走り去った大型フェリーというか、ここも大洋フェリーなどと同様、会社そのものが走り去ってしまったフェリー会社である。設立当初からずっと苦戦を続け、シーコムフェリーを経て現在はマリンエキスプレスとなっており、経営者が変わっても相変わらず苦戦している状況に変わりはない。
この会社の最大の敗因は当初からパッセンジャー&乗用車重視戦略をとったことで、同社だけでなく同様の戦略をとったフェリー会社はことごとく敗北している。さらに同社は新造でパッセンジャーフェリータイプ船を大量に建造してしまったために、早いうちから船が航路実情に合わなくなり処分しなくてはならない状況に追い込まれたのも負債の増大に拍車をかけた。
その後またまた1万トンクラスの新造船を擁して新たに開設した大阪-志布志航路も頓挫し、やることなすことが全て裏目に出る印象を我々に与えていたうえに、自社船が二度も沈没するという不運も重なった。
そんな中今年(2005年)遂に、後を引き継ぎマリンエキスプレスが運航していた京浜航路が廃止となり、会社も解散が決まっている。長い間苦しみながらも存続してきた歴史にようやくピリオドが打たれる形だ。
1980年3月の日向フェリーターミナル。左が京浜航路美々津丸で右が大阪航路せんとぽーりあ。
美々津丸。1974年に足の遅いふぇにっくすクラスに代わって川崎-日向間を2隻でデイリーサービスを可能にするために内海造船で建造された当時の国内最速フェリーである。サイズも前任船より大幅に拡大され、ほぼ1万トンとなった。ツインズとして日本鋼管で建造された高千穂丸が存在した。現在はフィリピンで余生を送っている。
美々津丸のGA(一般配置図)の一部。ここでは全てを紹介できないが、4層にもわたりパッセンジャースペースがとられ、この時点でも乗用車旅客思考が捨てきれていなかったことがわかる。
せんとぽーりあ。同社で最初に建造されたタイプで同型が本船を含めて4隻存在する。当初は日向-川崎航路に就航していたが後に日向-大阪航路に移り、同航路のリプレース船登場までそこで全うした後、海外売船された。
えびの。カーゴ搭載能力を強化すべく日向-神戸航路用に太平洋沿海フェリーより買船した元あるなするである。デイリーサービスするための相棒として名門カーフェリーから購入されたフェリーかしいを改名したさいとばるが存在したが、あえなく事故で沈没。後にフジフェリーから購入された旧いせ丸をみやさきとして新たにタッグを組み比較的長い期間を神戸航路を走り続けた。一時は志布志-大阪航路を頓挫したおおすみに役目を譲り係船されていた時期もあったが、おおすみの売却に伴い航路に復帰した。現在は無論海外だ。
さるびあ。日向-広島航路用に神紀フェリーから買船してきた旧紀州である。広島航路には広別汽船から買船した鶴見をふたばと改名して投入していたが事故により沈没。急遽本船が購入される運びとなったものだ。なお広島航路は本船1隻によるデイリーサービスを行っていたのでランニングパートナーは存在しない。
日本カーフェリーが宣伝のために製作した下敷き。地図におおまかな各航路船の通過時刻が記されている。
で、左が上の下敷きの表側。富士をバックに進む高千穂丸のパネル仕様である。
1980年3月の日向フェリーターミナル。
この細島港もフェリーの発着が宮崎港に移った現在は苅田港同様、華やいだ旅客港から無機質な産業港に成り下がってしまっている。まさに、夢のあとだ。
マリンエキスプレスの消滅により大阪航路と貝塚航路を擁して新たに設立された宮崎カーフェリーが日本カーフェリーの残党として唯一存在する現在はただ、同社の繁栄を祈るのみである。
さらば、日本カーフェリー。
別のパンフレットより、神戸航路のみやさき(上)と大阪航路のはまゆう(下)。はまゆうは旧宮崎カーフェリー組である。