続いて2005年にきそを豪華新造フェリーとしてリプレースしたばかりの太平洋フェリーだが、走り去った大型フェリーとして紹介できるのははっきり言ってうちには、いしかりとあるびれおしかない! まあ、旧きそは最近までいたから、他の船のサイトなどでも結構目にする機会が多いと思うのでまあ、よしとして頂きたい。
現在就航しているいしかりは1990年に建造された二代目いしかりであり、この写真は正確には初代いしかりと表記すべきものである。 1974年に太平洋フェリーの前身である太平洋沿海フェリーが内海造船瀬戸田工場で建造した船であり、新会社移行以前に船体延長工事と後部大型車用車両甲板増設工事を終えていて塗装以外は現在の姿が出来上がっていた。 しかし、この延長工事には無理があり、最後まで溶接個所のクラックなどに悩まされる結果となった。ツインズとしてだいせつが存在していたが、そちらは1985年に東日本フェリーが新たに開設した大洗−北海道航路就航船として売却され、ばるなと改名された。 今回展示した二枚の写真は共に1989年1月、本船が生まれ故郷の内海造船瀬戸田工場にドック入りに向うべく、因島大橋付近を航行している姿である。ドックから出た後ならいいが入る前なので船体が汚れている。
上のいしかり同様、1972年に太平洋フェリーの前身である太平洋沿海フェリーが内海造船瀬戸田工場で建造した船である。ツインズとしてあるかすが存在したが、こちらは1987年の初代きその就航に伴い、早々に海外売船されてしまった。 本船もいしかりのように船尾の大型車用車両甲板増設工事は行われており建造時とは大きく印象が変わっている。 それから、左の写真をみればわかるが、船首には名古屋名物金のシャチホコが取り付けられている。これは太平洋沿海フェリー時代からのもので新会社になっても取り外されることはなく存置されたが、それはいしかりも同様である。 しかし、新会社化後に建造された初代きそからは取り付けられることはなかった。まあ、せっかく付いてるもんだから、あえて取り外す必要はないだろうと新会社化以降も存置されたのだろうが、これを維持するためにドックに入る度に、これ用で余分に金色の塗料が必要だったわけだ。 本船は同じく内海造船瀬戸田工場で建造された近海郵船のまりもがタイプシップとなっており、まりも以外にも近海郵船のフリートであったさろま、ましうが本船と準姉妹船という関係にある。一方でいしかり&だいせつはこれらのタイプの拡大発展型という位置にあると言える。 写真はきたかみが就航する直前、1989年2月25日、太平洋フェリーとして最後の入渠に日立造船因島工場にやって来た時のものであるが、本船がこの工場でドックに入るのはこの時が最初で最後となった。 一方同じ日立造船の工場でも太平洋沿海フェリー時代は尾道市の向島工場にはツインズのあるかすも含めよくその姿を見せていて、80年代の前半に製作された大林監督の映画にも同造船所の岸壁にいる姿が出てきたりする。
日本国内で、そして、太平洋フェリー社船として、最後の入渠による作業を全て終え、翌日の出港を待つばかりとなったあるびれお。夕暮れの中で静かにたたずんでいる。
当初、ファンネルと後部マスト灯用マストが一体となっていたが、海上法規の改正によりそれを撤去し、代わりにデッキ後方に新たにマストを立ち上げて、それにマスト灯を移設したので、後部の大型車用車両甲板増設工事と相まって、デビュー当時とはかなり印象が変わった。
付録として太平洋フェリーの前身である太平洋沿海フェリー時代の写真を2枚紹介しよう。上は初代いしかりのツインズでだいせつ。写真は1980年内海造船瀬戸田工場で船体延長工事を受けている最中の姿である。
この当事はファンネルも後部マストと兼用のタイプとなっており、先に紹介したいしかりも、あるびれおも共に以前はこれと同様のファンネルだった。
下は1983年に弓削沖で撮影したいしかりかだいせつかはわからないが、まだ太平洋沿海フェリー時代の遠影である。内海瀬戸田か日立向島に入渠に来た後らしく、沖に錨泊して名古屋に帰るべく発進の準備をしている姿だと思われる。
この日は大雪が降った後で、それらがまだ向かいの横島や常石方向に残っているのが見える。