本名・空閑知鵞治(くがちかじ)。日本麻雀草創期の大先人で、日本麻雀連盟の創立者。
山東鉄道(秘書課長)退職後、中国にて義兄・田中末雄と事業を営む。事業の関係で英国に3年ほど滞在したのち、大正12年、二十数年振りで帰国。郷里福岡県にて衆議院議員に立候補するも諸事情により中止。
大正13年、家族を郷里に残し、単身上京した。同年夏、四谷に東京麻雀会の看板を揚げ、無報酬で家庭麻雀の出張教授などを行った。大正14年夏、丹後・宮津の旧藩主、本荘(ほんじょう)子爵家に手ほどきしたのが引き金となり、上流家庭に麻雀熱が広がった。
翌15年正月、報知新聞の依頼により趣味欄に「麻雀の話」を数回連載した。これが一般に麻雀が知られるきっかけとなった。
同年、家族の上京を機会に四谷区仲町に移転。翌昭和2年10月1日、機関誌「麻雀春秋」を創刊(ニュース型)。のちに銀座尾張町、上海亭2Fに移転して東京麻雀倶楽部を設立した。
そして昭和4年、東京麻雀倶楽部を日本麻雀連盟と改称。当時、碧海康雄、山田正、李天公(栗田貢)、林茂光(鈴木郭郎)、五味貞雄、杉浦末郎等が出入りしていた。
昭和3年5月15日、NHKラジオ「趣味講座」の一つとして「麻雀の話」を放送する(昭和4年3月、北隆館より刊行された「趣味講座」に収録される)。
昭和7年、日本麻雀連盟を中心に実業麻雀連盟(代表・杉浦末郎)、本郷麻雀会(代表・高橋緑鳳)、昭和麻雀会(代表・前田清)、銀雀会(代表・榛原茂樹)等、各地の麻雀団体が合併、大日本麻雀連盟(今日の日本麻雀連盟の前身)が組織されるのを機会に会長を退任した。
以後も引き続き大日連の中央委員長、機関誌「麻雀春秋(雑誌版)」編集長として寄与する。しかしやがて運営上の問題から袂(たもと)を分かち、改めて西銀座越後屋ビルに日本麻雀聯盟を設立した。
その後、麻雀の普及にともない、トップ賞の在り方などで警察より賭博性が指摘されると、中心となって東京麻雀粛正同盟を設立。麻雀の健全な発展に尽力した。
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