『もうすぐだよ』
『もうすぐだよ』
『もうすぐ彼は死んでしまうよ』
魔法使いは言いました。
「笑っておくれ私のために」
「歌っておくれ私だけのために」
「私だけを見て、私のものになって欲しいのだよ」
「分かりました」
吟遊詩人は代償を支払うことに同意しました。
けれどもその心は、今も亡き人のものでしたから、魔法使いにもう一つ頼みをしました。
自分に魔法をかけて欲しいと。
どうか、私の心をあなたのものにしてください。
あの人ともう一度会える日まで、私があなたの望みを叶えられるように。
その日まで、私があなたを愛せるように。
『もうすぐだよ』
『もうすぐだよ』
『もうすぐ彼は死んでしまうよ』
『見てごらんよあの青い顔』
『見てごらんよ痩せ細ったあの身体』
『ほらごらん、歩くたびにふらついている』
『もうすぐだね』
『もうすぐだね』
『もうすぐ彼は死んでしまうね』
険しい山の麓の、鬱蒼とした森の奥。
この国一番魔法使いが住むその屋敷では、今日も美しい歌声が響きます。
湯気を立てるシチュー鍋をかき混ぜながら、魔法使いの最愛の伴侶が歌っています。
きれいな碧の瞳と、結い上げた金色の髪をきらきらさせて、楽しそうに、それはそれは幸せそうに。
書斎の壁は四面とも天井まで本で埋まっています。窓のないその暗い部屋の中で、魔法使いは今日も呪文を唱え終えました。
机に肘を突くと皺を寄せた眉間を揉みます。
「お疲れね」
机の脇の華奢な猫脚の椅子に腰掛けて飾られていた石像が口を開きました。
「ああ、今日は門番は休みかい?」
「どうせ誰も来ないもの。ここにいれば滅多に見られないものにお目にかかれるし」
そう言いながら石像は魔法使いに両腕を差し出します。
意図を訊きもせずに彼は慣れた様子で彼女を抱き上げ自分の膝の上に乗せました。
「それは、私のことかな?」
「ええ、もちろん」
微笑む彼女の腰に片腕を回しながら、魔法使いは空いているほうの手を伸ばしランプを灯します。
石像は笑顔で尋ねました。
「どうしてこんなややこしいことを?」
「さあ、どうしてだろうな、分らないよ」
「自分でしたことなのに?」
「ああ、それが人間だ」
ふうん。
「私には分らないわ」
主の暗い瞳にくすくすと笑いかけて、石像は答えました。
「それでご主人様、綺麗な小鳥が手に入ったら私のことはお見限りかしら?」
「まさか。久しぶりに歌っておくれ……君の声が聞きたい」
石像はその石でできた長い爪でそっと主人の眉間から鼻筋をなぞりました。そうしてお終いに可愛らしく鼻の頭に口付けて。
「それでは、恋に悩む可愛い人に失恋の歌を」
彼女らしい選曲だと苦笑しかけた魔法使いは、しかしすぐに愕然としました。
血も通わないのにどうしようもなくみだらなその唇から流れ出した声は、
その声は、
ハルのものと瓜二つでした。
「やめてくれ」
歌はやみません。
「やめろ」
「あら?お気に召しません?」
「当たり前だろう」
「せっかくあなたの好きな声で歌ったのに」
「ふざけるな。嫉妬でもしているのか?」
その言葉に石像はけらけらと笑いました。
「嫉妬?まさか!血も通わない無機物の分際でそんなことがあるとお思い?」
それにね、
言葉を切ると彼女は魔法使いの首にその冷たい腕を巻きつけました。
「どこに嫉妬なんてする必要があるの?あの子は必ずいなくなる。そう、たとえあなたが魔法を解かなくてもね。だって生き物なんですもの、いずれ必ず死ぬわ。そうすればまた二人っきり」
冷たい頬を擦り付けて耳たぶに唇が触れる近さで。
甘く甘く。
「……やれやれ、私も人間だと言うことを忘れてないか?」
「覚えてるわよ、恐ろしく長生きなご主人様。あなたが人間で、刺せば血の出る温かい体とどうしようもなくややこしい心を持ってるってことは」
「そこまで褒めて頂けるとは光栄だね。」
溜め息をついて、魔法使いは石像に口付けました。
「あなたに私は砕けない」
「ああ、そうだね」
「ずうっと一緒よ?」
にっこりと笑って石像は言いました。
ハルの声で。
「愛してる」