今治-伯方-岩城-弓削-因島航路

 続いてお送りするのは因島汽船が運航していた今治-伯方-岩城-弓削-因島航路である。ご覧頂ければおわかりだと思うが、本航路は愛媛汽船の今治-伯方-岩城-弓削-因島-尾道航路の因島-尾道区間を除いた航路であり、尾道まで走る愛媛汽船と共同運航していた航路と言ってよいだろう。
 最盛期愛媛汽船が今治-尾道間に5隻のフェリーを運航していたのに対し、因島汽船は今治-因島間に2隻のフェリーを運航していて、そのうち1隻が同区間を3往復、もう1隻が2往復で合計5往復となっていた。しかし、この2隻が担当する5往復のうち因島行き2便と今治行き1便、合計1.5往復は経由が違っており、これらは因島汽船が愛媛汽船と共同運航していたもう一つの航路、今治-熊口-瀬戸航路を走り、これに瀬戸-因島区間がプラスされていた形のルートで、同じ今治-因島間でも走るルートは全く違っていたわけである。よって、実質今治-伯方-岩城-弓削-因島航路を走るのは今治行き4便、因島行き3便だけだったと言ってよい。
 それで実際のところこの航路とこの会社だが、幼少の頃はイマイチ馴染みが薄かったりする。それもそのはずで、私が住んでる弓削島、旧弓削町は愛媛県と広島県の県境に存在し、一応は愛媛県となってはいるが、実質的経済エリアは完全に広島県であり、実生活で四国方面に行くことなど皆無に等しかった。一方で尾道は買い物、帰省、行楽などと何かにつけて出かける機会が多々あり、今治-尾道間を走っていた愛媛汽船にしても利用するのはいつも弓削-尾道間だったわけだ。よって、因島止まりの因島汽船を利用する機会もおのずと発生しなかったのである。そして、便の少なさもそれに拍車をかける原因になっているだろう。
 そんな幼少期を過ぎ、因島汽船を自ら意識して利用したのは中学に入ってから、つまり、自分ひとりで島外を比較的頻繁にウロウロするようになってからであり、よって古い思い出は愛媛汽船とは比較にならないほど少ないのだ。
 なお、因島汽船も愛媛汽船同様同航路にフェリー化以前、木造客船、鋼製客船時代の歴史があるのだが、無論私の生前の話となるので、愛媛汽船ページ同様1970年頃をスタートとして話を進めさせて頂くこととする。
 ちなみに本航路の正式名称は今治-友浦(大島)-木浦(伯方島)-岩城-佐島-弓削-生名-土生(因島)であり、愛媛汽船が寄港しない生名島にも一部の便を寄港させているのが特筆される。
 

1978年頃にもらった因島汽船時刻表の表紙。写っているフェリーは第十はぶ丸で、この頃は今治-熊口-瀬戸航路専属船となっており、私の地元でその姿を見ることはできなかった。

因島汽船の歴史、それは、はぶ丸の歴史。

 第七はぶ丸。1980年頃因島田熊沖での撮影。実はこの船は1977年に岩城汽船に売却されており、その後第八親交丸となってからの写真しかないので、やむを得ずそれをを掲載することとなった。しかし、売却後も外観的変化は殆どなく、エンジ色の部分がブルーだったとだけ考えて頂ければ問題はないと思う。本船も私の記憶にあるのは1970年くらいからであるが、竣工は1967年7月となっている。そして、愛媛と同じく幼稚園から沖を走るその姿をよく見ていたが、当時はこの船が第七はぶ丸という名であることすら知らなかった。しかし幼稚園ではよくネンドでこの船を作って遊んでいた記憶が残っている。建造は備南船舶工業で地元因島市内の造船所である。

 記憶の乏しい因島汽船本航路のフェリー1番船と思われるのが第七はぶ丸。因島汽船のフェリーとしては先にちかみ丸が存在していたが、その船は別航路今治-熊口-瀬戸に就航していたので、今治-因島航路のフェリー1番船は本船であると思ってよいみたいである。
 私はたった一度だけ本船に乗船した経験があるのだが、それは瀬戸から因島までで、地元の弓削島から乗船したことは結局一度もなかった。
 この船で思い出されるのは岩城汽船に売却される頃だ。当時本船は既に因島汽船では予備船となっていたが、時々代走で航路を走る姿を見ることができた。
 1977年のある日、教室の窓から海を見ていると午前9時に弓削を出て今治に向かう便として本船が現れた。しかし、なぜか塗装が変わっているではないか。そう、ここの写真のような姿になっていて驚いたわけだ。
 恐らく、売却にあたり塗装は終わっていたがまだ船の名義変更が終了しておらず、その僅かなタイムラグ的期間に因島汽船が代船として走らせたために発生した珍事だったと思われる。外観は第八親交丸でもまだ、中身は第七はぶ丸だったわけである。
 本船は1996年に九州の竜ヶ岳観光開発に再売却され上天草と改名したが塗装は岩城汽船時代のまま芦北-大道間の新規開設航路に就航したが、ここも1999年に引退し北九州の新門司海運に再々売却された。ここでしんもじ8号と改名されたが、僅かな期間で笠岡市の藤井和彦氏に再々々売却され現在に至っているが、船名はしんもじ8号のままである。まあ、何にしても芸予地区に比較的近い瀬戸内海で生き残っているのは嬉しい限りである。
 瀬戸内海に復帰してからの本船の姿は割合見る機会が多いので写真もそれなりにある。その姿は別コーナーで紹介しよう。
 次に登場したのが第八はぶ丸であり、本船は先に紹介した第五愛媛、第十五愛媛と同型のシリーズ船であるが、建造は1971年だと記憶している。
 私がこの船を追いかけ始めたのは1978年くらいで、この時点で既に本船は予備船になっていたが、今治にフェリーの撮影に出かけた際、帰りの船として乗船。当時建造途中の大三島橋の下をくぐり、熊口-瀬戸経由で因島に戻ったこともあり、意外と乗船した記憶が多く残る船である。
 その後本船は1983年に笠岡市の笠岡フェリーに売却され第十五大福丸と改名の上、笠岡−北木島航路に就航したが、1988年に引退し、天草諸島の御所浦に再売却され貨物フェリーに改造後不定期航路に就航した。
 そして、現在もそこで頑張っていると聞いている。
 因島汽船以後の本船の姿だが、他の船と同じく別コーナーで紹介しようと思う。
 続いて1972年登場したのは第十はぶ丸で当初は今治-伯方-岩城−弓削-因島航路に就航していたが、いつしか今治−熊口-瀬戸航路に封じ込められてしまっていた。それから開放されたのは1982年の第十五はぶ丸建造時で、これにより予備船として因島に帰って来たが1988年1月の伯方大島橋開通に伴う航路再編時、同じ因島にある三光汽船に売却されしらたきと改名のうえ因島重井東-尾道新浜航路に就航した。
 その後2000年6月の同航路廃止に伴い引退し、どうやら海外に売船された模様である。
 因島汽船時代私が本船に乗船したのは1973年、親に連れられ大三島に行った時で弓削から木浦間を乗船、この一度きりである。ちなみにこの時、本船で木浦に上陸後伯方島を陸路熊口港へ向かい、そこから当時デビュー間もない第十一はぶ丸で大三島の瀬戸に渡ったと記憶しているが、二隻のはぶ丸をリレーして乗船したのは後にも先にもこの時だけである。
 一方、三光汽船時代は自ら運転する自動車ごと何度も乗船した。
 せっかく地元で再就職できた本船だが最後の時をその地元で迎えることはできなかったわけだが、三光汽船時代の姿は他船同様別コーナーで紹介する。
 次は1973年登場の第十一はぶ丸だが、本船はそこそこの乗船経験があり、弓削から大島に向かう時などにも何度か具体的に乗船した記憶が残っているが1983年以降は今治−熊口-瀬戸航路を走ることが多くなりあまり弓削や因島で姿を見る機会が少なくなった。
 そして1985年頃には完全に瀬戸航路専用船になってしまい、1988年の伯方大島橋開通に伴う航路再編時を迎え、さっさとどこかに売却され姿を消してしまった。その後の情報も少なく、どうやら韓国あたりに売られたという噂を聞いたのみである。
 因島汽船は愛媛汽船のようにほぼ毎年新造船を造るわけじゃなかったので、次に建造された第十二はぶ丸の登場は4年後の1977年であった。
 愛媛汽船同様因島汽船もこれまでの備南船舶工業を離れ別の造船所への発注となっていくが、本船が建造されたのは川本造船で、これまでとは全く違うタイプの船となった。
 最大の特徴は客室横のデッキがない点であり、ブリッジも船首に迫り、全体に細長い船体という印象を受ける。
 本船は1988年の航路再編時、三セク新会社、芸予観光フェリーの社船となり、船籍を因島から今治に改め、今治-伯方-岩城-弓削-因島航路に就航したが、この時から熊口、瀬戸を経由する運用は消滅した。そして1990年に同社が建造した二代目第五愛媛の就航に伴い予備船化され、最後は1994年、大三島フェリーから転入船、第五おおみしま改め第七芸予の就航に伴い海外に売船されるという結末を迎えた。
 なお、確か行き先は韓国らしかったのだが、回航中に沈没したとの情報が入ってきたが真偽は定かではない。
 

第八はぶ丸。撮影は1979年頃弓削港においてだが、この当時本船は既に予備船となっていたが、割合航路を走る機会は多かった。なお、この写真は、にらいかないさんのHPにも掲載させて頂いている。

 第十はぶ丸。撮影は1978年夏、今治港においてである。この頃本船は今治-瀬戸-熊口航路の専用船となっており、弓削や因島では見ることができなかった。はぶ丸のはぶとは本船の母港である因島市の土生からきているのだが、土生に来ないはぶ丸ということで当時私にとって本船を写真に収めるのは必須の使命と言えた。建造は1972年11月で、第八同様備南船舶工業の一連の第五愛媛同型シリーズであるが、本船はブリッジ船側窓がこれまで大窓一つだったのに対し小窓二つへと変更になっている。ちなみにこの写真、本船の遠方に見えるのは今はなき今治−神戸航路愛媛阪神フェリーのおくどうご3と、今治−三原航路に就航していた瀬戸内海汽船の双胴高速船、ホーバーマランと呼ばれていたマリンスターである。

第十一はぶ丸。写真は1979年頃の弓削港への入港シーンである。本船は1973年の建造で一連の備南船舶工業の第五愛媛タイプシリーズの集大成とも言える船で、第十七愛媛と同様にブリッジ横が通路になっており、これまで車両甲板後部にあったトイレが後部の中二階デッキに設置されている。

第十二はぶ丸。撮影は1978年か1979年の今治港である。弓削発朝6時30分の今治行で8時30分の今治到着時に下船してすぐに撮影したものである。この便の船は折り返し、熊口、瀬戸経由で因島に帰る便となる。そのため、写真を見ればわかる通り、ブリッジ前の行き先表示が既に因島-瀬戸-熊口-今治に変わっている。このように因島汽船の船は因島と今治の間の経由港が書かれた部分だけ反転できるボードになっており、これを表にしたり裏返したりして一日のうちに切り替わる走行ルートを乗客に表示していた。ちなみに因島と今治の文字は鉄板の切り抜きで、ブリッジに直にペンキで書かれていた愛媛汽船と比べお金がかかっていた。なお、本船の同型船は社内にも愛媛汽船にもおらず、全く無関係の竹原の大崎汽船や江田島の上村汽船に存在していた。これらは全てが同じ川本造船所の建造であるから、コスト削減のため図面を使いまわしていたものと考えられる。

第十五はぶ丸。1982年弓削港にて撮影。まさにはぶ丸の頂点に立つ船と言ってよく、原型となったのは第十二はぶ丸タイプだが、全てにおいてそれよりも洗練された形態で造り上げられていた。建造は第十二と同じ川本造船所である。写真はデビュー当時の姿でブルーの船体が非常に美しい。なお、第十二から因島汽船フリートには船側に白いラインが入れられるようになり、美しいブルーが更に引き立つようになった。元来、因島汽船は愛媛汽船と比較して船を大切にする気風があったみたいで、どの船も手入れが行き届いており、ランプーゲートもツートンに塗り分けられ、ある意味一つの船に対するこだわりみたいなものを感じた。ゆえに、新会社移行後、急速に劣化が進む第十二と本船の姿は非常に痛々しかった。

1978年頃の因島汽船の今治-伯方-岩城-弓削-因島航路下り時刻表。このように因島汽船の時刻表には愛媛汽船を含む前便の時刻が掲載されていたが、一方の愛媛汽船は自社のみの時刻しか掲載していなかった。実は愛媛汽船と因島汽船の仲は今一つだったみたいで、実際に昔、私も両社の船員がお互いの会社を批判し合うのを何度か聞いたことがある。双方にプライドがあったみたいで、雰囲気的に量の愛媛汽船、質の因島汽船と言ったところだろうか。それから、時刻表には社名を区別する欄があるが、因島が始発の因島汽船の便は尾道からの因島商船客船との接続となっていた。

 1982年の年明けにデビューしたのが最後のはぶ丸、第十五はぶ丸である。
 同型船は第十二はぶ丸同様に愛媛汽船、因島汽船には存在せず、現在私が知っているのは向田−三原航路で現役の幸運丸だけであり、これは同じ川本造船所製で元大崎汽船のペアーおおさきである。
 就航以来因島汽船のフラッグシップとして活躍した第十五はぶ丸だったが、これまで何度も述べてきた1988年1月の伯方大島橋開通に伴う航路再編、縮小により僚船の第十二はぶ丸と共に航路を新たに引き継ぐ第三セクター新会社、芸予観光フェリーに移籍した。その後、1994年に他社から船齢の若い船が編入されたため予備船に成り下がり、最後は本州四国連絡橋、しまなみ海道の全通時に芸予観光フェリーから笠岡市の藤井一彦氏に売却された。
 売却後しばらくは備後商船の常石-尾道航路の代走や様々なチャーターに使用されている姿が見られたが、最近は見かけなくなっているので再売却された可能性が高く、日本にいるかどうかも定かではない。
 
 こうして1988年1月17日、因島汽船としての航路の歴史にピリオドは打たれたのであった。

(因島汽船)