■1

 逢魔が時。
 春枇(はるび)はさらしをほどく手を止めて日の沈む方を見る。故郷の村も、親友の墓も、はるか遠くというわけではない。竹越の夕日までの距離と比べればひどく近く、遠く感じるのは自分の心のせいだ。
「春枇さま。竹林一帯、封じましたけれど」
 足下で控えめな声があがる。二股に分かれたしっぽを左右にゆったりと振る姿は、物の怪、猫又。柚(ゆう)という名前を持つが、春枇がつけたものだ。
「これで邪魔は入らない。今日のうちに決着をつけよう」
「助けも入りません」
「玄武も逃げられない」

 春枇は白鞘に収められた刀を着物の帯に差す。柚はもの言いたげに春枇を見上げていたが、結局うつむいて「はい」と答えた。
「覚悟の上だ。助太刀はいらない」
「わたくしがおります」
 柚の固い声に春枇はわずかに表情をゆるめ、深く頷く。それから左腕にまかれたさらしを取り去った。現れた刺青の上から、左の腕を握りしめる。
 刺青ではない。黒に近い単色で肌に刻まれるそれは起請陣と呼ばれる禁忌の法だ。狩人の証。梵字に似た数個の文字と、文字を繋ぐ複数の曲線とで成り立ち、個に唯一無二の形を持つという。魂の形を平面で表したものと六百年以上前の書物にも記録があるが、それを交換することで相手を使役しようという考えが生まれたのはせいぜい八十年前のことだ。

 物の怪を退けるには、僧の調伏法を除けば、起請陣を用いて物の怪を使役する他はない。けれど起請陣は物の怪と運命をともにする危険を伴う。使役する物の怪が傷つけば、主である狩人も傷を負う。狩人が死ねば物の怪も死ぬ。それだけの危険を冒しても、退治しなければならない。
 春枇は、深く吸い込んだ息を一度腹にためる。
「いくぞ」

 物の怪退治の始まりだ。

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