■4
 風の流れを感じて、柚は目を開けた。いつの間にか眠ってしまったらしい。部屋の明かりは消えているが、わずかに開いた障子の隙間から月明かりが差し込んでいる。夜半は過ぎた頃合いか。前足を立てて背を伸ばす。春枇は静かな寝息を繰り返していた。前足を額に乗せてみる。少し熱っぽいがよく眠っている。起こす必要はないだろう。
 深く息を吐く。物の怪となり春枇について歩くようになって、この仕草はだいぶすることが多くなった。ため息という。だいたい春枇という人は、狩人であるにもかかわらずすぐ感情的になり、猪突猛進で、見ているこちらがはらはらする。
「忠告しても、聞いてくださいませんしね」
 ひそり、とつぶやく。
 梅治の死についてもそうだ。梅治という狩人は、自らの死に際にさえ仇討ちをしろなどとは言うまい。特に、おなじ狩人である春枇には。あの男は、狩人として生きることの危うさをよく知っていた。
 なのに春枇という人は仇討ちをしなくてはならないと、凝り固まっている。口ではなんとでも言える。真実を知りたいだけなのだとも。けれど、誰かを仇にしなければ収まりがつかないのだろうというのは、態度でわかった。春枇の気持ちも、わかる。梅治という人は春枇にとって、特別な存在だったのだから。
 わたくしだって、あなたが誰かに殺されたなら。
 眠る春枇の横顔を見ながら、柚は考える。
 その誰かを許すことはできないだろう。必ず、同じ目に合わせてやる。それが、春枇の意志に反するとしても、だ。失ったことを無視できないのならば、埋める行為に没頭する。残された者とは、得てしてそういうものなのかもしれない。
 きし、と。わずかな音をとらえた耳がぴくりと動く。板張りの床の鳴る音だ。
 人がいる?
 柚は音もなく腰を上げるとあたりを見回した。宿とはいえ、この時間に徘徊しているものがいればそれは客でも不審なものだ。
 廊下に出るふすまが少しだけ開いている。風の流れを作ったのはここだろう。音のないままふすまに近づいて、隙間から顔を覗かせる。廊下も部屋の中同様に暗かったが、隣の部屋の前あたり、一つだけ開けられた雨戸の部分から、切り取られた月の光が差し込んで床を照らしていた。
 柚は一度部屋の中を振り返って春枇の様子に変わりがないことを確かめると廊下へ出た。
 薄い月明かりの下でも猫の目には十分だ。床を鳴らさないように進み、雨戸に身を隠して中庭を覗く。
 あの女。
 思わず漏れそうになった言葉を飲み込む。
 沓杷と名乗ったあの女だ。黄金色の頭に面を乗せた姿など、見間違うものではない。
 なにをやっている?
 見つからないように息を殺しながらも、雨戸の影から身を乗り出す。女は中庭に真ん中に、赤子でも抱くような姿勢で立っている。あやすような様子はないが、ひたすらに慈しむように。
 目をこらす。白の振り袖の下から細長い白いものが見え隠れしていた。刀の鞘だ。春枇の、梅治の形見の、刀。
 なぜ、あの女が持っている?
 売り払って金に変えたのではなかったのか。その金で春枇の着物を買い、宿代を払ったと言ったではないか。春枇には不釣り合いだと言い張って奪った刀を。それが。
 なぜ、泣く?
 わずかな月明かりを跳ね返して、大粒のしずくが落ちていく。声もなく、泣いている。
 雨戸の影に身を潜めて、ぺたりと床に尻を落とす。柚はわずかな後悔を覚えて視線をうしろへと向ける。春枇の眠る、部屋の方へ。
 春枇に知らせるべきだろうか。どう報告する? 女狐が形見の刀を抱いて泣いていた、などと、どう伝えても春枇が沓杷に突っかかっていくのは火を見るよりも明らかだ。あの怪我で、それはさせられない。春枇には知らせずに取り返す、それがいい。
 ならば、今は絶好の機会だ。たとえあの女に事情があるとしても。刀を持っている今ならば、とぼけることもできまい。
 雨戸の影から出ようとして、ふと、動きを止める。
 いや、動きを止めざるをえなかった。ぞくりと背中の毛が逆立つ。
「誰です」
 振り返る。廊下に続く闇の中に、なにかがいる。
 目をこらせば見えるというものではなかった。白いもやのようなものが、じわ、となにかの形をとろうとしている。大型の犬、いや、虎だろうか。
 柚はいつでも飛びかかれるよう四肢をたわめた。空蝉だ。物の怪の魂の切れ端。肉体を持たない空蝉は、物の怪本体の目となったり、術を抱えて敵へと送られたりする。多くはもっと小さく輪郭もはっきりしないものだが、こんな大きさの空蝉は初めて見た。
「なにをしに、ここに現れたのです?」
 警戒心を強めて聞く。誰の空蝉で、なにが目的なのだろう。目的? 柚は目の前の空蝉から視線を放さないまま、一つの思いにたどり着く。
 まさか、春枇さまを?
 物の怪が狩人や僧を狙うとき、空蝉を使うのは常套手段だ。
 春枇の眠る部屋へと視線を移す。ちょうど空蝉と柚の間、ふすまがわずかに開いている。
 空蝉は、虎の姿で前足で床を掻くだけで、答えはない。まるで言葉を理解しているそぶりがないことが、柚を焦らせる。
 空蝉は、本体の名前を呼べば退けることができる。けれど誰の空蝉だというのだ。いくつもの物の怪の名を考えながら、周囲の気配を探る。本体が近くにいるなら空蝉にばかり気を取られていては足下をすくわれる。と、ふと、柚は一つの可能性に気が付いて、おそるおそる、口を開いた。
「沓杷?」
 違った。
 空蝉はこちらをじっと見つめるだけだ。いや、白のもやの奥、赤い瞳が輝いた。
「クツ ハ ナゼ シナ ヌ?」
 濁音の混じる低い声。うなり声に紛れて、とぎれとぎれの発音はひどく聞き取りにくい。
「わたくしは、誰にも使役されない。あなたに答えることはなにもない」
 身を低くしたままじりと空蝉に近づく。大きいとはいえ所詮は空蝉。力負けすることなどないだろうが、騒ぎにせずにというなら違ってくる。空蝉の目的が春枇ならば、争えば必ず巻き込むだろう。
「カリウ ド コ ダ?」
 それだけは絶対に駄目だ。強く思う。口に出しても意味がないことはわかっている。空蝉が一歩、足を踏み出す。春枇の眠る部屋へと。
「やめなさい、白虎」
 とっさに脳裏に浮かんだ名前を、叫ぶ。ぐるりと首を向けた虎の赤い目が柚をとらえる。大きく裂けた口が、にやりと弧を描いた。
 力ずくで押さえるしかない。覚悟をきめ、一歩足を出すと、すうっと、白い姿が消えた。まるで霧が晴れるように。
「……当たり?」
 静寂。しん、と静まりかえって自分が取り残されてしまったような心許なさ。
 白虎? 柚は考える。有名ではないが、名前は聞かないでもない。悪食にして貪食、人、物の怪、動物、植物、霊の宿る者すべてを食い散らかす物の怪だ。
 ぶるりと体が震える。恐怖は遅れてやってきた。
BACK      NEXT

WORKS TOP