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神 社




草薙神社(清水区草薙)。創建は今より1860余年前で、景行天皇53年9月20日。式内延喜式神名帳に「駿河国有度郡三座並小云々草薙神社」と記載されており、御祭神は景行天皇第二皇子日本武尊をお祀りしています。国史社伝によれば尊は東国の蝦庚が叛いたので、これを平定するため吾嬬国に行く途中、このあたりで逆賊が起り原野に火を放って尊を焼き殺そうとしました。尊は出発の折、伊勢神宮に参拝し倭姫命より載いた佩用の剣を抜いて「遠かたやしけきかもとをやい鎌の」と鎌で打ち払うように唱へ剣を振り、あたりの草をことごとく薙ぎ払い、これも倭姫命より載いた燧(火打石)で火をつけました。その火は逆に賊の方へなびいて、尊は無事にこの難を切り抜けられました。
尊を焼き殺そうとした所が焼津で、賊を追いかけ討ち果たした所が草薙と伝えられています。その後、尊は佩用されていた「天叢雲の剣」を「草薙の剣」と名称を変更されました。この剣は景行天皇の命により最初はこの神社の納められていましたが、後に熱田神宮に移されました。






久佐奈岐(くさなぎ)神社、清水区山切(旧庵原村山切)。約1884年前(110)に詔勅により皇子日本武尊が東征の途中この地に本営を設けたとされる旧蹟の地にあります。吉備武彦命が日本武尊東征に副将軍として従って功があり、この地を賜りました。そこで吉備武彦は、日本武尊が東征の途中に本営を設けたとされる旧跡のこの地に神社を建てました。この地は廬原(いほはら)の国の中心地とされ、庵原国造によつて祀られた神社であったと思われます。当地は「むかし神々の進発の御陣の跡」との伝承があり、延喜式神名帳にこの神社は載っています。
昭和13年発行の「神道大辞典」によれば、草薙・久佐奈岐両神社共由緒は同じ事が書かれてます。明治になり「草薙神社」は県社となり、ここ「久佐奈岐神社」は郷社となりました。社殿も境内も小さ目ですが地元では大事に保持されています。





豊由氣(とよゆけ)神社(清水区庵原町)。延喜式神名帳にのる神社で、由緒に「謹テ舊記ヲ按スルニ今ヨリ凡一千八百六十三年ノ昔、人皇第十二代景行天皇ノ御宇皇子日本武尊御東征ノ砌、廬原郷ニ豐積神社或ハ止由氣神社トシテ豐受大社ヲ祭ラセ給ヒ、同時ニ安倍郡神部神社ニ天照大神ヲ祭ラセ給ヒ即両宮ヲ廬原安倍ノ國ニ祭リ給ヒシヲ以ツテ二ノ宮と稱セリ相殿一ノ宮ハ後ニ至リ勧請セシモノナリ」とあります。
庵原小学校の北西に鎮座する郷社です。入口に神明鳥居が立ち階段を登ると境内で、正面に拝殿があり拝殿の後方に一段高く垣に囲まれて流造の本殿があります。創祀年代は不詳ですが、社伝によりますと景行天皇の御代、日本武尊東征のおりに安倍郡神部神社に天照大神を祀り、当地に、豊受大神を祀ったとされています。




矢倉神社(清水区辻)。日本武尊は景行天皇の皇子であり、大和朝廷が国土統一を成し遂げた折の中心人物と伝えられています。社伝によれば、創建は仲哀天皇の御代(192年〜200年)で、庵原国造意加部彦命が日本武尊と景行天皇をお祀りしました。当地は日本武尊東征の際、軍営を布き兵站部や武器庫を置かれた遺跡と伝えられています。矢倉という社名は、敵軍の動静を探る為に箭(矢)を束ねて櫓を建てたので箭倉(やぐら)と云うそうです。
後に天暦2年(948)、藤原匡房が神武天皇を合祀し、天正18年(1590)豊臣秀吉は小田原出兵のさい、勝利を祈願し太刀を奉献したと伝えられています。





首塚稲荷神社(清水区草薙)。祭神宇迦之御魂神当神社の創建時期は不明です(元は式内社「草薙神社」の境内摂社)。日本武尊が無事に草薙の難を切抜けられた後、戦死した賊の首を埋め塚を作ったと伝えられる場所で、もともと「首塚の森(くびづかのもり)」 と呼ばれており、尊に殺された賊の首を埋葬したところと伝えられています。ここには、いつの時代からかはわかりませんが稲荷神社がもうけられ、今では、賊の霊は稲荷と共に祭られています。近くには血流川という太古の賊との戦いのすさまじさを物語るような小川もあります。




御穂神社(清水区三保)。平安時代の延喜式神名帳に記録が残っている古社で、夫婦和合、縁結び、交通安全の神として信仰されています。神は、大巳貴命(三穂津彦命・大国主命)と三穂津姫命の二柱神です。創建年代は不明で延喜年間に従五位下に敘せられています。広さは五千坪あり、古来より、朝廷を始め武将等の信仰を集め、航海・漁業の神として地元の厚い信仰を受けています。宝物館には重文の太刀のほかに、天女の羽衣の一片という「布」や、源為朝が使ったと言われる大壷などが陳列されており、昔は三保一帯がこの神社の社領でした。境内には、左甚五郎の作といわれる神馬が奉られて、春には22種、220本の桜が咲き誇ります。
神社から御神木の「羽衣の松」まで続く松並木は「神の道」と呼ばれています。





豊積神社清水区由比町)。平安時代の延喜式神名帳(927年)に蘆原郡三座豊積大神とあります。創建は恒武天皇の御代延歴十年四月上旬初未の日、西暦791年で今を去ること1200年前です。ここの地を町屋原と称するは、古代において物々交換の市場が営まれたところで社伝によれば第四十代天武天皇の白鳳年間ここに五穀の神「豊受姫」を祀る豊積神社が創建されたと伝えています。
延暦十六年、坂上田村麿が東征の途上、豊積神社に戦勝を祈願し、その帰路戦捷報告に立寄ったのが旧正月一日とあって、ここに戦勝祝賀の宴が盛大に催され、大太鼓をくり出し三日二晩夜を徹して町内をねり歩いた、これが今に伝えられるお太鼓祭りの起源とされています。







下清水八幡神社〈住吉神社・船玉神社〉(清水区岡町)。祭神は誉田別命(応神天皇)で清水の8カ町と下清水の総鎮守で、もとは住吉神社(現在は摂社船玉神社)です。鎌倉初期の文冶年間(1185〜89)に、梶原景時が海路岡清水に来た時、鎌倉の鶴岡八幡宮より勧請し、住吉神社を八幡神社に改めたといいます。境内には市指定の大クス5本と大槙1本あります。また烈祖殿址の碑(市文化財)、慶長14年に駿府城主になった徳川頼宣が父家康のために造営した御浜御殿の跡を後人が偲んで嘉永7年に金比羅神社のそばに建てたものが境内にあります。
「住吉神社」は大和時代斉明天皇のころ(663年)いほはらの君が白村江の戦いの援軍を命じられた際、天皇より大阪の住吉神社にて戦勝祈願をされた札を送付されました。駿河軍勢の船出に海上安全と武運を祈願し、住吉神社として勧請したのが始まりで早くから航海出入りの船舶が頻繁であったことから船中に船玉神を祭る信徒の参拝も多く、のちに船玉神社と称しました








上清水八幡神社(清水区上清水町)。祭神は誉田別命(応神天皇)で寛冶元年(1087)陸奥守源義家が勧請したと伝えられている武神の社です。境内には義家手植えと伝えられる大クスがあり市の天然記念物に指定されています。社殿は寛文12年(1672)徳川4代将軍家綱の命により、清水船手奉行が再建したもので、徳川家奉納の葵紋の御簾が本殿に、細井奉行寄進による掲額が拝殿に掲げられています。境内を見渡しますと、6本の大クスが見えます(うち5本が静岡市指定天然記念物)。なかでも社殿の右手(向かって左手)に立つ1本が最も太く、ほかには社務所横の1本も見事ですがこちらは既に頂部を失っています。
神社の裏には「清水」の地名の起源になったと伝えられる「チャンチャン井戸」が残されています。






瀬織戸神社(清水区折戸)。この神社の創建は駿河雑志に「神護景雲元年丁未(767年)瀬織津姫ヲ祭ル所也」とあり、今からおよそ千二百三十年前に祭られた社です。祭神は天照大神の第二王女・瀬織津姫とされます。
瀬織戸の渡し(有度の渡し)とは、中世の頃まで清水区の三保は島になっており、海を渡って行き来していました。ここの海は“瀬”といわれる浅い海で舟の渡し場があり、三保・駒越側ともに織物をしていた家(戸)があったようで、そこからこの辺りを織戸(折戸)とよび瀬織戸の渡しはここから名付けられたそうです。対岸の駒越の地名も、織物の技術を持った高句麗(高麗)の人たちが朝鮮半島から海を越えてこの地やってきたので、高麗越(こまごえ)とよばれていた地名が後に駒越になりました。

柿本人麻呂 の歌に「千早ぶる有度の渡りの早き瀬に逢すありとも後に我が妻」があります。


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