走り去った大型フェリー、今度は東九フェリーだ!
と、ところが、東九フェリーとして取り上げるにも関わらず、な、な、なんと、東九フェリー社船の写真が一枚もないのだ。それにも関わらず東九フェリーとして紹介するのはなぜか?それは、我々にとって東九フェリーのフェリーたちが特別なものであるからに他ならない。しかし、何がどのように特別なのかということは秘密であり決して明かすことはできない。断じてできん!(なんじゃそりゃ!)。
それはともかく、どれくらい特別かは我々が「フェリーとね」と「フェリーてんりゅう」を名乗るところからもうかがい知れようというもの。まあ、とにかく、東九フェリーが我々にとって何かしら特別な存在であるらしいということで無理やり納得してもらい、ここに強引に東九フェリーとしてコーナーを展開させていただこう。文句のある人はどこからでもかかってきてくれ。
さて、阪神と九州を結ぶのが阪九フェリー。それと同じノリで東京と九州を結ぶフェリーということでシンプルに東九フェリーとネーミングしたのは伝説の男、長距離フェリー界の雄、SHKの父、故入谷豊洲氏だ。彼によってプロデュースされたのが東九フェリーなのだ。
そして肝心な就航船であるが、昭和48年、幸陽船渠という当時は結構マイナーな造船所で「フェリーとね」「フェリーてんりゅう」ツインズが小倉−東京航路用に建造された。しかし、小倉港の水深問題で開業が遅れるというケチがいきなり付き、開業するも業績は振るわず、ツインズは早々に新日本海フェリーに用船に出されてしまった。その後、徳島−千葉に航路を開設していた神崎製紙系のオーシャンフェリーと合併して合理的相乗効果を狙うことになり、オーシャン東九フェリーが誕生。現在に至っているのは皆様の周知のところである。
これがフェリーとね。いや、フェリーとねだった船の写真だ。この時は大阪国際フェリーの檀皇となり大阪と韓国釜山をまだ元気に走っていたのだった。本船はフェリーとねとして幸陽ドックで誕生後新設の小倉-東京航路に就航するも早々に東九フェリーとしての運用を外され新日本海フェリーに用船に出された。その後同社に購入されフェリーしらゆりと改名され、新潟-小樽航路などに就航した。新日本海時代は他の初期新日本海フリートと共にガンガン日本海を走りまくり、ガンガン稼ぎまくり、現在ではスーパー優良大手フェリー会社となった新日本海フェリーの成長に大きく貢献した。
新日本海フェリーの発展に貢献するだけ貢献して、急成長した同社が豪華フェリーニューはまなす、ニューしらゆりを一挙建造した1987年に同社を御役御免となり、そのままセオリー通り海外に売り飛ばされると思いきや、なんと当事急成長を遂げていた韓国と大阪を結び順調な業績を上げていた韓国籍の元日本カーフェリーおおすみ改めオリンピア88の日本側ランニングパートナーとして他の候補船をおさえて抜擢されたのだ。そして韓国航路に就航後も安定した業績を上げ順調な航海を続けていたが、世間を騒がせたイトマン事件のあおりで瞬時にして航路ごと消滅してしてしまうという無念の最期を迎えてしまった。
さて、写真に目を向けると、右舷後方にランプが見えるがこれは本船が新日本海フェリーの新潟-小樽航路に就航するために取り付けられたものでフェリーとね時代には存在していなかったものだ。それと日本の煙突の間にある客室。これは1980年8月頃に増設されたものらしい。新潟航路はドル箱のトラック以外にも同社の舞鶴航路などと比較して航海距離が短いということで旅客の利用も多く、それに対応したものだろう。しかし、何分エンジンの真上、あまりここは居心地がよくなかったと聞く。なお、今回掲載した檀皇の写真は全て弓削島沖で撮影されたものである。
今度はいよいよフェリーとねのツインズ、フェリーてんりゅう。しかし、写真は後の姿フェリーすずらんだ。悲しい、実に悲しい。フェリーてんりゅうとしての本船の姿をここに掲載できないとは。本船も1973年の建造後フェリーとねと同様の経緯をたどり新日本海フェリー入りした。この船も他の純正新日本海フリートと共に日本海で大活躍したが定期航路離脱は1984年のフェリーらいらっく建造時で1987年までレギュラーだったフェリーしらゆりよりもかなり早い。しかし、新日本海フェリーからの売却は本船の方がかなり後で、予備船という形で1990年代に入っても臨時便やドック代船として活躍していた。上から3枚の写真は1988年11月26日、常石造船に預かり船として係留されている姿である。この当事はまだ、フェリーてんりゅう時代の姿をかなり保っていたと言え、ファンネルマークと塗装さえ変えれば外観的には殆どフェリーてんりゅうそのものと言ってもよかった。前部の車両搭載口はバイザーでなく観音開き。船首にドームがあった初期の新日本海フェリーフリートは別として8000総トンを越える普通の大型船でこのタイプは珍しい。本船は新日本海フェリーを抜けた後ゆうとぴあ3となるが、この際この扉は溶接され固定されてしまった。
左の写真は1991年に神田造船所で撮影された姿であるが、後部デッキにも大型者が搭載できるように改造が施されている。定期航路レギュラーを外れてかなりの年数が経過した後の改造であり、予備船にこれほど大規模に手を加えるところから考察して、新日本海フェリーがいかに財政豊かな優良フェリー会社であるかがわかる。ちなみに本船の向こうに見える煙突はクルーズ客船ニューゆうとぴあのものである。
左の写真は1995年9月18日、神田造船所にてゆうとぴあ3への改造中の姿。船名の部分には足場が付けられ、フェリーすずらんからゆうとぴあ3への書き換え工事の途中になっている。
何これ、クルーズ客船ゆうとぴあじゃねーか?確かにそう思われるだろうが、実はこの船も1975年から1977年までの短い期間だがフェリー伊豆という名前で東九フェリーの一員として東京小倉航路に就航していた。本船は1970年にすずらん丸として幸陽船渠で新日本海フェリーの記念すべき1番船として誕生、活躍後、ここでフェリー伊豆となり、再びフェリーライラックと改名の上新日本海フェリーに復帰。そして最期は西日本汽船のゆうとぴあとなっていたが、現在は海外に売船されている。
と、まあ、こんな具合だが、ほんと、ものの見事に東九フェリーの写真が1枚もない東九フェリーコーナーだったが、これもまた一興ではないかな。と、勝手に納得して終了である。スマン!!
下はフェリーすずらんの顔のアップ。ブリッジ後方の行先表示板の苫小牧-仙台に注目!東日本フェリーか太平洋フェリーあたりにチャーターに出されていたものと思われる。