その後の芸予航路フェリーたち

歴史の中で芸予航路を支えた歴代フェリーたち。そんな彼らのその後の姿を手元にあるだけだが紹介するぞ!
 これらフェリーたちの多くは既に国内に存在しなかったり、あるいはこの世にすら存在しないものもあるが、ここではそんな彼らの第二第三の人生での姿を是非見てくれ。

旧愛媛汽船

旧因島汽船

「第一愛媛」
写真は愛媛汽船から売却された興々島汽船に本船がまだ在籍していた1988年撮影だが、塗装がかつての愛媛汽船カラーのグリーンからブルーに変更になっている姿なのでここにとりあげたぞ。1983年に興々島汽船は両頭の、えひめを新造したため、当時本船は予備船となっていた。よってこうして貸切船として奇跡的に弓削地区に帰って来て撮影されたのだ。バックには弓削の象徴とも言える石山が見える。本船は1996年私が見守る中、フィリピンへと旅立ち、現在、愛媛汽船歴代愛媛の最終船である新「第二愛媛」と同じ会社で活躍している。なんという燃える運命なんだ。

「第三十一くしま」
元「第七愛媛」だ。写真は愛媛汽船から宇和島の九島農協フェリーへと売却された本船が実際に稼動している姿で1989年8月31日に撮影されたものだ。しかし、この翌年に大三島ブルーラインから後輩の、みしま丸(元「第十二愛媛」、現「第八くしま」)がここに売却されて来た関係で玉突きでリタイヤし、セオリー通りフィリピンあたりの海外に売却されたものと思いきや、実は、そのまま国内で解体されていたのである。兄貴の「第一愛媛」が2009年時点でフィリピンで現役であることを考えると、それより若い本船にはどんな形でも良いから生き残ってもらいたかった。

「第八愛媛」
1983年、愛媛汽船から天草の三和商船に売却された本船が同社の水俣-本渡航路で活躍している姿をとらえたものだ。撮影は1994年5月だが、この直後に航路が廃止になり本船は姿を消してしまった。1983年当時はかなり傷みが進んでいたのにそれから10年後が経過したにもかかわらず素晴らしい手入れで若返ったかのように美しくなっていたのに驚いた記憶がある。塗装も名前もそのままで、左舷にサイドランプが増設されレーダーも新品化されている。三和商船での任を解かれた後の動向は不明だが、望み薄であっても海外で生き延びていると信じたいものだ。

「フェリーまつしま」
1988年伯方大島橋開通時航路再編により愛媛汽船から九州の松島観光汽船に売却された元「第五愛媛」だ。写真は1994年5月撮影で、同社の八代-松島航路に就航時の姿である。塗装も愛媛汽船時代そのままで走っていたが1999年に大三島ブルーラインから後輩の、「きのえ丸」(元「第十六愛媛」、現「フェリーまつしま」)が売却されて来たため玉突きでここをリタイア。その後はやはり海外売船となったものと思われるが詳細は不明だ。ここでの乗船時、船内にある鏡に書かれた「祝進水尾道回漕店」の文字に少なからず寂しさを感じたのを思い出す。

「フェリーくまがわ」
愛媛汽船の元「第十七愛媛」で上の「フェリーまつしま」と同じ経緯で売却され、仲良く同じ八代-松島航路に就航していた。しかしこちらは会社が天草フェリーラインである。2001年6月に同社が新造船「シーガル」を就航させた関係でお役御免となり引退してしまったんだ。その後の行き先はフィリピンで、2009年の時点では元気に働いている姿が確認されているぞ。私が最も愛した愛媛汽船フェリー、「第十七愛媛」の国内での最後の姿である。

「第三十八くしま」
1988年の伯方大島橋開通による航路再編時に愛媛汽船から宇和島の九島農協フェリーに売却されてきた元「第十八愛媛」である。本船は2005年まで、宇和島-九島航路で頑張っていたが遂に引退となりフィリピンに売船されてしまったんだ。写真は1989年8月31日宇和島にて撮影された姿だが、2009年現在、フィリピンでの生存が確認されている。

「フェリー第八江崎」
元芸予観光フェリーの「第十愛媛」だ。本船は1988年の航路再編時、どうにか予備船として愛媛汽船から三セク新会社の芸予観光フェリーに残ることができたが僅か2年後に新造船就航の玉突きで長崎大瀬戸の江崎海陸運送に売却され瀬戸-池島・松島航路に貨物フェリーとして就航していたんだ。貨物フェリーとするために旅客設備は全て撤去され、まさに見るも無残な姿となり、船体もろくに手入れされず、ボロボロで働かされていた。写真は1995年の姿だが、船の状態から考えて現在はもう解体されているものと思われる。

「みしま丸」
元愛媛汽船の「第十二愛媛」である。1988年の航路再編時に新会社の大三島ブルーラインに移り今治-大三島-木江航路に就航したが、1990年同社の新造船「フェリーみしま」の就航により宇和島の九島農協フェリーに売却されて現在は「第八くしま」となり宇和島-九島航路で元気に活躍しているぞ。なお、この大三島ブルーラインでは塗装が完全な愛媛汽船カラーを継承していたので船名の変更が余計に悔やまれたものだ。

「きのえ丸」
元愛媛汽船の「第十六愛媛」で上の「みしま丸」と同様の経緯で大三島ブルーライン入りした。本船も愛媛汽船カラーを継承したので船名の変更が悔やまれる一隻だったが、それにしても芸予観光フェリーは塗装を変えたが船名を変えず、ブルーラインは塗装は変えずに船名を変える。この方針の根拠が私は未だに理解できずにいる(ま、恐らく深い意味はないんだろーが)。本船は1999年しまなみ全通時に松島観光汽船に売却され旧「第五愛媛」の「フェリーまつしま」から同名を継承し現在も八代-松島航路で活躍しているぞ。

「しんもじ8号」
元因島汽船の「第七はぶ丸」である。本船は因島汽船から岩城汽船、竜ヶ岳観光開発、新門司海運と実に4回もの売却を経て現在は笠岡の海運業者藤井一彦氏の所有となっている。この、「しんもじ8号」という現在の船名は新門司海運時代に付けられたものだが、それを現船主が変更せずに使用しているわけだな。ちなみに船名の遍歴は「第七はぶ丸」→「第八親交丸」→「上天草」→「しんもじ8号」となっている。貴重な備南船舶製の国内生き残り組だが、船齢も40年をとうに超えており予断の許されない状態にある。まさに国宝レベルの一隻と言っても過言ではないぜ。

「第十五大福丸」
元因島汽船の「第八はぶ丸」である。1983年に笠岡フェリーに売却され笠岡-北木航路に就航していたが1988年にここが「第十八大福丸」が新造された関係で引退し、瀬戸内海を去ることとなったんだ。

これは因島の田熊造船瀬戸の浜工場にて本船が貨物フェリーへと改造工事を受けているシーンであるが、操舵室を残しただけで主要な上部構造を全て切り取られたこの姿を見た時は、さすがにかなりのショックを受けたものだ。「なんじゃこりゃ、ウソじゃろ」って、まさに絶句した感じだったんだ。

写真の通り、貨物フェリーとなった本船は、天草は御所浦の貨物フェリー業者、福浦輝男氏の所有となり写真のようないでたちで名前も変えず、貨物フェリーとしての業務に就いている。それにしても上の「フェリー第八江崎」同様、胸が痛くなるような姿だ。写真は1995年の撮影であり、場所は天草の大道だったか棚底だったか、まあ、そのあたりである。この写真ではランプの支柱が直立に改造されているのがわかる。強引なことをするものだ。しかし2009年時点では元気に活躍していることが確認されており嬉しい限りである。

「しらたき」
元因島汽船の「第十はぶ丸」だ。1988年伯方大島橋開通に伴う航路再編時に三光汽船に売却され因島重井東-尾道新浜航路に就航した。地元因島市で再就職できたラッキーな船だったが、船名を変えられてガックリきたのを思い出す。なぜならば、三光汽船は当時沢山の中古船を購入しては使用してきた経歴を持っていたが、それまで購入後も船名を変更したことはなく、本船も当然「第十はぶ丸」として走ることが期待されていたからだ。

左は後に同船が三光汽船の新カラーへと塗装変更されてからの姿だが、この塗装で活躍した期間はほんの僅かなんだ。やがて2000年6月30日をもって就航航路が廃止されたため引退し、長期の田熊造船瀬戸の浜工場での係留を経て小豆島に移動。そこから海外に旅立ったと聞いている。橋との戦いに敗れた結末だ。悲しいぜ。

注 本文中のフェリーまつしま&第八くしまのリンクは、もりえだ様のサイトの船の写真館に飛びます。