Manner 牌品

     (20)闘牌フォーム 2


麻雀の殿堂で紹介した空閑緑の論考。その2
※麻雀専門誌「麻雀春秋(昭和6年1月号、日本麻雀連盟刊)」掲載。

 1,930AP(昭5)の論考なので、原文は旧漢字や旧仮名使いであるが、新漢字・新仮名使いに直した。また不明瞭な箇所や読句点などを修正した。


第五 理牌の利害

 各自、おのおの配牌をそろえる。これを理牌と称えるが、理牌はある老巧の域に達すると、わざわざはやらない。しかしいかに老巧でも、わざわざ理牌しなくても自然のうちにできてゆく理牌はやつている。それは決してその人の老巧さを減殺するものでない。むしろ聴牌の具合を早く読み取る点や動作の敏活を尊ぶ上において、自然から生ずる理牌は奨励してもいいことだと思ふ。

 わざと理牌しないて強いて自分の手牌を読みにくいものにしておくことは、うしろで誰かが参観でもしているとき、多少みずからの老巧さをブルといふ以外にたいした利得は伴わない。しかし習慣的に牌をとびとびに散在せしめておいた方が勝手がいい人にいたっては、理牌することがかえって苦痛であろうから、このごとき場合でも、あえて理牌を強いるものではない。

 いよいよ競技の火蓋が切られる。まづ親がもっとも不要とする一牌を打ちだす。この一牌は、なるべく敏速に打つことが必要だ。といふのは麻雀は所要時間長くかかると人々が思ってるほど長くかかるものではないことを示す一策でもあるからだ。

 親の第1打の早いことは、南家の動作を促進し、次に西家、北家と、次々の打者が相次いで敏速になるように緊張する。せっかく親が敏活にでた以上は、次々の打者も劣らす敏速に応じなけれは無意味だ。これがために各自、捨て牌の用意を常に怠ってはならないから、まづザッと一通り自己の配牌に目を通したあと、自然のうちの理牌は肝要になってくる。

 そこで最初、各自が井圏から摸してきた牌を自己の前にならべるとき、十三枚1度に立てる人と、四枚づつ三度に立て、最後の1枚を手牌右端にくっつける人がある。この二流のどちらがよいとは言えないが、菊池寛氏などは十三枚を一斉に立てるときの気持ちはあたかも恋人のラブレターを披くような気持ちと形容している。しかし時間からいえば、持ってくるたびに立て、牌姿を一瞥してだいたいの見当をつける方が遙かに有利であらう。

 すでに劈頭に牌姿を一瞥した。これがために親ならば、いつでも不要の1牌打ち出せる。南家ならば親に次いで素早く壁牌を摸し来たり、はじめから不要と予定しておいた牌、またはいま摸して来たもっとも不要の牌を打ち出す。

 おのおのの動作が早ければ早いほど、自己の手牌を理牌している暇はない。しかし自然のうちの理牌というものは、慣れれば案外楽にできるものだ。私は繰り返しこの自然理牌を唱道している。
これに反し、最初配牌を差し替え入れ替えしてから第一打牌を打ち出すような初心者くさい動作は、努めて避けねばならぬことだと思ふ。

第六 摸牌と打牌

 順番にしたがい、壁牌から1枚づつを摸してきては不要の1牌を捨て、あるいはいま人の捨てた牌が自分に必要なら、摸すかわりに貰う方法もある。幾たびか同じことを繰り返し、十三個の手牌を十四個にして和る。この動作が競技の重心である。

 この競技の仕方は相当の技量と運と感で、あるいは勝ち、あるいは負けもする。しかし運は誰にも回れど技はしからず、さらに感の働きは時に運を捉えもし、時に逸することもある。また感によって技の発露の遺憾なきことを得ることもある代わりに、あるいはせっかくの技も感の悪さにて台無しにすることさえある。

 その間に処すべき技の錬磨、上達の方法をみずから研究し、会得するために幾多の経験を積むことは雀士にとって必要であるが、ここでは闘牌フォームという題にふさわしい摸牌、打牌の型を述べることにしよう。

七段 李 天公 流


 李 天公氏は中指で摸牌する。同氏の指は普通より大きいので、ある意味で不器用であるはずなのにすこぶる器用である。壁牌から摸す間に早くもその何足るかを認めるので、これを捨てたくなければ、キリッと回して手牌の右端に立てる。そして手牌の中程の牌を1枚引き抜いて捨てる。もし摸して来た牌が不要だとすると、いきなり指先でクルリと回して河中に捨てる。これは誰もが行う型であるが、ことに李 天公氏の天品は広く一般に認めさせたいものがある。

六段 長尾 克 流


 ライオンというニックネームで有名な長尾氏の打牌ぶりは天下一品であろう。氏と同じく中指で摸牌する。それが不要であるとき直ちにクルリとひっくり返して河中に捨てるとき、あの荒々しいライオン氏の指先の技とは思えない美しい牌さばき振りが見せられる。

六段 天 忠定

 天 忠定定氏の特徴は、肘を張らない点にある。摸牌はやはり中指でする。打牌は長尾氏ほどの綺麗さはないが、早いことにおいては優れている。それは長尾氏の場合は、摸牌したあとに念のため、目で見ることが往々にしてある。

 天 忠定氏の場合は、ほとんどというか絶対に目ではみないと言えるほどで、不要な摸牌を捨てるのがすこぶる敏活だ。もし長尾氏の牌さばきが綺麗な女性的と評するなら、天 忠定氏のは瀟洒な男性的と言えるであらう。

六段 前島 吾郎 流

牌歴二十五年で有名な前島氏の摸打ぶりは、支那仕込みそのままの豪壮な打ち方で、動作も大きくゆるやかだ。また緩やかな中にも覇気のある快打を放つ。そこに前島氏の特徴が見える。

八段 空閑 緑 流

 筆者の場合、摸牌は親指でする。それだけスピードは中指の人より速いつもりだ。不要ならば指先でひっくり返して河に捨てる。その捨て方は中指で摸牌する人と何らの違いもない。また摸牌だけでは不安心なので、念のため目でみて確認することもある。しかし自分が摸牌だけで不安心なのは万子の或るものに限る程度だから、たびたび目で見て確かめる必要はない。

 そこで摸牌から打牌にうつる動作の敏速さにおいては、自己の流儀をもっとも妥当として尊重している。ただし根が不器用だから、長尾氏のような綺麗な牌さばき振りは百年経っても真似られないと心得ている。

 さて指で何であるか知る摸牌は、それほど必要かといえば、もしこれを試みるために動作がキザに流れたり、時間がよけいにかかるようなら、むしろ奨励したくない。いわんや摸牌だけを行い、目でたしかめないために大切な牌を誤って打ち出したり、また違った牌を誤って残したりするようなことがあっては、まさに摸牌の余弊といわねばならぬ。

 河中に牌を打ち出す打牌ぶりは、その牌の何であるかを誰にも分かるようにハッキリした動作で、しかも静かに敏速に打つことが雀品からいっても一番いい。その牌さばきの器用、不器用、あざやかか否かなどいささかも気にする必要はない。

 この頃はどこのクラブ、どこの家庭に行っても雀人一様に雀技が上達、円熟しているのに驚かされる。しかも技の円熟の余裕によって、摸牌ぶり、打牌ぶりがいずれの先輩に見劣りしないほど進歩している有力な雀士をときおり発見することを大いに心強く思ってる。

 次は「第七 競技心得」篇に入る。

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