(2)
ありふれた望み
「まったく、少し目を離すとすぐにこれだ。仮にも君は歌う扉だろう?人間の歌に聞き惚れてどうするんだい」
突然聞こえた低い声にハルは慌てて歌をやめました。
音もたてずに扉はいつの間にか開いていて、そこには黒く長いローブを引きずる一人の男が立っていました。
開かれた扉の裏側でくすくすと笑いながら石像が答えました。
「あらごめんなさい。素敵なお客様がいらしてるわよ」
彼女の答えに男は、魔法使いは眉間に皺を寄せたそれはそれは凶悪な表情でハルを見ます。
「何か用があるなら早くしてくれないか。私は忙しい」
ハルは何度か唾を飲み込み、恐る恐る口を開きました。
「貴方に不可能はないと言うのは本当ですか?」
魔法使いはふっと息を吐いて首を横に振ります。
「嘘だよ。そんな人間が居る訳無いだろう。誰にでも出来ることと出来ないことがある」
「じゃあ、じゃあ死んだ人間を生き返らせることは出来ますかっ?」
勢い込んでハルは尋ねました。
「出来ないよ。それは禁忌だ」
「……禁忌」
呆然とつぶやいたハルに彼は教えるように言います。
「分かるかい?禁忌と言うのは――」
勿論、禁忌の意味くらいハルにも分かりました。
「それなら可能なのですね。禁じられてはいても、貴方はあの人を生き返らせることが出来るのですね?」
ハルに名前をくれた人。とてもとても優しかったあの人。
「無理だ」
けれども魔法使いは即座にそう答えました。
「どうして!私、だめなんです!あの人がいないと、もう、」
彼の黒いローブにしがみ付き、潤んだ瞳で彼を見上げ、言い募ります。
「お願いします!」
「出来ないよ」
「いやだ、お願い、会わせて」
高調した頬にを流れる涙をぬぐいもせず、とうとうハルは地面に膝を付き額を魔法使いの靴に擦り付けました。
「お願いです」
自分の服を握り締めて震えるハルの指を彼は乱暴に引き剥がしました。
「分かったよ。……一目で良ければ逢わせてやろう。それ以上は無理だ」
ため息とともにその口から出た言葉にハルは一瞬舞い上がって、でもその心はすぐにまた冷えました。
一目?
たったそれだけ?
あの夜からずっと一人で。
ずっと冷たくなったあの人の側にいて。
それはあの人そっくりなのに、全然違うもので。
冷たくて冷たくて冷たくて。
暖かなあの人とは似ても似つかない。
冷たいにせものの傍らで眠って。
冷たいにせものの側で歌って。
もう、限界だったのです。
「厭です。私たちは約束したんです。ずっと一緒に居るって、共に年老いて髪が白くなるまでずっとずっと――だからどうか彼をもう一度―」
地についた手で土を握り締め、頭を振って、ハルは強い眼差しで魔法使いを見ました。
濡れた頬に、幾筋かの髪が貼りついていました。
「それなら、それならば何故今君は此処に居る?どうして彼の後を追わなかった?」
ハルが彼に出会って泣き、叫び、大声を張り上げている間、魔法使いはずっと冷静な様子でした。
冷酷な台詞を吐いた今も、冷たい表情のままに、何の感情も無いようでした。
けれど。
「だって、だって、」
汚れた手で顔を覆い、子供のように泣き出したハルを見ながら、弱弱しいその声を聞きながら、魔法使いはこう思ったのです。
「絶対に後は追うなって、そんな事したらあっちで会ってやらないって、忘れて、幸せにって……だから」
きっと、鈴を転がすような声とはこのような物なんだろうと。
「君はその代償として何を出せる?」
流れる白金の絹糸。澄んだ碧の瞳。誰をも、石でさえも虜にする歌声。
「君は、私に何をくれる?」
昔々或るところに一人の吟遊詩人が居りました。
輝く絹糸のような白金の髪とずうっと南の海のように透きとおる碧の瞳と、聴く者にこの世の憂さの全てを忘れ去らせる素晴らしい歌声を持った吟遊詩人が。
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