬしが喰われる方。言ったとおりであったな」
 冷えた声。沓杷は笑っていたが目はうっすらと細められて熱を帯びて輝いている。完全に獲物を見る目だ。ぞくりとうなじの毛が逆立つのを感じて、春枇は妖刀をひいて大きく飛び退く。
「イッタイイチナラ オレガカッタ」
「喰われてしまえば勝利も残らぬ。生きねば強がりも言えぬ」
 吐血とともにはき出される言葉を、沓杷は笑った。楽しそうに、高らかに。
 残った左の手指から、糸が流れ出て白虎を飲み込む。次第に白い巨体は見えなくなり、うめきのような呪詛のようなこの声も、聞こえなくなった。
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