軍事會議と麻雀
先年の舊暦の正月のこと、張作霖がまだ大元帥として北支邦に羽振りを利かしてゐた時分で、北京の西磯にあろ順昭承王府に納まり込んで王様然たる生活をやってゐた當時の話である。
そのころ南支郷の方では蒋介石の国民黨の革命軍は既に楊子江以南を完全に占領して天下は南北に二分された形になり、何應欽を絶大将にした北伐軍はもう徐州あたりまで攻め寄せてゐた。
そして蒋介石、馮玉祥、閻錫山の三巨頭の策戦會議が徐州で開かれたりなんかもして、南北の總決算的な戰爭の機運が日増しに濃厚になり、北京の全域は何とも知れぬ物騒がしさに包まれてゐた。で、その年の北京の正月はいつもの正月に似もやらす火の消えたやうに沈みきつて、底気味の悪い空氣が漂つてゐた。
そのころ順承王府では、しげしげと軍事合議が開かれた。
山東の張宗昌、吉林の張作相、黒龍江の呉俊陸などといった奉天派の将軍連が一人残らず北京に集まつて来た。猪玉○なんかは前線の司令部にゐたのを呼び寄せられて取るものも取り敢えず駈けつけて来た。
奉天派の最後の態度、すなはち進んで攻勢に出るか、留まつて京兆の地を守るか、それとも退いて東三省に去るかがこの會議で決定されるだらうといふので、他人の注目は期せずしてこの會合に集まった。殊にコウロギみたいに神経のするどい北京の日本の新聞記者たちは全力を挙げて警戒線を張った。
順承王府の正門には抜身のピストルを光らした衛兵が立ちはだかり、二の門を入つた廣場の両側には機関銃を五六挺づつ配置して、その警戒振りの物々しさは戦地の軍司令部を思はせる程だった。それだけ會議の重大性が誰にも感ぜられた。
會議はたいてい晩餐のあとで徹宵して行はれるらしく。新聞記者たちは交渉處の中の記者團接待室に詰めてゐるわけだが、會議がはねて一同が家に帰るのは翌朝の十時ころになるので、記者團はすつかり参ってしまった。
會議が終ると、参列した連中は誰もが日を真っ赤にして、さも疲れ果てたやうな顔つきで、自動車によろけ込むやうにして家に帰っていった。途中で新聞記者に捕まっても、一切口をつぐんで「今は何もお話する時期ではない」と云ふばかりで逃げ出してしまふ。
こんな有様なので、會議の内容がよほど重大なものに造ひないことは誰にも感じられた。で、新聞記者たちは、すっかり亢奮して、何とかして中の模様を知りたいものだと苦心惨憺した。ところが参列してゐる要人連は、張作霖から手厳しく申渡されてでもゐるのか、會議場でも、家に帰っとこを訪ねても、まるきり話して呉れない。
先方がヒタ障しにかくすほど「こいつア大物だ」とのニュースメン的な予感はいよいよ増大してゆく。記者團は連日連夜血まなこになって活躍を続けた。しかし三日たっても四日たつても眞相は依然として掴めない。
ところが或る日、とうとうこの謎の解ける日が来た。といふのは、記者の一人が、張宗昌を訪ねて話し込んでゐるうちに、張宗昌がついウツカリして「昨晩は全く弱っちゃった。まるっきり手がつかないんだ」と口をすべらしたのである。これを聞いたその記者は、さすがに雀黨のひとりだつたので、直ぐ頭にビンと来て、この一言で謎の全部々すっかり解いてしまった。で、挨拶もろくすツぽしないで横っ飛びに走り出して、同僚たちの集つてゐる所に殺倒した。
「オイ軍事會議なんて一生懸命になるのは止せ。奴っこさん達の秘密商議の円容は、すっかり種が上ったぞ。大評定なんて真っ赤な嘘だ。エーオイ、何だと思ふ。いづくんぞ料らん。コレだぜ」と牌を自摸して棄てる手真似をやって見せた。これを聞いた一同は、それこそ、親満貫を喰ったやうに目を見張つて「ダア」と参った。
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