芸予フェリー別バージョン写真集

 やあ、みんな、異常に高すぎる給料に破格の厚遇、そして絶対的な1000%完全身分保障を背景に社会保険庁を筆頭に国内全土、国家、地方を問わず悪事を働きまくる公務員改革に全くメスが入らないまま増税を始めとする国民負担が増進されるバカな国で、今日も鼻糞くらいの希望の光を見出しながら生きているか。
 そんな中、今回お送りするのは「愛媛」「はぶ丸」という芸予フェリーたちの愛媛汽船、因島汽船時代の、これまでのコンテンツでは公開されていない別バージョンの写真をご覧頂こうというものだ。
 しかーし、少年時代に撮りためた写真がいくら探しても出てこない。恐らくポジネガ共に実家のどこかで何かの下敷きにでもなっているらしく、どうしても見つけることができなかったのだっ。そんなわけで、大変申し訳ないが、仕方がないので、手元にあるものだけでも公開することにした。
 こういう資料の保管の悪さは昔からフェリーとねからも指摘されていることなのだが、いずれにしても今すぐどうこうできるものでもないので、取り合えず出せるもんだけGOだっ!

竣工して間もない時期、新品の二代目「第二愛媛」が重井-田熊間を快走する姿。デッキには提灯がぶら下がっているのが見えるが、当時、愛媛汽船史上最大のサイズを誇る自慢の新造船だった本船は、納涼船、海水浴団体チャーターなど、その大きさと新しい船体を見せつけるが如く航路業務以外のチャーターにも積極的に使用されていたんだ。まさにフラッグシップでありシリーズ13隻の頂点に立つに相応しい風格みたいなものが感じられたね。

「第一愛媛」と「第二愛媛」、同型船同士の対比だ。船首部等若干の相違があるものの、ほぼ完全なツインズとして建造された両船だが、1974年頃全船一斉に施工された防火改造は全く異なる構造のものとなった。特に「第一愛媛」の改造方法は未だに理解に苦しむ。はっきり言って船尾付近が著しく不細工になっており、写真では見えないが、右舷側トイレは新造時車両甲板上にあったものをわざわざデッキの存在しない中二階に移設しており、その見栄えの悪さが一層引き立っている始末。その点、「第二愛媛」の方は元来の形状を崩すこともなく、的確な形状で改造が行われている。なぜだ、どうして同型でありながら両船は同一仕様の改造が行われなかったのか?どうして「第一愛媛」をこんな不細工な改造にする必要があったのか?今となっては遥か時の彼方の永遠の謎である。「第一」と「第二」船首形状は「第一」の方がかっこよかったから、変にするなら、せめて「第二」にして欲しかったなんてことを考えたりしてたなぁ。

愛媛汽船では因島大橋開通による今治-尾道航路が今治-因島航路へと縮小される以前は、今治-尾道航路の就航船を20日交替で今治-熊口-瀬戸航路にローテーション就航させていたんだ。下の写真は「第十八愛媛」が熊口瀬戸当番に当ってる時の姿であり、ブリッジの行先表記に特別な看板を被せてあるのがわからないか。その熊の看板の横から下に書かれた伯方の文字が見えかかっているだろ。

そしてこちらは、通常のメイン航路、今治-尾道航路就航中の弓削港での「第十八愛媛」の姿だ。伝説の造船所、備南船舶工業生まれの本船も本年(2006年)再就職先だったの宇和島-九島航路を引退し遥かフィリピン方面へと旅立ってしまった。

弓削港での「第五愛媛」の姿だ。本船も正真正銘、いわゆる備南の子供のひとりである。写真の左には弓削汽船の初代「第五青丸」の後部と「第拾青丸」の後姿が見えるのが時代を感じさせるぜ。

同じく弓削港での「第五愛媛」だ。当時は郵便物等の航送も行っていたので、両手に大きな郵便袋を持って船内に忙しく走る乗組員の姿が見える。なお、本船の手前に車両甲板が見えるが、これは「第拾青丸」のものだ。

1979年4月、大三島宮浦港に入港する「第七愛媛」。今治-尾道航路同様、こちら今治-大三島-木江航路でも郵便物等の航送が行われていたので、船首内側に〒マークが入っているのが見える。

そして、着岸した「第七愛媛」。当時は宮浦港のフェリー桟橋は浮き桟橋ではなく、このようなコンクリートスベリだったんだ。旧型愛媛がガンガン働く姿が見られる夢のような空間だったといえる。この後、私は本船に乗り込み木江へと向かったのだが、愛媛汽船の船として本船を見たのも乗船したのもこの日が最後となったんだ。

弓削港での「第三愛媛」である。画像右には弓削町営佐島渡船「さしま」の姿も見える。かつてはこんな光景が本当に弓削で展開されていたのだなぁ(遠い目)。

今度は今治港第三桟橋での「第三愛媛」のサイドビュー。数ある愛媛シリーズの中でも特異独特な外観を持っていたことがよくわかるだろ。1979年、この写真の撮影の日、本船は今治-大三島-木江航路を担当していたが、写真は固定ロープを外し、これより出港となる時の姿だ。そんなこいつも備南の子。

年に一度のスペシャルな日。我々にとって狂喜の日であった、大三島の神社大祭日の新旧愛媛の入れ替わりにより、一日だけの今治-尾道航路復帰となり、弓削にその姿を現した「第七愛媛」。ブリッジには布製の臨時行先表示横断幕が張られているが、それがイマイチしわくちゃなんだ。同一理由で弓削に帰ってきた他の旧型愛媛たちの姿もたくさん写真に収めていたはずなのに、ああ、いったいポジもネガもjどこに埋もれてるんだぁ(涙)。

寒空の下、強烈な西日を浴びて弓削の桟橋に到着した久々の松浦生まれの船、「第十愛媛」から、たくさんの人々が降りてくる。昔はそれが当たり前の光景だった。それが今ではどうだ。たった一隻残った二代目「第五愛媛」が桟橋に到着しても、降りてくる客が一人もいない場合も少なくない惨状。ああ、時は流れた。

再び二代目「第二愛媛」。今治港沖で出港船をかわすべく待機する本船の横を、昭和55年の新造当時、スーパー省エネ高速船として話題になった昭和海運の「マリンホーク」が通過し思いがけないツーショットに。って、この写真、どう見ても「マリンホーク」が主役じゃねーか。撮影当時、二代目「第二愛媛」は新造以来の今治-大三島-木江航路レギュラーであり、新造船のくせに今治に行かないと見られない悩ましい愛媛でもあった。

こちらは弓削に入港する二代目「第二愛媛」。お正月なのでマストに松を装着しているぞ。さて、写真の船首部を見て欲しいのだが、五人の人影が見えるのがわかるかい。そう、これが当時の愛媛の甲板員の姿。ブリッジにいる総舵手と合わせて一隻あたり総勢六人もの人間が乗務していたんだ。それくらい車両の誘導、手荷物の揚げ降ろしなどと多忙だったわけであり、これも現在では到底考えられない事実である。三セクの芸予観光フェリーになった折に合理化で四人体制となり、現在ではとうとう三人乗務になってしまい、それでも手持ちぶたさな場合が。ああ、悲しいぜ。

こちらは二代目「第三愛媛」。本船も二代目「第二愛媛」同様、新造後何年か今治-大三島-木江航路レギュラーだったため普段は今治に行かないと見ることができん新造船だった。年末年始特需のため二代目「第二愛媛」とともに今治-尾道航路に期間限定就航し弓削へとやってきた時の姿がこの写真。よってマストにはちゃんと松を装着。それと、上の写真の二代目「第二愛媛」と同一角度の姿だから、二隻をじっくりと対比して楽しんでくれ。

あまり変わり映えせん写真だが、続いては今治第三桟橋でたたずむ「第七愛媛」の姿だ。写真の1978年当時、本船には船首の社旗掲揚ポールがなぜかなくて、右舷のデリックに旗を付けてるのがわかる。ちなみに上の宮浦の写真はこの翌年の姿になるが、ちゃんとポールが設置されており興味深い。ちなみに写真の左端に写ってるのは瀬戸内海汽船「あさなみ」の後部だ。今治はオールスター勢揃いだったんだよ、70年代末頃まではな。

今治第三桟橋に向こう、因島汽船「第十一はぶ丸」と並んだ「第十二愛媛」。旧「第三愛媛」以来久々にピラーがブルワークと船側同位置一体となった本船のシンプルな外観は新造時から結構お気に入りであり、結果、愛媛シリーズの中でも割合多くシャッターを切る対象となった船だ。

今度は左舷側より見た「第十二愛媛」の姿。弓削桟橋の沖で後進の後旋回しているところだ。これも正月前後らしくマストに松が装着されているね。なかなかかっこいいカットだが、この船はメカベンが屋根上にあり「第十六愛媛」以降の左舷船側中央大型ピラーの形状が崩れておらず実に快感だ。
う〜ん、よいねぇ。なお、本船は現在も宇和島で頑張っているからみんなも応援してくれよな。

ある真冬の小春日和の日、弓削の桟橋に到着した「第十二愛媛」。ランプを通って降りる白のクーペが時代を感じさせるだろ。それにしても、愛媛のグリーンというのは太陽の光に当るとこんなにも映えるんだぜ。一つ上のどよーんと暗い、曇り空での撮影写真と見比べてくれ。それと、この写真は船名部分に錆止めが塗られた、いわゆる「第十二愛媛」の「みっともない姿」なのだが、今となってはこれはこれでまたよしっ!だね。

これまた角度的に変わり映えせん写真だが、今度は単独で今治第三桟橋で荷役を行う「第十二愛媛」の姿だ。第三桟橋に発着する航路で今治-尾道航路が一番便数が多かった関係で、他の航路の船が全くいない状態で、このように一隻で広い第三桟橋の隅っこにポツリといる姿が今治-尾道航路船には割合多く見られたんだ。

上の「第十二愛媛」同様にポツリと、たった一人で第三桟橋にいる今治-尾道航路の「第十五愛媛」。まさに出港間際の姿であり、赤い服の女性が大急ぎで乗り込む姿が印象的なカットだ。ところで船体中央付近のブルワークに注目して欲しいのだが、ここだけ一部色が違う場所があるだろ。これは後から腐食した箇所を船員が簡易的にタッチアップしたものだが、明らかに色が違う。実は1978年頃に愛媛のグリーンは暗いものから明るいものに変更になっており、タッチアップに使用されたのは新しいカラーというわけだ。本船もこの後のドック入りで新グリーンに正式に変更されるが、この愛媛の密かな「緑の変更」は意外と知られてないエピソードなんだぜ。

今回このコンテンツの最後の愛媛として、上に既に載せたものとは多少違う後方角度から見た「第一愛媛」を載せておこう。写真は1978年のものだが、この後本船にはブルーへの塗装の変更、客室ハンドレールのかさ上げ、電光船側行先表示器撤去、新レーダーの追加など、古い船ながら、少なからぬ手が加えられることとなるんだ。

下は弓削港にて、出港するために後進してゆく「第十七愛媛」の姿だ。これまた正月前後なのかマストには松が装着されている。ほんと、なぜか今回は松装着写真が多くなったが、この写真では船首のデリックにまで左右装着されているぞ。本船もまた知る人ぞ知る備南船舶工業生まれだぞ。本船は因島大橋開通後、今治-熊口-瀬戸航路専用船となった後、1988年の航路廃止とともに天草に移り、そこで「フェリーくま川」となり活躍していたが、近年新造の両頭フェリー「シーガル」の就航によりどこかに消えてしまった。恐らく日本国内にはいないのだろうね。やはり、フィリピンあたりかなー。それ以前に、そちらに向かう途中に沈んでなければよいのだが・・・。それにしても、この弓削での姿、今では信じられない気がするほど昔の姿となってしまった。

ここからは因島汽船「はぶ丸」なんだが、「愛媛」以上に「はぶ丸」の写真は発見できない。恐らくどこか一箇所にまとめて埋もれてるんだろーなー、畜生。「第八はぶ丸」なんか、かなり大量に撮影したはずなのに。そんなわけで、まずは弓削港に入港してきた「第十はぶ丸」だ。本船は長い間、因島汽船の今治-熊口-瀬戸航路専用船として封じ込められていた関係で、土生に帰らない唯一の「はぶ丸」で、写真は何かの配船の都合で止むを得ず、代走で今治-因島航路を走った時の写真である。この時は興奮したね。

弓削での「第十二はぶ丸」の姿だ。見るからに、川本ぉーっ、って感じの船だが、客室両サイドに全通のデッキがないなど評判はイマイチだった。振動も大きかったしね。しかし、個人的には乗船機会も多く、それに比例して思い出も少なくない船なんだ。汽笛の音も「第十七愛媛」系の双発ラッパで気に入っていたし。それにしても、この写真を見てるとゴースタンをかける本船の振動やエンジン音がまるで昨日のことのように耳によみがえってくるぜ。

コンテンツの最後を締め括るのは長い間本サイトのホームに展示されていた、「第十はぶ丸」と並んだ「第十二はぶ丸」の姿だ。とにかく新造時は青が美しかった。そして本船からブルワークに白線が入れられるようになり、その優雅さともいえる感覚を引き立てていたね。青にしても、向こうにいる「第十はぶ丸」と比較してもらえればわかるが、いっそう深い青となり、見る者を引き付ける。ちなみに「愛媛」「はぶ丸」全体で、私が最も「美しい」と感じたフェリーは「第十五はぶ丸」なんだが、それ故の、彼のその後の外観的な転落には本当に胸が痛んだんだ。

 今回のコンテンツを作成していて改めて思ったのだが、大昔に取り貯めたはずの写真の大半が発見できなかったのが本当に痛い。大三島大祭入れ替わり日の夕刻、「第八愛媛」と魚島村営の客船「第二うおしま」という両最終便ば黄昏に走り去る姿や、同日「第七愛媛」が我が家の沖を走る姿、などなど、燃えるものがたくさんあったはずなのに、改めて悔やまれるところだ。
 今回、かなり必死こいて探したのに見つからないということは、何分スーパー古いものだけに、知らぬ間に親に勝手に処分された可能性もある。それを考えると精神的に追い詰められてしまいそうだぜ。おおぅ!録音した旧「第二愛媛」のテープなんかもどこに行ってしまったんだろう。
 そんなわけで、今回は悲しいグチばかりの総括でコンテンツを終了だ。