■2
 そもそも物の怪の「もの」とは霊のことだ。善も悪もない。それが悪意を持つようになると、百の害ありと言われる物の怪となる。取り憑き、呪い、喰らい、疫病をはやらせるなど、物の怪の害を御するためなら禁忌を犯すこともやむなしという考えは、いずれでてくる事だったのだろう。
「いないな。玄武のやつ」
 春枇は竹の間を慎重に歩く。竹と竹の間は両手を広げて歩けるほどだが、日が落ちてからは五、六本先の竹の影に人がいても見逃してしまいそうだ。柚が小刻みに耳を動かしながら足下を行く。
「結界は破られていませんから、どこかにはいると思いますが」
「探すとなると、広いな」
 春枇は一度足を止めると、ぐるりとあたりを見回した。竹と、竹の影とが薄暗い闇の景色に沈み込んでいる。
 右足でわずかに地面を踏むと、甲に刻まれた起請陣が光を帯びる。その光に引き寄せられるように、ほの青い固まりがふたつ、浮かび上がった。物の怪鬼火が周囲五間ほどを弱い光で照らし出す。「まあまあ」と猫又が毛ほども表情を変えずに言った。どうせ鬼火が「行灯代わりによびだすな」とでも言ったのだろう。火花を散らしながら周りを飛び回るのを、春枇は適当に手を振って追い払う。
「春枇さま。本当に玄武が梅治(うめじ)さまを食べたとお思いですか」
 尋ねる柚の口調は重い。春枇は歩き出した。
 梅治。春枇が、唯一親友と呼べた男。同時に狩人としての師でもある。その男に使役されていたのが物の怪玄武。梅治の死と同時に行方をくらました。
 使役獣が狩人を喰うことはまずない。狩人が死んだ瞬間に使役獣も命を落とすからだ。だが、梅治は死んで玄武は生きていた。それに春枇と玄武は顔なじみなのだ。
「玄武が梅を喰っていないのならば、俺から逃げる必要はない」
 逃げるのは、玄武が梅治の死に関わっているからではないのか。梅治が使役していた物の怪がそんなことをするなど考えられないが、腹の底にずっとぬぐいきれない不安感が居座っている。
 確かめればいい。玄武と話せば、すべてわかるだろう。春枇は幾度となく考えたことを、もう一度、意志を固めるように繰り返す。
 柚がぴたりと足を止めた。耳を伏せてしっぽを立てて、正面に向かってうなる。
「どうした?」
「なにか、来ます」
 黒猫を振り返った春枇は、向き直りかけて刀の柄に手をかけた。鬼火が前と後ろ、二手に分かれて飛んでいく。
「後ろだ」
「前です!」
 柚は前を向いたまま威嚇音を発している。春枇は地を蹴って、柚を飛び越す。今来た方から鬼火に照らされて、なにかが闇夜からにじみ出すように実体化している。
 目をこらす。亀のような甲羅、亀よりも長い手足、蛇のような首、小さな顔、人の身の丈の倍はある巨体が、音をたてて竹を押し倒した。一本が、春枇のすぐ脇に倒れてくる。
 いにしえの大国にそんな姿の神がいたはずだ。だが目の前に現れたのは神ではない、疑惑の物の怪。
「玄武」
「ダレカトオモエバ ハルビデハナイカ ヒサシイナ」
 玄武の声は地を這うように低く響いて、竹を揺らした。春枇は無言のままわずかに腰を落とす。玄武がびゅうと首だけを伸ばして春枇に顔を近づけた。息が触れるほどの距離で頭からつま先までなめるように見て、得心したように数度頷く。
「ハハア ケッカイヲハッタノハ ヌシカ」
「そうだ」
「ナゼ ジャマヲスル? アイカワラズ ワカラヌコトヲスルナ」
 首をもどして玄武が音をたてて息を吐いた。人だったなら肩を落としてため息か、憤慨して気を吐いた、そんな様子だった。なにを憤るというのか、春枇は奥歯をかみしめる。
「わからないのはこっちのほうだ。なぜ逃げる」
 単純な感情に唇が震えるのがわかる。聞こえなかったのか、明かりの奥で物の怪はわずかに首をかしげた。
「イッタイワシニ ナンノヨウダ」
「梅を喰ったのはおまえか」
 たたきつけるように叫んだ声は響きもせず、静寂に飲み込まれる。
「ヌシ ウメジノ アダウチニキタノカ」
 なにがおかしかったのか、蛇の顔でありながらそれとわかるよう、玄武は喜色を浮かべ、巨体を揺らした。愉悦の声に刀を握りしめる手に力がこもる。押さえきれなかった感情に反応するよう起請陣がじわりと光を帯びる。
「イツノマニ ソンナ イッパシヲイウヨウニナッタ」
「はぐらかすな!」
 起請陣から物の怪を呼び出す。木霊、鵺。
 木霊と鵺が合わさって、幻の春枇を作り出す。幻はすぐさま竹をすり抜けるように前進し、玄武との距離をつめた。幻の自分に続いて春枇も玄武へと詰め寄る。幻は玄武の振るう右腕を、風に舞う木の葉のように回避した。代わりになぎ倒された青竹が耳障りな音をたてて倒れる。
 春枇が幻の肩を蹴って玄武の頭上へと飛び出した。振り下ろした右の一撃で幻をたたきつぶした玄武と目が合う。行灯に徹していた鬼火が一瞬、強く輝いた。
 抜刀。切っ先を下に、刀を振り下ろす。
 薄い刃物の、風を切る音。目くらましにひるんだ玄武に、体重を乗せた切っ先が刺さる、わずかな手応えに唇が弧を描く。
「春枇さま!」
 左に体勢が崩れた。黒猫に左の袖が強く引かれ、刀が手から離れる感覚。ぶれる視界に、視線だけ刀を追うと、刀が玄武共々、糸の束に絡め取られている。
 糸?
 確認するまもなく左の肩から地面に落ちる。土の上を転がって、立ち上がろうとしたところで玄武の絶叫にも似た咆吼。衝撃波になすすべもなく再度地面を転がって、ようやく立ち上がると体ごと糸の出所に向き直る。
「誰だ!」
「おぬしが持つには過ぎた代物じゃな」
 誰何の声に答えるよう、声が響いた。一人つぶやくような声量だが、しっかりと耳元に届く。絡め取られた刀だけがもがく玄武の目から抜け、春枇の視界を横切った。かなりの距離だ。鬼火の明かりの外。歩きながらいるのだろう、次第に姿がはっきりしてくる。使い心地を確かめるよう、刀を振るう影。ひょう、と細い風を切る音がこちらまで届く。
 女、だ。鬼火の青白い光に姿が浮かび上がる。白の大振り袖、黄金色の髪に、狐の面をつけている。面を押さえるためにまかれたさらしは、目の部分を覆っていた。
「刀を返せ」
「返して欲しくは、奪ってみせよ」
 面のせいで表情はわからない。が、女は笑ったようだった。からかうよう、刀を持ったまま、両腕を広げてみせる。
「ジャマヲスルナ」
「いたずらが過ぎるぞ、玄武」
「コレハ ヌシノコトバトモオモエヌ」
 右の前肢と体とを糸に絡め取られた姿で玄武がうなる。自由になろうともがくが、糸は細いながら引きちぎることは出来なかった。じたばたと暴れる玄武の巨体が、青竹を押し倒し、踏みつける。
「春枇さま。狐です」
「柚」
 柚が春枇の足下に駆け寄った。姿勢を低くして油断なく女の様子をうかがっている。
「知り合いか?」
「いいえ。けれどあの二人は」
 左に玄武、右に女、間に春枇。互いが互いを牽制するよう同じ距離を置いて三角を作る。三つ巴の中に数本の竹が立ちふさがっていた。
「助けに来たとも思えないが、このままだと共食いされる」
「糸なら切断できます」
 柚を見下ろす。すでに一戦やらかした様子で、わずかに見えた金色の瞳がぎらぎらと輝いている。絹のような光沢を持つ糸が数本、黒猫の体に巻き付いていた。
「あの女は後だ。まず玄武を圧伏する」
 玄武が動きを封じられている今はまたとない好機だ。刀にこだわる気持ちはあるが、玄武を討つことがまず第一。柚も同意する。
 女が動いた、重さを感じさせない動きで竹をすり抜け、あっという間に春枇の懐へ入り込む。声にならない悲鳴を上げて、春枇は上段からの太刀筋を間一髪左に回り込むようによける。
 左手を背後へ。春枇の左腕に刻まれた起請陣が輝いて空間に亀裂が入る。
 抜刀。
 青白い妖気をまとった刀が姿を現す。妖刀魔神狩り。魔神と呼ばれる上位の物の怪の魂を好んで喰らう、刀の物の怪。それを思いきり振り回す。女が後ろに飛び退きざま、左の指から繰り出す糸を、柚の爪が切断した。
 妖刀を振り回した反動で体を反転させて玄武の間合いへと走る。玄武が自由になる口から咆吼を放つ。衝撃波。妖刀を斜め下から振り上げると、妖刀の青白い刃が衝撃波を切り裂いた。春枇の背で衝撃波をかわした柚が、春枇を追い抜き玄武に飛びかかる。
 玄武の懐に飛び込もうとした春枇の視界の隅に、きらめく白が映る。
 糸だ。反射的に身構える、が、背後から追い抜いていく糸の狙いは春枇ではなかった。
「柚!」
 叫ぶ。手は届かない。玄武の目前、黒猫は空中で身をひねって、追ってくる糸を爪で切ろうとしたが、あっという間に糸に飲み込まれる。地面を蹴る、草履の裏を滑らせながら無理矢理方向転換し、繭にされ引きずり落とされようとする小さな体に手を伸ばす。
 腹に、鈍い、衝撃。
 息が詰まる。灼熱感を伴って、痛みが背中に突き抜ける。
 背中から倒れそうになるのをこらえ、春枇は抱き寄せた繭につながる糸を斬る。足に力が入らない、膝をつく。
「やりすぎじゃ」
 女の声。なにがやりすぎなのだろう。前屈みになった視界に赤く染まった繭が映った。腹を押さえた手になまぬるい感触。自分の腹から血が出ている。なににやられた? 揺れる視界に玄武と、繭糸を突き破って柚はなにか言っているようだ。顔を上げているのがつらい。そのまま前に倒れ込む。
 玄武の赤く汚れた前足が視界に入った。
 悟った事実はどうでもよくなった。視界が色を失って、音が消えていく。まぶたがひどく重い。
 潮騒の音の混じる静寂に、玄武の悲鳴が割り込んだ。絡みついていた糸が、硬い表皮を冗談のように軽々と引き裂いていく。
「春枇さま――」
 音が遠のく。だから言っていたじゃないか。春枇は暗くなる視界の中で思い出していた。仇討ちなんてするものじゃない。
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