Pillers tone 柱石 

    (17)麻雀幽霊



 世の中には、霊の世界や幽霊の存在などを信じる人が多くいる。信じるどころか「じっさいに見た」、「意思の疎通も出来る」と云う人もいるくらい。

 そんな人たちに、「そんなもん、あるわけない」と力説しても、互いに立証が不可能である以上、無意味な応答の繰り返しになるだけ。そこで結論としては、信じる人には存在する。信じない人には存在しないというしかない。

 いわゆる麻雀の流れ論も、これとよく似ている。
 麻雀は偶然性に左右される度合いの強いゲームである。その偶然性の偏りによって、ツモ(牌)やツキの流れなるものがいかにも存在すると思われるような現象が生じる。そこで存在を信じる人から、ツモ(牌)の流れがどうとか、ツキの流れがどうとか云うオカルト論が登場する。

 そんなオカルト談義などσ(-_-)は興味はないので、いままでこの問題では深くコメントした事はなかった。川の流れのようにで遠回しにコメントしたことはある。

一口に「流れ」と云っても、3種類ある。
(A)ツキの流れ
(B )心の流れ
(C)ツモ(牌)の流れ
 の3種類だ。
そしてオカルト論では、この3者がゴッチャになって論じられる。と言うより、云ってる方も、自分が何を言ってるのか分からないのかもしれない。

 偶然性には偏りが必然的に存在する。この偏りを人はツキと呼ぶ。この偶然性の偏りが、いろんな形で現れてくるのが、いわゆるツキの流れである。このようなことは「ツキの法則(谷岡一郎・PHP新書)」をはじめ、多くの啓蒙書でで論証されている。

 また(B)心の流れ、これが無ければ心理学という学問は存在しない。すなわち(A)ツキの流れ、(B)心の流れは実在する。しかし(C)ツモ(牌)の流れなんてものは存在しない。

 牌は積まれた時点で、存在場所が確定する。たとえ或る種類が或る位置に固まりとなって存在しようと、あるいはそのまま摸打すれば特定のプレーヤーだけ同種牌をツモるような存在になっていようと、そこに牌の意志もなければプレーヤーの意志もない。あるのは単なる偶然の偏りである。

 逆に云えば、もし或る牌種がプレーヤーの意志によって或る場所に存在するのであれば、これは偶然の偏りではなくイカサマという。

 そこでまず(A)ツキの流れであるが、たとえ偶然性の偏り=ツキは必然的に存在するものであっても、人為的に左右できるモノではない。仮りにツキやツモの流れを意志の力で左右できると云う人がいたとしても、それは超能力者か霊能者。普通の人間には及ばぬ能力を持った人々である。

 しかし仮りにそのような能力者がいたとしても、その能力を元にした麻雀戦術論などまったく意味がない。特殊な人間しか持ち合わせない能力を元にした戦術論など、一般人に理解できるわけがないからだ。

 もちろんそれが、修行すれば誰でも身に付く能力であれば話しは別。しかしそれなら、その能力を元にした麻雀戦術を論じるよりも、いかにしてそんな能力を身につけたかという修行法を解説したほうが、はるかに役に立つ。

 この偶然性の偏り=ツキは、一般人には事が済んでからしか認識できない。東の1局で思いがけない満貫をアガり、(お、今日はツイてるな)と思うのはプレーヤーの勝っ手な思い。次局で役満貫を打つかもしれない。

 もちろん物事が或る程度進んだ状況でバカヅキしていれば、(このツキは本物だ!)と思うことはあるだろう。しかしそれにしたって最後まで続くかどうか保証はない。終わったときにはスッテンテンなんて話しはいくらでもある。

 いずれにしてもツキの流れが現実に存在するものであっても、普通の人間には左右できない and 事が済んでしまってからしか認識できないモノである以上、それを元にした戦術論など意味がない。

 そして(C)ツモ(牌)の流れ
 前述したように、こんなものは存在しない。しかし偶然性の偏りによって、あたかもそのようなモノが存在するかのような現象は生じる。

 そこで或るプレーヤーが索子を連続してツモったりすると、「お、索子の流れか
 ジュンチャンサンシキを嵌八萬でテンパイ。ところがなんと八萬は3枚切れ。しかし(いや、このツモはアガリに向かう流れだ) そう信じて即リーを打つ。見事一発ツモアガリ。(うん、オレには牌の流れが読める!) そんなもん、アガリに向かう流れでもなんでもない。たまたま八萬がそこにあっただけの話しだ。

 逆に自分にとって不必要な牌ばかりツモれば、(う〜ん、今日はツモの流れが悪いな)
 自分にとっての不必要牌は、たぶん他家の必要牌。他家は、それがツモれずヒイヒイ云ってる。そんな絶好ツモを自分の都合で(悪い流れだ)。

 早い巡目で絶好の三門張をテンパる。どう考えても満貫ゲット。しかし待てど暮らせどカケラもツモらん。挙げ句の果てにド放銃。(ああ、今日はツイとらん)。

 牌には、意志も無ければ流れもない。誰がどこで何をツモろうと、その牌は山を積まれたときからそこに存在する。プレーヤーが何を思ってツモろうと、またそれがプレーヤーの必要or不必要牌であろうと、そのプレーヤーはその牌をツモる。

 それがたまたまそのプレーヤーの思いと一致したとき、それを牌の流れと思い込み、自分の都合でうんぬんと云う。

 ゴルフで30センチのパ−パット。軽く打ったのに行き過ぎた。次ホール、同じく30センチのパーパット。同じ30センチでも、前のホールとは関係ない。ところが前ホールで打ちすぎたイメージが心に残っている。そこで今度はチビって大ショ−ト。これをゴルフでヒキズリという。もちろんヒキズリはいい面でも出る。

 これは麻雀でも同じこと。このような思いの連続が、(B)心の流れ、心の動きである。もちろんこのような思いは、個々のプレーヤーがそれぞれ勝手に思うこと。ところがこの勝手な思いが現実のゲームを支配している。

 相手を弱いと思う。ツモの流れが良いと思う。ツイていると思う。となれば、どこそこ積極的に打ち回す。

 相手を強いと思う。ツモの流れが悪いと思う。ツイてないと思う。どこそこ1打1打が慎重になる。


 心の動きは自己の内面。相手には関係ない、というのは大きな間違い一摸一打、以心伝心。それは卓上で融合し、その卓固有の雰囲気を作り上げる。それが形となって打牌に現れ、ゲームを左右する。これが麻雀の流れ、幽霊の実体である。

 (A)ツキの流れ、(B )心の流れ、(C)ツモ(牌)の流れは、まったく非相関。本来、3者に何のつながりもない。しかし心の動きによって、同じツモでも良くも悪くも感じる。場合によっては、不ヅキもツキに変化する。(゚0゚)

「ツキの流れだ」、「ツモ(牌)の流れだ」と云ったところで、すべてを支配しているの心の流れ、心の動きである。

      骰子何霊,権在闘者(シャイツホーリン、チョワンツァイトーチョ)
      サイコロは無心、勝敗は競技者の心にある。

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