第二期今治−伯方−岩城−弓削−因島航路

1968年にスタートした愛媛汽船の今治−伯方−岩城−弓削−因島−尾道航路。これは1983年の本四架橋尾道今治ルート因島大橋開通に伴い因島−尾道間が廃止され一応のピリオドを打ったが、その後、今治−伯方−岩城−弓削−因島航路として従来同航路を運航していた因島汽船と共に再出発することとなった。
この時点で愛媛汽船の就航船は1隻減らされ4隻、因島汽船は従来通りの2隻、合計6隻のフェリーたちが今治と因島を結んで活躍したのだが、遂に運命の1988年1月17日、この歴史にも幕が下ろされた。
本四架橋尾道今治ルート伯方大島橋の開通である。これにより純粋民間の愛媛汽船、因島汽船での航路運営は難しいと判断され、両社並びに旧弓削町、旧岩城村、旧伯方町など、航路沿線自治体出資による第三セクター会社芸予観光フェリーが設立され、この新会社によっての航路運営が開始された。
1988年1月18日。この日がいわゆるこの航路の第二期がスタートしたと言ってよい。
この時点で愛媛汽船の今治−大三島-木江航路は就航船を3隻から2隻に減船の上、大三島の宮浦港に朝夕のみしか出入りしないなど航路の見直しを行い、同じく設立された新会社、大三島ブルーラインに運航が移行された。そして、残りの愛媛汽船と因島汽船共同運航の今治-瀬戸-熊口フェリー航路は廃止となり、1960年代から歴史を刻んだ同航路よりフェリーの姿が完全に消えた。

 芸予観光フェリー移行時、所属船は愛媛汽船、因島汽船双方から集められ、愛媛汽船からは二代目「第二愛媛」二代目「第三愛媛」「第十愛媛」が、因島汽船からは「第十二はぶ丸」「第十五はぶ丸」、これら合計5隻が新会社に籍を移して新体制がスタートした。この際、両はぶ丸は船籍も因島から今治に移されており、ファンネルに付けられていた因島汽船の「土」をかたどったシンボルマークも取り外された。
 これら5隻のうち「第十愛媛」は予備船であり、同じく新体制でスタートした今治‐大三島-木江航路の大三島ブルーラインが予備船を持たなかった関係で、そちらの就航船がドック入りなどの際も代船として走るという実質両社掛け持ちの予備船となった。
 ちなみに大三島ブルーラインには今治‐因島航路だった「第十二愛媛」と「第十六愛媛」がそれぞれ「みしま丸」「きのえ丸」と名前を変えて主船の座につき運航を開始した。
 塗装はこれまでの愛媛汽船のグリーン、因島汽船のブルーとは打って変わって、暗い深緑と言うか、なんとも冴えない色となり、特に因島汽船の美しいブルーにホワイトラインというお気に入りの塗装が消滅したのには私はかなりのショックを受けたものである。
 どうしてこんな色になってしまったのか?ある日私はもしやと思い、かつての愛媛汽船カラーと因島汽船カラーの絵の具を混ぜ合わせてみた。するとこの芸予観光フェリーカラーとなり、なるほどと納得した。しかし、後になって会社に問い合わせてみると、決して旧両社カラーの混ぜ合わせではないと言われ、結局なぜこの冴えない色に船体カラーが決定したのか未だにわからないままである。
 一方で大三島ブルーラインの両船は元来自らが持つ愛媛汽船カラーはそのままで、船名のみが変更されるという形になった。
 一応この時点で新会社に残れないで売却になった船をまとめておくと、愛媛汽船が「第五愛媛」「第十五愛媛」「第十七愛媛」「第十八愛媛」、因島汽船が「第十はぶ丸」「第十一はぶ丸」の総勢6隻である。
 さて、こうして新たな時代を迎えた今治−因島航路だが、それぞれの船の稼働率を上げ1船あたり3往復する勘定で1日12往復が確保された。
 1988年1月18日からの運航開始となったわけだが前年末くらいから一部の船たちには既に変化が見られ、新体制移行の準備が始まっていた。
 第十二愛媛、第十六愛媛は早々に今治−大三島-木江航路に移っており、船名も鉄板切抜きによるみしま丸、きのえ丸と貼替えが終わっており、その上から仮に第十二愛媛、第十六愛媛とペイントだけで書かれている状態であった。二代目第二愛媛も年末には塗装の変更が完了していた。
 さて、新体制に移行してすぐにはぶ丸両船が一気にドック入りとなり一時的に姿を消した。これは1968年今治-因島に因島汽船フェリーが就航して以来初めて航路からはぶ丸という名の船が消えるという現象が発生した。両はぶ丸が入渠中は代役を予備船の「第十愛媛」と売船間際の「第十八愛媛」が担当し、はぶ丸の復帰と同時に「第十八愛媛」は住み慣れた芸予航路を去って行った。

 2年後の1990年、芸予観光フェリー時代になってからは初めて、純民間時代の最終建造船「第十五はぶ丸」から見れば実に8年半ぶりに新造船が建造された。建造はこれまで愛媛汽船も因島汽船も付き合いのなかった内海造船で、ブロックを同社瀬戸田工場で造り、因島田熊工場の船台で組み立て進水、艤装、デリバリーという工程を踏んだ。
 ちなみに本船の建造にはフェリーとねも参加している。
 それからもう一つ、同年には大三島ブルーラインにも新造船が投入され「フェリーみしま」と命名された。これにより元「第十二愛媛」こと、「みしま丸」は宇和島の九島農協フェリーへ売却となっている。

 次の動きは1994年、これまで脈々と新造船のみ投入されてきたこの航路に初めて中古船が投入された。
 その船は元大三島フェリーの「第五おおみしま」で、井口−瀬戸田-三原航路の廃止に伴い売りに出されたもので、船齢は「第十五はぶ丸」よりも若かった。これにより就航船の若干の若返りを図ったものと見られるが、ついにこの航路も中古船が入るほど落ちたかという感が否めず、少なからず来るところまで来たと実感させられたものだった。とてもじゃないが新造を造るほど収益はないし、5年後に迫った架橋の全通を計算に入れれば当然の選択とも言えるかも知れない(それ以前に中途半端な若返りが必要かどうかも疑問だが)。

 その後は船的には何の変化も見られなかったが、ダイヤとしては新会社創立以来12往復体制できていたものが利用者減少に伴い11往復に減便されたというのが最大のトピックスと言えよう。とにかく、もはや上ることはなく落ちることばかりであった。

 そして迎えた1999年5月1日の本州四国連絡橋尾道今治ルート、通称しまなみ海道の全線開通の日。今治−伯方−岩城−弓削-因島フェリー航路として実質的な最期の日と言えた。 これと言ったセレモニーもなく淡々と最終日もこれまでの毎日と同じように運用をこなしてゆくフェリーたち。テレビではこの日開通となるしまなみ海道開通祝賀式典や一連の関連行事が盛大に放送されていた。
 やがてそれぞれが担当する最終便がやってくる。
 ダイヤでは今治、因島にそれぞれ2隻ずつが夜間停泊するようになっているが、まず今治に戻る早じまい便は二代目「第五愛媛」で、そのままダイヤ通りに今治に到着し旅客と車両を降ろし終了した。
 因島に戻る早じまい便は当日は二代目「第二愛媛」であったが、同船は因島土生港到着後、旅客を降ろし終えると早々に回送便で今治に引き揚げ終了した。
 次に遅じまい便、即ち最終便だが、今治行が「第七芸予」、因島行が二代目「第三愛媛」であった。本来なら第七芸予はダイヤ通り終点今治着で乗客を降ろして終了し、 

「第十愛媛」
1977年建造の元愛媛汽船所属船。写真は1989年頃岩城沖にて撮影されたもの。ブリッジには運航航路が表記されているが、向って右側に見える部分には従来尾道の文字が書かれていた。そしてそのすぐ左には小さく因島と書かれていたものが消され、不自然な空間となっているのがわかる。本船は1990年に芸予観光フェリーとしての初めての新造船である第五愛媛の就航に伴い、予備船の任を第十二はぶ丸に譲り、長崎大瀬戸に売却された。

「第十二はぶ丸」
元因島汽船所属船。写真は1988年弓削港にて撮影されたもの。1990年の新造船建造に伴い予備船となっていたが、1994年大三島フェリーより1984年製の第五おおみしまが第七芸予と名を改め転入してきたため、海外に売船された。冴えない暗い新カラーが悲しい。

「第十五はぶ丸」
撮影は1988年弓削港にてだが、第十二はぶ丸同様悲しい塗装にされてしまった。せめて、ブルワークに従来のようなホワイトラインだけでも入れてくれればと思うが、現実は厳しかった。手入れの良かった因島汽船から芸予観光フェリーに移り、急速に劣化していく本船の姿は見ていて耐え難いものがあった。1994年には予備船になってからは劣化度は更に加速した。その後予備船のまま、しまなみ海道全通の日を迎え、笠岡市の船主に売却され、その後再売却され行方知れずとなった。

1999年今治港で並んだ今治−伯方−岩城−弓削−因島航路の第七芸予(元第五おおみしま)と今治−大三島−木江航路のきのえ丸(元第十六愛媛)。この光景でさえも、もはや遥か記憶の彼方である

芸予観光フェリーの時代へ

二代目「第三愛媛」
1999年佐島港にて撮影。暗い芸予観光フェリーカラーもこのようにガンガンの直射日光を受ければ少しは明るく見える。本船は標準装備のレーダーの性能があまり良くなかったのか、後になってマストのてっぺんに別のレーダーを設置したが、従来のレーダーもそのまま存置され、結果フリート唯一のダブルレーダー船となっていた。思えば本船は晩年、同時期建造の二代目第二愛媛に比べて船体の傷みが進んでいたような気がする。航路を去った後の行き先は悲しみのフィリピンである。

二代目「第二愛媛」
撮影は恐らく1990年代初めで、場所は弓削港である。かつて愛媛汽船の頂点に立った本船も晩年はすっかり使い込まれ痛みが進みデビュー当時の輝きはなかった。本船もしまなみ全通と共に悲しみのフィリピンへと旅立ってしまった。

二代目「第五愛媛」
1990年生名島沖にて撮影された就航間もない美しい姿である。本船は芸予観光フェリー最初で最後の新造船であり2008年の航路廃止まで唯一生き残っていたフェリーでもある。1990年の建造中、なかなか船名が決定にならず、新会社になったこともあり、愛媛汽船、因島汽船双方に遺恨を残さぬ、これまでにないネーミングをと同社首脳が悩んでいると思いきや、いざ、蓋を開けてみると、なんてことのない第五愛媛だった。我々は何らかの形で芸予というのが入ると思っていたのだが(芸予丸、あるいは平仮名でげいよなど)。でも、中四国フェリーに芸予というのが存在していたのでどうかと思ったが、なんと4年後の中古船にこの芸予という名は使われることとなるのである。同じ芸予化するにしても、せっかくの新造なんだから、この船から芸予にすればよいものをと思ったもんだが。

「第七芸予」
1999年弓削港にて撮影。本航路の最初で最後の中古船(元大三島フェリーの「第五おおみしま」)である。第七という番号は、単純に前船が第五愛媛だったからその続番で与えれてたものと思われる。なお、本船の建造年は1984年で造船所は二代目「第五愛媛」と同じ内海造船田熊工場である。1999年のしまなみ全通時にリタイアし土生商船に売却され「第十一かんおん」となったが後の同社の合理化により悲しみのフィリピンに再売却されてしまった。まさにぬか喜びを味わった一隻である。

同じく二代目「第三愛媛」は終点因島に到着して、後今治に回送されて終了となるものと思われたが、なんと両船は航路の中間地点とも言える伯方木浦港において、そこまでお互いが運んできた旅客と車両を交換し、二代目「第三愛媛」は今治へ、「第七芸予」は因島へ、それぞれ引き返して終了を迎えたのである。
 結果、二代目「第二愛媛」二代目「第三愛媛」二代目「第五愛媛」は今治に帰り、「第七芸予」だけ因島土生に残ったわけであるが、まず、二代目「第五愛媛」だが、この船のみ橋の開通後も航路に残ることになっており、翌日のその始発が今治なので、どうしてもその日のうちに今治に戻る必要があった。二代目「第二・第三愛媛」は売船先への出発が今治からだったのでこちらも早々に撤収した。特に二代目「第三愛媛」は最終日後かなり早いうちに今治を去ったみたいで、4日後の5月5日には既に一時係留地の今治内港にはその姿はなく、フェリーでは二代目「第二愛媛」と「第十五はぶ丸」のみがその姿を残していた。
 唯一因島土生で最後の時を迎えた「第七芸予」は、土生港長崎桟橋で夜を明かしたが、その後因島市内(現尾道市内)の田熊造船瀬戸の浜工場に移動した。実は「第七芸予」は因島-三原間に航路を運営する土生商船に売却が決定していて、同造船所で買船工事を行うこととなっていたのだ。

 こうして第二期今治−伯方-岩城−弓削−因島航路は幕を下ろした。

 ここで参考までに1999年5月1日、しまなみ海道開通日時点の各フェリーの配置をまとめておく。

 @今治−伯方−岩城-弓削−因島航路(芸予観光フェリー)

    二代目「第二愛媛」  二代目「第三愛媛」  二代目「第五愛媛」  「第七芸予」  「第十五はぶ丸」(予備船)

 A今治−大三島-木江航路(大三島ブルーライン)

    「フェリーみしま」  「きのえ丸」
  *予備船は芸予観光フェリーの第十五はぶ丸が兼任

第三期今治-伯方-岩城-弓削-因島航路につづく

(芸予観光フェリー)