■3
 突然訪れたその日は、なんて事のない日だった。
 熱くもない、寒くもない、ただ、晴れた日。
 見上げる空は青くて高くて、こんな日に死んだら天国に行くのは大変そうだ、そう、思った。
 ――こいつを、頼むよ。
 白鞘に収められた刀を、呆然と眺めている自分がいた。ただ広がる野原に立ちつくす自分と、その正面に梅治。見慣れない白い着物を着て、まっすぐに差し出された左手が、刀を握っている。
 左右を見回す。なにもない、誰もいない。風が吹いて、一斉に波うつ草原以外は、動物も植物もなにもない。
 梅?
 梅と呼ばれて親友は、ちょっとだけ困ったように笑った。笑い事ではない、どういう事だ。問おうとするが体がうまく動かない。声が出ない。払いのけたいのか受け取りたいのか、右の腕が途中まで上がって止まった。梅治が刀を抜くところなど見たことがないが、それでもその刀は、いつの頃からか大切に、肌身離さず持っていた代物だ。それが今、目の前に差し出されている。
 ――春枇。
 親友は困った様子を消して、やんわりと、微笑んだ。
 ――頼んだよ。
 理解できないままの春枇の手のひらに、白鞘の感触。刀はひどく、重い。
 なにを?
 なにを頼むというのか。この刀で、なにをすればいいのか。問いかけることができないうちに、梅治は踵を返す。風が一つにくくられた髪をなびかせると、白い首筋が見えた。
 梅。
 呼び止める。首から背中には大きな起請陣が刻まれていたはずだ。玄武の魂の形。長い髪はそれを隠すためだったはず。どうして、玄武の起請陣がない。
 梅治は、春枇の声など聞こえない様子で草原を歩き始める。歩き出せない春枇を置いて、一歩、一歩、と足を進めるたびに、ぐず、とその輪郭が崩れた。
 息をのむのと悲鳴とが喉で詰まって痛みを生む。喉を押さえる。梅治の左の腕と足が、腐って落ちた。白かった着物が黒ずんで、じわりと赤みを帯びていく。それは、あの時春枇が見た、梅治の最期の姿だ。

「春枇さま!」

 頭の中が真っ白になった。気を失った、と思ったがそうではなかった。いや、夢の中で気を失えば、現実世界で目を覚ますということなのかもしれない。自分の呼吸がうるさい。
 目を見開いているのに気がついて、一度強く目をつむる。見覚えのない天井。梅治の家の天井より低くてきれいだ。どこの屋内、いや宿だろう。こざっぱりとして、文机と、火の入った行灯が一つあるきりで、八畳程度の部屋が妙に寒々しい。
「ゆう?」
 口を開くと急に渇きを覚えた。喉に張り付くような感覚、渇きが過ぎて、喉に痛みさえ感じる。
「申し訳ありません。大きな声を出しました」
 視界にちらりとうねったしっぽが入り込む。視線を向けると、黒猫が布団を避けて、顔の脇にちんまりと座っていた。前の足と腹とにさらしを巻いている。
「夢を見た。梅の、最期の。梅は」
 左の手で顔を押さえる。なぜ、夢にまで見るのだろう。梅治の最期の姿。
 半身を失い失血で意識が混濁した状態で、屋敷の入り口に倒れていたのを見つけたのは春枇だった。狩人でなくとも物の怪の仕業だとわかる傷口。ずたずたに噛み裂かれた左腕と左足は肘と膝から先がなかった。着物の裂け目は赤黒い液体で埋まっていて、元が何色だったのかさえわからなかった。あの時も、春枇は尋ねた。誰にやられたのか。玄武の起請陣はどうしたのか。この刀でなにをしろというのか。
 梅治はすべての問いに柔らかく笑んで、首を振った。
 なにも、教えてくれなかった。
 だから、なにも教えてくれないのだと思った。梅治はよく言っていた。殺された狩人のために仇討ちなどしてはいけない。狩人は、怨んだり、未練に思ったり、悔しさを募らせたりしてはいけない。たとえば自分が物の怪に喰われたとしても、春枇は決して仇討ちなど考えてはいけない、と。
 そのたびに春枇は深く意味を考えることなく頷いていた。
 だって梅治が物の怪に喰われるなんて、思ってもいなかったから。
 布団の中で拳を握る。なんであの時は頷いたりできたのだろう。仇討ちをしてはいけないなどと。いくら梅治の言葉でも、きけるわけがない。
「心配しました」
 吐息ともつかない今にも泣き出しそうな声が思考に割り込んだ。手をどけると、先ほどと変わらぬ姿勢で猫又が春枇を見ていた。猫の表情の区別はつかない。が、長いつきあいだ、感情の滲む言葉に表情を垣間見ることはある。春枇は目を閉じると深く息を吐き出した。心配してくれるひとがいて、それを感じられる自分は生きている。
「大丈夫か?」
 今更、だったが。柚の体にまかれたさらしは清潔で、手当が真新しいのは見て取れる。黒の体にまかれた白はやけに目立って、痛々しかった。
「これは、あの女狐が大げさなのです。わたくしは、大丈夫」
 視線に気が付いた様子で、柚はさらしの巻かれた足をちょっと上げてみせた。そのまま黙り込む。記憶にない柚の姿に、少しだけ混乱する。
 すぱん、と。
 思い切りよくふすまが開いて、春枇は布団を跳ね上げ飛び起きた。
「……飛び起きたりすると傷が開くぞ?」
 大きな風呂敷包みを抱えた女が、襖を開けた姿で驚いたような顔をしてみせた。激痛に声も出せずにうずくまる春枇をよそに、当然のごとく部屋に入り込んで、正座する。
 女の口調は、心配という色からはほど遠かった。人の顔を持つというのに柚とは大きな差だ。落ち着いた、といえばそうとれなくもないが、どちらかというと間延びした、という印象。無地だが上質そうな練り色の大振り袖。頭には狐の面を乗せていて、時折落ちそうになるそれを手で押さえている。黄金色の髪は短く、顔立ちは中性的で、幼ければ少年と間違えられることもありそうだ。年齢は春枇より上なのは間違いない。二十歳過ぎ、二十五までは行かないだろう。髪と揃いの黄金色の瞳を春枇に向けていたが、女はふと小首をかしげた。
「大丈夫か?」
「不作法が過ぎます! 閉めなさい!」
 大丈夫なわけがあるか、言い返す前に控えていた柚が背中の毛を逆立て出しかりつけた。あー、と面倒くさそうな声を上げて、渋々ふすまに手を伸ばす女。座ったまま手だけを伸ばすだらしない姿勢に猫又がぎゃあぎゃあとわめきたてる。
 あの時の女だ。記憶がつながる。玄武退治に割り込んだ、柚が狐と呼んだ、物の怪。
「儂は命の恩人じゃぞ? もうちょっと、言い方というものがないのか」
「なにが恩人ですか。あなたが邪魔をしなければ、春枇さまがちゃんと玄武を退治いたしました」
「妖刀も満足に使えぬ奴、喰われて終いじゃ」
「恩人恩人と、恩着せがましいのですあなたは」
「ちょっと待て」
 自分を挟んで言い合う物の怪を制する。二人分の視線を受けながら、春枇は自分の体を見下ろした。綿ではない、軽い布団。裸でいる自分の体には腹だけでなくそこら中がさらしでまかれ、あるいは油紙が貼られて、隙間から起請陣が見え隠れしていた。
「儂が縫ってやったんじゃぞ。礼の一つもないのか?」
 不満げに唇をとがらせ言う女。同じように不満げに、けれど言葉なく口をつぐむ柚。言いとがめないのは不本意ながら女の行為が間違っていないという証でもある。
「礼?」
 助けられた?
 わけがわからない。春枇は自分の体を見下ろしながら思い返す。この女、玄武退治に割って入ったのではなかったのか? 柚を襲い、刀を奪い、玄武の体を引き裂いた。
「玄武は?」
 女は細い指を顎にあてた。そのまま上を向いて視線を逃がす。わずかな間逡巡して見せた。
「喰った」
「喰った?」
「うむ、うまかった」
「刀はどうした」
「あれは売ったぞ」
「売った?」
「あれはまったくよい刀じゃな」
 至極当然といった体で女が深々と頷く。ぴしりとなにかにひびが入るのを春枇は感じた。のど元まででかかった声を押し込んで、奥歯を噛む。怒鳴り散らしてしまいたいのに、なにから怒鳴っていいのかわからない。
「ああ、ほれ、着物の替えじゃ。前のは血糊が落ちぬから処分したぞ。宿代も払ったし、あとはしっかり養生して傷を治すことじゃ」
 結果、女が風呂敷包みを示して勝手なことをいうのを、黙って聞かざるをえなかった。布団の上で握りしめた拳が震える。
「なんで勝手なことをした。あれは俺が」
「世の中すべて弱肉強食じゃ。おぬしと儂では儂が喰う方じゃもの」
「玄武の話をしてるんじゃない」
「刀のことか? それだっておぬしが喰われれば儂のもの」
「俺は物の怪じゃない!」
 声を荒げたところで眩暈に襲われ、目をつむる。傾いた体を支えられる。「安静にといったじゃろうが」耳元でのつぶやきに、相手をふりほどこうと振った腕は空を切った。
「なぜ、こだわる?」
 女が問うた。痛みと、女とは思えないほどの力で押さえつけられて、春枇は腕をふりほどくのを諦め、唇を噛んだ。
「俺は――」
 物の怪を退治するのに普通の武具が向かないのはわかっている。けれど、梅治から託された刀だからこそ、白鞘の刀にこだわったのだ。妖刀魔神狩りではなく、形見の刀で玄武を討つことが梅治の遺志を継ぐことだと思っていたし、なによりの餞になると思っていた。
 うめくよう、肺の空気を絞り出すようにして、言う。
「玄武は、仇だ。玄武を取り込んだならおまえも、同じだ。おまえを殺して、玄武を討つ」 
 奥歯をかみしめる。梅治が自分に頼むと言ったとき、こんな結末になるとは思っていなかっただろう。こんななにもかもわからなくなって、仇も刀も横取りされるような結末は、たとえ梅治がよくても、自分は望まない。
 深くため息を吐く音に我に返る。
「できるものならな、かまわぬが。あまり気を高ぶらせるな。体に障る」
 春枇が首を巡らせると、女は立ち上がるところだった。春枇と女との間に置かれたままの風呂敷包みへと視線を向ける。女の姿は、微笑んでいるのに、明かりのせいなのか影が落ちてひどく寂しげだった。
「まあ、今日は一緒にいてやるからの。なにかあったら呼ぶことじゃ」
「なにを勝手なことを」
 背を向ける女を呼び止めようとすると、女はふすまに手をかけたまま、振り返った。
「沓杷(くつは)じゃ」
 うっすらと笑った表情は、先ほどまでの柔らかさは欠片もなく、冷ら笑いに近かった。どこか嫣然として、完全に見下したような笑い。
「仇なのであろう? 名前も知らぬのでは張り合いがなかろうからな。まあ、儂はおぬしになぞ討たれはせぬが」
 捨てぜりふを吐いて、ふすまの向こうに消える。
 どういう意味だ!
 怒りが過ぎて、声が出ない。おまえは儂より弱いのだと、直接言わないのも腹立たしい。
 握りしめた拳が震える。春枇は残された風呂敷包みをひっつかむと力任せにふすまへと投げつけた。
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