大洋フェリー

走り去った大型フェリー

昭和48年に林兼造船で建造した7000トンクラスのフェリー、「おりおん」&「ぺがさす」を投入し北九州の苅田と大阪南港を結ぶ航路を開設したのが大洋フェリーだ。
長距離フェリー新航路開設ブームの真っ只中での開業であったが、業績は当初から苦戦の連続で、そんな中、昭和54年、大きなてこ入れ策として、当時日本一知名度が高いフェリーと言っても過言ではない、「さんふらわあ」&「さんふらわあ2」を日本高速フェリーから購入し、大型豪華路線で勝負に出たが結果は散々なものだったんだ。
そして昭和59年、ついに同社は単独での運航を断念し、お隣の新門司と大阪南港を結ぶ航路を運航していた名門カーフェリーと合併し相乗効果を目指すこととなった。で、新たに名門大洋フェリーが設立され、この時点で大洋フェリーの名は消滅。同時に北九州側の発着地も新門司に集約されたため、大洋フェリー本来の航路も消えてしまう結末を迎えている。
ほんと、悲しい最期だぜ・・・。

「ぺがさす」
昭和48年3月に下関の林兼で建造されたもの。昭和54年にさんふらわあ兄弟に航路就航船の座を奪われた後、九州急行フェリーに用船され、せっかくの旅客設備を封印し、苅田と神奈川を結ぶ貨物フェリー航路に就航した。 写真は昭和54年の用船後の姿で、一般旅客を相手にしないということで見てくれそっちのけの、サビまくり船体で走っていたんだ。そして昭和58年に九州急行フェリーが自前のRORO船、日産みやこ丸を建造した関係で用船の任も解かれ海外に売船されてしまった。

「おりおん」
昭和48年3月に建造されたぺがさすの双子の兄だ。本船も昭和54年に自社の航路を追われたのだが、こちらは松阪−東京航路のフジフェリーに用船されるなどした後関西汽船に移籍しフェリーにしき丸となり関西-別府航路に就航した。 ところが皮肉にも名門大洋フェリーの設立に伴い、かつて自分を追い出したさんふらわあ兄弟が関西汽船へ放出されることとなり、それとj交換されるように本船が名門大洋フェリー、つまり、かつての大洋フェリー系に戻ることになったんだ。 おまけに名門大洋に移るにあたり、一度は捨てたおりおんの名を再び名乗ることとなり、新門司-大阪南港航路へ転進。しかし、昭和63年に同社が新造船を投入したのに伴い海外に売船された。

「さんふらわあ」
現在までその名が脈々と受け継がれる、まさにファーストガンダムならぬファーストさんふらわあ。あまりにもドメジャーなネーミングはそれそのものが大型長距離フェリーを表すと言っても過言ではないほどだ。 昭和47年1月に川崎重工神戸造船所で竣工しており、建造当時は国内最大最速のフェリーで、船内設備もハイグレードで、まさにそのデビューは世間をあっと言わせた。 大洋フェリーでのデビューは昭和54年だが、就航後船尾両サイドのランプを撤去し、代わりに船尾中央を開口。新たにランプを設置し、スターライトプールと呼ばれる屋内プールなど豪華な設備を追加する工事も行っている。 しかし、それらも全て裏目で、ますます航路の実情に合わない船になってしまった。なお、この大洋フェリー時代はまだ船首マスト灯用の邪魔くさいマストが建っていないので船首部は実にスマートである。それとバウマークとしてかつておりおん、ぺがさすが船側に描かれた流れ星が追加された。

「さんふらわあ2」
言うまでもなく「さんふらわあ」の相方である双子の弟だ。竣工は兄貴の4ヵ月後の昭和47年5月で、その他の概要や歩んできた道は全て兄貴と同じである。たえず2隻一緒に変遷を遂げてきたわけだ。 ところでこのさんふらわあ2。私が子供の頃苅田の埠頭に見に行った時に気がついたのだが、船首側面に書かれた船名、そこには無論さんふらわあ2とあるのだが、間近で見ると何か別の名前が書いてあったみたいな跡があったのだ。そして、それは明らかに「さんらいず」と見てとれた。 後になって聞くところによると、本船は当初やはりさんらいずという船名になる予定だったらしく、建造途中でそれが変更になり「さんふらわあ2」となったそうだ。

ここでは大洋フェリー時代の「さんふらわあ」のパンフレットの一部を紹介しておこう↓

私の母親の実家が苅田だった関係で盆などに里帰りした際は必ずフェリー埠頭にフェリーを見に行っていた。 苅田港の全盛時には大洋フェリーだけでなく神戸航路の西日本フェリー(後阪九フェリー)も発着しており、ターミナルはまさに「客船」のターミナルであり、そこから人々が旅立ってゆく港の華やかさがあり、幼い私の心をときめかせていたものだ。 苅田港から旅客長距離フェリーが消えて何年か後、久しぶりに港を訪れてみると、稼動橋は朽ち落ち、雑草が生い茂る、かつての輝きの欠片すらない状態で胸が痛くなったのを思い出す。 現在大洋フェリー撤退から約四半世紀の歳月が流れ、貨物船やRORO船などが出入りするだけの冷たい工業港になってしまった苅田港がそこにある。永遠に帰らない港の輝きの日々よさらば。

photo taiyoferry m.fukui